アラビアオリックス Oryx al-Mahaa

       野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshii(3)

 

キーワード:

オリックスOryx・Mahaa  野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshii4種

アフリカオリックス(Oryx gazella)   アラビアオリックス (Oryx leucoryx)。

両オリックスの相違    一角獣Uniconeの原型

アラビアオリックスの方は綺麗な白色    「砂漠の真珠」

雄の荒い性質  性欲の激しさ    幼獣の姿は牛に似る

アラビアオリックス の名称  別称3種    綽名・クンヤ(尊称)2種

アブー・サウラウAbuu・Sawla“「アロエの父」

 

 

本ブログではオリックスを主体に述べるはずであった。オリックスはアラビア語ではマハーal-Mahaa と称される。しかしアラブ民俗学上、オリックスは野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiの一種とされる。野生牛はオリックスであるマハーだけではなく他に3種あるとされる。

すなわち野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiには4種あり:

①マハー al-Mahaa  Oryx Beatrix、一角獣の発想の元。

②アッイル al-Ayyil アッイル鹿、ベゾアールア鹿 ベゾアール石・胃石が採れる

③ヤフムール al-Yahmuur Cerves capreolus ダマジカ(Cervus dama)の亜種

ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)

④サイタル al-Thaytal Capra jaela ヌビア・アイベックスの類。

 

主題のオリックスを後回しにして、一回目の前々回のブログ稿では②のアッイルal-Ayyil(アッイル鹿、ベゾアールア鹿)を紹介した。そして二回目の前回は③ヤフムール鹿al-Yahmuur(ペルシャダマジカ)及び④サイタルal-Thaytal(ヌビア・アイベックスの類)とを採り上げた。

 

そしてようやく第三回目で本題であるオリックスを扱えることになる。

想像上の動物「一角獣」Unicornの原型とされているオリックス。オリックスOryxは外来語であり、我が国には生息しないし、それに関する情報・伝説も皆無であり、かろうじて西欧から伝えられ知られる名前であった。

幸いプロ野球の球団名に用いられ始めて広く知られるようになったが、未だオリックスと聞いて,それがどんな動物かの実態イメージが容易には浮かばず、知名度が上がったとは思われない。

 

オリックスはアラブ世界では古くから「野牛」al-Baqar al-Wahsiiとの名称で知られていた。生物分類でもウシ科に属している。アラブ世界では牛のように大型獣で、大きな角も二本伸びているので、牛の仲間と思われていたのであろう。ましては人間の眼にはあまり触れられない人里離れた平原、砂漠、丘陵、山岳地帯に生息していたので、遠目から見ると、大きな図体と角の直立した姿は牛の一種、と思われていたと思われる。

 

 

 

          オリックス2種

アフリカオリックス(Oryx gazella)とアラビアオリックス (Oryx leucoryx)。前者の方がより大型であり、後者の体毛色は白く、その特徴はまっすぐな角と共にアラブの語り草となっている。渇水に対しては野生種の中では最も強い。

両図ともバハレーン政府発行Mahmiyyah al-“Ariin「アリーン自然保護区」n.d.より。左はp.10、右はそのおもて表紙。

 

 

     アラビアオリックス (Oryx leucoryx)と

                アフリカオリックス(Oryx gazella)


オリックスはウシ科オリックス属に分類される偶蹄類。大きく分けて2亜種がある。アフリカオリックス(Oryx gazella)とアラビアオリックス (Oryx leucoryx)とである。

アフリカオリックスは、サハラ以南から南アフリカにわたって生息している。別名ゲムズボック、ケープオリックスといわれる。

 もう一種Oryx beisa ベイサオリックス も存在するが、このアフリカオリックス、ゲムズボックの亜種とされる。

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一方アラビアオリックス (Oryx leucoryx) は、サハラ砂漠の北側、アラビア半島、東部ペルシャにかけて生息していた。近代になって角目当てなどで狩られ、さらに交通網の発達によって人跡未踏の地にまで自動車道が通され、張り巡らされ、銃と車によって野生種は一時絶滅の危機に瀕した。

しかしアラビア半島の王国や首長、富豪たちが、元来動物好きであったから、私設の動物園を持つ者も多くあり、何頭づつかは飼育を続けていた。そして絶滅危惧種と聞き及ぶに至って、保護育成に率先協力し合った。

欧米や旧宗主国などの保護団体や、湾岸諸国がアラビアオリックス の再生化・再増殖化運動に取り組み、散在して生き残ったものや、各動物園や個人で飼育している人などから提供されて、その運動が実を結んで絶滅の危惧からは救われた。アラブ諸国の国家的規模での保護育成によって種の保存可能数まで回復してきた。

 

アラビアオリックス (Oryx leucoryx)とアフリカオリックス(Oryx gazella)との形態的違いは、後者が体長90-193cm、尾長41-47cm、肩高110-130cm、体重130-203kg、角長93-96cmに対して。

アラビアオリックスの方は体長160 – 178㎝、尾長30-40、肩高76 - 86cm、体重65 – 75kg、角長50-75cm、と小型である。

体毛色の全く異なり、アフリカオリックスが動物に多い褐色系統であるのに対して、アラビアオリックスの方は綺麗な白色となって「砂漠の真珠」とも称されている。

角は両者ともに、まっすぐ伸び先端に少し曲がりが見えるだけであり、その長いまっすぐな角は一角獣Unicornを想起させる。角は武器ともなり、捕食動物に対して、槍の役目をなし、自らも、またハーレムの母子を守る。その槍としての研鑽は、常日頃の雄同士の角突きあいから習得される。繁殖期になれば、狂暴さを増し、己の生死をも賭するほどすさまじい。

真っ直ぐな角は同時に、人間の武器として、槍の穂先にも用いられていた。

 

中世アラブの文人ジャーヒズは『動物の書』の中で、「その角の鋭さは武器となり、猛獣類の鉤爪、牙に相当しよう」とのべている。(Jah.Ⅶ132)

 

体毛色をもう少し部位を含めて見ていこう。アフリカオリックスが全体的に薄い褐色であり、顔面には鼻面から口の上の吻端にかけてと、眼の下部から細く黒い筋斑が入り、下部で繋がる。そしてこの黒斑は腹面に帯状に連続して行き、頸部から左右脇の腹面、さらに後肢上部に至るまで見られる。頭部の額から顔上面は白く、また胸部から腹部、四肢の毛衣は白い。四肢の下部前面に黒い斑紋が入る。尾の毛衣は黒い。

これに対してアラビアオリックスの方は、体表は全身の毛衣の多くが白い。この毛色の違いで両者の違いは明らかである。より暑熱地帯に住むので進化適応した結果であろう。これにより長い白毛を倒し横に寝かせて太陽光線を反射し、熱を吸収しづらくしていると考えられている。しかしその白い体毛の下の皮膚の色は暗褐色をしており、寒い冬の時期、白い毛を立て、中の黒い皮膚に日射が直接当たるようにして体温調整を図る。

顔に黒褐色の斑紋が入るがより小さい。額と鼻面の褐色斑は繋がらず、眼窩線は縦に連なり、眼の上から喉の黒斑に繋がる。

背上の正中線は腰から頸部の方に逆毛で生えている。

頸部から細い帯状の黒褐色の筋線が下がり、体側面に下腹部まで連なる。蹄上部を除く四肢は濃褐色であり、冬季になると黒さを増し寒い時に熱を吸収しやすくなると考えられている。

 

また体温の調整ができ、暑いときは体温を上げ、寒いときは下げて、汗を出さない工夫も見られる。排尿も僅か日に3度くらいしかしない。

 

角に関しては、雌雄ともにあり、直線的で先端が外側へ向かう。アフリカオリックスの角長は93-96cm、耳介は幅広く、先端が丸みを帯びる。

アラビアオリックスの方では、耳介の幅は狭く長め。角はより直線的で、先端がわずかに後方へ湾曲する。角は毎年丸い輪の瘤を作り上に伸びってゆく。最大角長75cmにも達する。他の羚羊類と比しても、硬さ、頑強さが際立つ。それは角の成分が、多くの羚羊類は中が中空となっているのに、オリックスのは中が詰まっているから、重く硬い。この長く硬い槍で、捕食動物から、自己や母子、グループを守る。

 

 

生態は、アフリカオリックスの方は半砂漠、草原、サバンナに生息する。オスを中心とした10-50匹からなる群れを形成して生活する。移動距離も長く、採食の必要性、日中の木陰砂丘や岩場などの日陰探しなどに費やされる。ほぼ午前10時過ぎから休息に入り、午後3―4時頃から採食活動に入る。

老齢化したオスは群れを離れ単独で生活することもある。

食性は植物食で、草本類や木の根等を食べる。また多肉植物から水分補給も兼ねて行う。

繁殖形態は胎生であり、またその妊娠期間は260-300日。

 

アラビアオリックスの方は、砂漠、半砂漠、ステップなど砂漠奥地にも、また以前は石が多い砂漠にも生息域を広げていた。移動距離はさらに長く、採食は主にワジ(砂漠の涸れ川)の川床や土手、砂丘の底などに求め、太陽の熱射を避けるため、陽が高く頃には、木陰を求めて砂丘や岩場などの日陰探しなどに費やされる。ほぼ午前10時過ぎから休息に入り、午後3―4時頃から再び採食活動に入る。

 

オスは単独で生活するか、若い個体のみで群れを形成する。メスは8 - 10頭からなる小規模な群れを形成して生活する。

水分補給も兼ねて多肉植物を食べるが、サボテンやアロエや低木の若芽、地下茎、根、果実なども食べる。もっとも苦いアロエであるサウラウSawla“ をも食材とするところから「アロエの父」との名称も持つほど。

 

晩春から夏季にかけて繁殖期となる。雄の荒い性質がおもてに顕われ、順位をめぐってボスとなろうとする雄同士が角を突き合わせ闘争(スパーリング)する。交尾をしに近づいた雄に対しては、孕んだ雌は遠ざかる。交尾相手が見つからない場合、蛙のように、他の雄に飛び付いたりマウンティングしたりして発散させる。射精された方の雄はその匂いが強烈なため、他の雄から攻撃されることも多い。

 

繁殖様式は胎生。春季から夏季になると1頭のオスと十数頭のメスからなる群れを形成し、時に100頭にもなる大規模な群れを形成する事もある。

妊娠期間は約240-60日。主に10月から翌5月に、1回に1頭の幼獣を産む。授乳期間は約4か月半。生後2 - 2年半で性成熟する。

幼獣は全身の毛衣が下図で見るように、白色ではなく淡黄褐色で暗色斑が入らない。これは砂漠の中にあっては保護色となっており、狼やハイエナ、アラビア豹などの捕食者などから気付かれないように適応したもの。

 

      オリックス・マハーの幼獣ジャウザルjawdhar

 

オリックス・マハーの幼獣「幼獣」ジャウザルjawdhar、生まれると早い時期に角が生え始める。生後6か月で15㎝、一年で30㎝、2年で太さを増し40㎝となる。体表も次第に褐色から、成獣に近い白色に変化する。幼獣の姿は牛の体形と似ている。

左図はバハレーン政府発行Mahmiyyah al-“Ariin.10、右図はC.Gross著Mammals of the Southern Gulf,Dubai(UAE)p.17

 

 

  アラブ世界のアラビアオリックス (Oryx leucoryx)、

        マハー あl-Mahaaの民族誌

 

世界では想像的動物、一角獣・ユニコーンの発想の元と考えられているアラビアオリックス。

アラブ世界ではアラビアオリックスは野牛・野生牛Baqar al-Wahshii と称されている。他にも幾つかの名が知られているが、しばらくは野牛・野生牛Baqar al-Wahshii をオリックスとして述べてゆく。野生ながらラクダ以上に渇水に強く、水が遇ったら飲みためて置き、汗を少なくして、また排尿も一日3回ぐらいで済ませ、水の体内循環を増やしてやり過ごす。砂漠適応動物の、アラビア狼、アラビア狐、ジャッカル、ガゼルなどそうした属性を共有しているが、オリックほどではない。恐らく家畜化されたラクダではなく、野生のままのラクダならばオリックスに負けないぐらいの渇水適応力を進化させたのかもしれない。

 

 

 1 アラビアオリックス の名称、別称、尊称(kunyah)

 

1-1 アラビアオリックスの名称

アラビアオリックス (Oryx leucoryx)は、今まで述べてきたように野生牛Baqar al-Wahshii

として、またその中の1種として呼ばれてきた。9世紀の頃、『動物の書』を記したジャーヒズの頃はまだマハーal-Mahaaの用語は定着せず、mahaaの項目もなく、オリックスは「牛」Baqar の項目で扱われ、オリックスを表示する時はBaqar al-Wahshii(野生牛)として連接語を用いて、牛の仲間として扱われている。

その後の14世紀『動物誌』を著したダミーリ―(1344-1405)の頃にはすっかり定着しており、オリックスをマハーal-Mahaa として記述している。

 

マハーmahaaの語は、最初からオリックスの意味があったわけではない。そもそものマハー mahaaの意味は「白いもの」であり、[真珠、水晶、輝石]、それに[利点、長所]などを意味していた。「彼にはマハーが一つもない」laysa fii-hi mahaa-huという言い回しもあるくらいである。「白い高価なもの、白い宝石・輝石、銀貨、さらには利点、長所が無い」ことを言っている。

その白いものが動物の「オリックス」をも意味するようになった。野生動物では珍しい、小のような肌色の<白さ>と、この動物に付随する高貴性との意味合いから、連想されて付加された名称であるようだ。

高貴性を含んだ「白い動物」、その体表のほとんどが白色であること。この白さは恐らく進化適応したもので、もともとはアフリカオリックス同様な褐色系の葉が色であったろう。昼間の熱暑となる太陽光線を跳ね返し、遮断する効果を持ち、ガゼルのように他の多くの動物も有彩色であっても淡い色となっているのはそのためである。

 

オリックスの語マハーmahaaは集合名詞であり、単数の場合、単数形表示語尾/-ah/を付してマハートmahaatとされる。また複数を明示したい場合は三種あり、①マハーワートmahaaawaat、②マハーヤートmahaayaat、③マハンmahanがそれらである。①,②は女性規則複数形であり、これらは同時に複数形の内、少数複数paucityを表し、③が多数複数形の形となる。

 

なおオリックスの成長段階別名称として「幼獣」の意味のジャウザルjawdharの語を持つ。この後は「根、元、角」を意味するjadhrから派生して、「大角を持つ物の元」として「オリックスの幼獣」の意味を担うに至った。基本的には「オリックスの幼獣」であるが、広く             野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiの幼獣として、今まで述べてきた             他の3種の「幼獣」としても適応されている。

この後の派生語に「幼獣を持つ、連れる、伴うオリックス」のいみでムジュジルmujdhirなる言い方もある。オリックスの行動習性として、移動や散開の動きをとる時、ハーレムとして、雌たちが先導して、幼獣たちが、母に寄り添うように続き、しんがりを見張るようにボスや雄たちが後方にいて見守る。こんな光景がムジュジルmujdhirの語を生んだのであろう。

 

2 オリックスの別称・クンヤ(尊称)

オリックスには代表語マハーの他に、別称3種とクンヤ(尊称)2種がある。 

 

2-1 別称3種について

①マーリヤ、②ナウジャ、③ナイジャ・ラムルが別称である。

①マーリヤMaariyah、

「乳、乳液」を原義とするマルユmaryから由来し、「乳色、白色したもの」の意味から、その特色である「白肌をしたもの」として「オリックス」の意味に転用されたものであろう。

「白カモシカ」などをも意味する。なおイスラム教でも預言者の一人とされるキリスト、その母である「聖母マリヤ」はアラビア語ではマルヤムMaryam、またはこのマーリヤMaariyahと称されている。

②ナウジャNa”jah

同じ<白さが目立つ>発想から「美白、明白、純白なもの」の意味で、ナウジャna”jah、複数はニアージュni”aajとも呼ばれた。同語根から他の派生形で、「白肌でハンサムな男」はナーイジュnaa“ijとまた「美しい白肌の美女」はナーイジャnaa”ijahと言われる。

③また②に後接語を付し複合語にして「砂の白き者、砂漠の純白者」の意味でナウジャ・ラムルna”jah al-ramlとも称された。砂漠の褐色の濃淡のあるなかで、オリックスの白色は目立ちもし、またある種驚異でもあった。           (Jah.Ⅱ182)

 

3 綽名、クンヤ(尊称):2種

オリックスにはアラブ独特の呼称クンヤ(尊称)をも持ち合わせている。2種あり①アブー・ヒラーブAbuu Hiraab「角突き合うものの父」、と②アブー・サウラウAbuu Sawla“「アロエの父」とである。

① アブー・ヒラーブAbuu Hiraab:「角突き合うものの父」、ヒラーブhiraabは「互いに戦う、競う」の意味の動詞haarabaの動名詞。捕食動物への対応、また交尾期になると、雄同士のぶつかり合い、長い角での突き合いが見られる。大型動物であるし、また長い角であるので、他のものより一層目立つので、この綽名が付いたのであろう。「戦争、戦闘」の語ハルブharbがこの語根を形成している。なお後述する角で城塞を突き崩した逸話「神命により多くのオリックス、その角で城壁を破壊」を参照。

 

②アブー・サウラウAbuu・Sawla“「アロエの父」。アロエは果肉植物で、暑さにも強く、砂漠地帯にも多く繁殖している。環境条件に様々な形態で進化適応しているが、アロエ自体苦いのであるが、このサウラウ Sawla“ という種は最も苦く、他の動物は食べることを忌避しているが、オリックス・マハーだけは採食しているとのこと。それ故「サウラウの父」Abuu・Sawla“ との異名を持つことになった。後述する民間医療でもオリックスの部位は様々な薬効として用いられているが、その一部はアロエを体内に取り込んでいることから生まれたものであろう。

 

以下は次のブログで。

 


 

 野生牛 ペルシャダマ鹿Yahmuur、ヌビアアイベックスThaytal

             野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshii(2)

 

キーワード:

ヤフムール鹿al-Yahmuur ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)  「赤鹿」

アッイル・ムルージュ(牧場アッイル)  平角でかつ枝角

危険を察するとすぐに逃走(naafirah)する本能   肉は可食 

民間医療 毛皮には魔除けの威力 その逸話 憑き物払い

雄鶏の警戒心とヘンルーダ油の効力

サイタルal-Thaytal  ヌビア・アイベックスNubian ibex  アイベックス の亜種

湾曲した長い角   岩の多い乾燥した山地に棲息   「山の住人」Sukkaan al-Jibaal

その肉はハラール(許法、可食)  絶滅危惧種に指定

 

 

 

 

 

本ブログではオリックスを主体に述べる予定である。オリックスはアラビア語ではマハーal-Mahaa と称される。しかしアラブ民俗学上、野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiの一種とされる。オリックスであるマハーだけではなく他に3種あるとされる。

 

すなわち野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiには4種あり:

①マハー al-Mahaa  Oryx Beatrix、一角獣の発想の元。

②アッイル al-Ayyil アッイル鹿、ベゾアールア鹿 ベゾアール石・胃石が採れる

③ヤフムール al-Yahmuur Cerves capreolus ダマジカ(Cervus dama)の亜種

      ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)  毛皮が魔除け

④サイタル al-Thaytal Capra jaela ヌビア・アイベックスの類。  山の住人

 

前回の一回目の前稿では②のアッイルal-Ayyil(アッイル鹿、ベゾアールア鹿)を紹介した。

今回は③ヤフムール鹿al-Yahmuur(ペルシャダマジカ)及び④サイタルal-Thaytal(ヌビア・アイベックスの類)とを紹介する。

 

 

  ヤフムール鹿 al-Yahmuur 赤鹿

         ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)

 

ヤフムール鹿は、分類学上はダマジカ(Cervus dama)、Fallow Deerの亜種とされる。すなわち、哺乳綱偶蹄目シカ科ダマジカ属に分類されるシカの一種である。枝分かれした平角を持つのが特徴で、体表は赤味がかった黄褐色、 夏は鹿班である白い斑点を体表に生ずる。

 

ヤフムール鹿al-Yahmuurは学名がペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)とされている。ペルシャにも多くが生息しているので、その地名が学名に選ばれてしまった。

しかし. アラブ世界ではヤフムールal-Yahmuurとして古くから生息している。但し時代と地域によって指す対象が異なる場合がある。野生牛であるのか、鹿であるのか、野生山羊であるのか、さらには野生ロバであるのか、名称と実体とが一致しない場合があり、鹿よりも単に「野生山羊」Wild goatとも大分類されてもいる。が、山羊類は多様であり、アイベックス類、アンテロープ類も大きく言えば含まれてしまう。

もう少し限定が必要だが、地域によっては野生山羊しか生息しない場合は、その地域ではヤフムールal-Yahmuur=「野生山羊」で通ってしまう。こうした混乱は、辞書やレクシコン、さらには学者の記述にも反映している。

 

しかし地方変異、時代変異はあるものの、多くの現代アラブ世界ではヤフムールal-Yahmuurはダマジカ(Cervus dama)、Fallow Deerの亜種とされており、ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica) と受け入れている。種小名 mesopotamicaが生かされて、メソポタミア・ダマジカとの名称を与えれば、もっと公平になっていることであろうが。

 

アッイルの別種とも: あるいは前回紹介した②アッイルal-Ayyil(ベゾアールア鹿)の仲間とも考えられ、名称も同じアッイルが用いられ、アッイル・ムルージュ al-Ayyil al-Muruuj (牧場アッイル) とされている。前回のアッイル鹿の図を参照。そこにはベゾアールア鹿をアッイル・アルカトal-Ayyil al-Arqat(斑点アッイル)と、そしてヤフムール鹿の方をアッイル・ムルージュ(牧場アッイル)と説明されている。

                                                                                              

「ヤフムール鹿は、その名称yahmuur の由来は「赤い」ahmarを語源としており、下図のように毛皮が赤茶色になる時期があり、それで「赤鹿」との意味であろう。

ヤフムールには別名があり、ヤッムールal-Ya’muurとも呼ばれる。この語はおそらくヤフムールyahmuurの訛ったものと思われる。

 

異説のうち、「ヤフムールは、その名称の由来は「赤い」ahmarの方はなく、「ロバ」を意味するhimaarの一の方から来ており、ロバの1種とされるべきで、名称「野生ロバ」himaar al-wahshとするのが正しい、と説く。al-Jawhariiなどの博物学者の説もある。(Dam.1707)。

 

      ヤフムール鹿al-Yahmuur、ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)2態

 

右図は毛皮が季節によって、赤色(ahmar)に近くなるためヤフムールal-Yahmuur「赤鹿」と言われる所以が分かろう。左側は夏季の太陽の直射を和らげるため、毛皮の色自体薄くなり、鹿班も大きくなる。いずれもインターネット画像より。

 

 

さてアラブ世界のヤフムール鹿al-Yahmuurは古来から知られ、その体表が赤み(ahmar)がかった黄褐色の体表から「赤鹿」の意味で命名されたものである。なおユダヤ世界でも『旧約』の中にyahmurとして記載されている。ヘブライ語はアラビア語と姉妹語なので意味も共通した名称であったろう。ヘブライ語聖書申命記14:5では、ヤフムールは食べられる動物の第3の種としてリストアップされている。ヘブライ語がまだ未熟であった頃、この言葉は通常「卵」とも訳されていたが、後世の欽定訳聖書では「ペルシャダマジカ Fallow deer」と訳されている。

 

ヤフムール鹿(Dama mesopotamica)は、かつては西アジアに広く生息していたが、その環境が人の環境と近かったために、狩猟の対象となり、狩り尽くされた。ほとんど絶滅しかけた。が、保存活動が始まり、現在はイランとイスラエルが積極的に活動を進めて、今ではいくつかの国で保護育成が進められつつある。個体数は1960年代のほんの一握りの鹿から1000頭以上に回復した。

 

ヤフムール鹿・ペルシャダマジカは、形態学的に他の鹿と区別できるのは、平角であり、枝分かれした枝角を持つこと、体表の色も季節により赤味を帯びたり淡くなったりすること。

角はアッイル鹿と同じく毎年落ちてまた生え変わる。しかし角の中がアッイル鹿ほどには空洞になっていないとされる。

 

『動物誌』を露わすらダミーリーのヤフムールの記述は以下のようである:

野生の四つ脚獣。危険を察するとすぐに逃走(naafirah)する性質を持つ。二本の長角を持ち、それらは恰も樹木が生えている如くである。

 

ヤフムールは砂漠地帯や荒れ地を好まず、水流や川で灌木が連なる一帯に生息し、渇を癒すとき給水の時は水際まで出かけてゆく。

走る速度はアッイルよりも速い。

 

ヤフムール鹿は放牧草食動物であり、草は葉や木の実であり、アッイルのように蛇を食べるということはない。また胃石ベゾアールも製するわけでもない。しかし後述するように、その毛皮には魔物除けの呪力がある。

 

ヤフムール鹿の生息場所、テリトリーはそれぞれの集団の範囲、どのような雄に支配されているか、数の性別と年齢によって異なる。年配の雄の鹿のテリトリーは若い雄よりも広範囲である。

しかし、一般に雌は年をとるほど生息域の近くにとどまり、若い雌ほど遠くに移動する傾向がある。

彼らは野生で少なくとも11歳まで生きる、とされる。

 

 

可食か不可食か Hukm(イスラム法)  (Dam.1707)。

ヤフムールはどんな状態であっても完全な草食系なので、食するにはハラール(許法)である。恐らく鹿肉のなかでも、他の鹿よりも美味であった。野性味があまりないため、肉自体も他の鹿肉よりは柔らかい、とされている。

 

 

民間医療、薬効、薬膳 Khawaass    (Dam.1708)。

ヤフムールの脂肪(duhn)は、人がみじめで悲惨な状態(shaqiyy)にある時、身体の弛緩していた諸器官(istiraakhaa‘ al-haasil)を改善してくれる。鬱の黒胆汁質に効果ある。

また下で、その逸話を述べる如くヤフムールの毛皮には魔除けの威力があった。

 

 

ヤフムールの毛皮の霊力

このヤフムールの毛皮には特別な威力、霊力があった。特にジンに取りつかれた者=マジュヌーンに対して、その魔力、魔手から解放してくれる、という。

 

  逸話 ジンに取りつかれた娘を救い出したヤフムールの毛皮

以下の逸話はイブン・ジャウハリーAbuu al-Faraj ibn al-Jawhariiがその著『花嫁』al-"Araa'isの中で述べていることである:

諸学を求めて旅する一学者があった。彼は故郷を出て学を求めて旅の身にあった。旅の途上で道連れになった人物がいた。学者が目指す町が近づいてきた。するとその道連れが声をかけたきた、「あなたは道中を私に正義と尊厳を持って対応なされた。実は私は精霊ジャーン(jaan、ジンjinnの仲間でその霊力はジンより弱い、といわれている)なのです。一つ頼みごとがあるのですが?」と語りかけてきた。

学者は「ほうー、それは何ですかな?」と答えると。ジャーンはあの町に入ったらこれこれの所へ行くと鶏屋があります。多くの鶏がいますが、牝鶏に交じって一羽の雄鶏(diik)を見出すでしょう。鶏屋の主人にこの雄鶏の値段を聞いて、買い取ってください。そしてその場で屠殺をしてほしいのです。これがあなたへの頼みのですがな」。

 

そこで探求心旺盛な学者の方も、「おお兄弟よ、私にも実はあなたに頼みごとがあるのですが?」と問い返した。

旅人に化けていたジャーンは「ハイ。何でしょう?」と応じた。

学者が問うには「魔界の中ではサタン(al-Shaytaan)がマーリド(Maarid能力ある権威者)なのでしょう。あなたは(能力に低いジャーンなのだから)霊力はそう発揮されることはありますまい。我ら人間と一番近い関係(aluhh)にあるわけです。そこで伺いたいのですが憑き物に憑かれたら、マジュヌーン(憑かれた者)に対しての解き方・対処は如何すればよろしいのでしょう?」

するとジャーンは「憑き物にはヤフムールがよく効きます。我々に対しては唯一の薬物(watr)となりますよ。ヤフムールの毛皮の1シブル(身体尺、親指と小指を伸ばした長さ)分を切り取り、それでマジュヌーン(憑かれた者)の身体を両手の親指で、痛みが走らない程度に強くしっかりと何度も撫でたり擦りつけたりするのです。それから予め処方しておいた薬用植物の野生ヘンルーダ(al-sadhaab al-bariyy)の油滴を鼻孔の右に4滴、左に3滴垂らすのです。すると憑いた者は死ぬでしょう。憑かれた者(マジュヌーン)は元通りの正常に戻り、その後は憑かれることはありません」と答えた。

 

さて学者は町に入り、指定された場所へと出かけた。その鶏屋には確かに老いた雄鶏がいた。店主には傍らに可愛い娘がいて手伝っていた。そこで旅人はその雄鶏の買い値を言うと、店主に安いと拒まれた。そこで買い値を高くして行き、何倍かの値段で買い取った。そして自分の所有物としてその店を去ろうとした。すると遠くにあのジャーンが姿を顕わした。そして学者にそれを屠殺するよう指示してきた。指示されるままに学者は雄鶏を絞め殺した。

 

すると店主の美しい娘が憑依を起こして取り乱し始めた。そうしている間に近隣の人たちがその光景を見て、雄鶏を絞め殺した学者の回りに集まって来て、殴る蹴るの狼藉を働いた。喚きたてては、「この魔法使い(saahir)め!」とてんでに言いながら。

学者は「私は魔法使いなどではありません」と訴えた。

 

集まった連中が申し立てるには、「あんたが雄鶏を絞めた後、あたしらのところでは若い娘がジンニー(jinnii)に取り憑かれて、これこの通りマジュヌーンになってしまいましたぞ。それからジンニーは彼女から離れようとはしなくなってしまったじゃないか」と。

 

そこで学者は経緯が呑み込めたので、「ではわたしが憑き物を払ってあげましょう」と言って、 彼らにヤフムールの毛皮1シブルほどと野生ヘンルーダ油を用意させた。準備ができたところで、ヤフムール皮で憑かれた娘の身体を両手の親指で、強くしっかりと何度も撫でたり擦りつけた。それから野生ヘンルーダ油を鼻孔の右に4滴、左に3滴垂らした。

 

すると憑いた者の正体、すなわち旅人に化けたジャーンが抜け出てきて、「馬鹿なことしてしまった! 愛しいアダム(人間)の娘から、この身が追い出されて死んでしまうなんて!」と叫びながら、次第に溶解して溶けてなくなってしまった。

こうして学者は取り憑かれた娘を救出したわけである。この美しい娘には、魔界からはその後どんな魔手も伸びては来なかった。

                                                 (Dam.1708))。

 

ジンは人間同様、神の創造物であり、人間界にも混じっていた。善行をする者、ムスリムになっている者もいれば、人間に悪さを仕掛け、いたずら好きの者もいた。ここではジンの中でも、もっとも霊力が弱いとされるジャーンが、人界の娘を見初め、時に憑依していたわけである。憑かれると身もだえがあり、憑依現象が起こる。周りの人の見た目にもそれと分かる。娘を持つ鶏屋はそれ故、見た目にはそれと分からず人界にまじっている魔界のものを見つけ出す老齢な雄鶏を混せて飼育していたのだ。

学者に指示して雄鶏を処分させると、ジャーンはたちまち恋苦しいあまり娘に憑りついてしまったのだ。学者がその場を去るまで待てばよかったものを。

こうして当の浅はかなジャーンから教わったヤフムールの毛皮、および野生ヘンルーダ油を用いての憑き物払いを実践して娘を助け、ジャーンを払い除けたのである。ヤフムールの毛皮の威力たるや!また雄鶏の警戒心、ヘンルーダ油の効力! とはいえジャーンの恋狂いは人間にもあるもの。近づけば近づくほど弁えと分別を失う恋の力。                                       

                                          Dam.Ⅱ707-08

 

 

 

   サイタル al-Thaytal ヌビア・アイベックス

サイタルal-Thaytalは一般にはヌビア・アイベックスNubian ibex、あるいはヌビアヤギNubian goatとされている。

サイタルthaytal の語源はイエメンやエチオピアの南アラビア語で「捩れる、曲がる」を意味するサタラthatalaから来ており、その角の特徴から名づけられたものである。エジプトではthaytalの語頭子音/th/は/t/と発音されるため、エジプト方言ではタイタルtaytalと発音されている。複数形はサヤーティルthayaatilである。

 

サイタル、すなわちヌビアアイベックスは学名をCapra nubiana、またはCapra jaelaとされている。分類学上は、ヤギ属に属する哺乳類の一種。 主にアラビア半島やアフリカ北東の山岳地帯や起伏ある砂丘の連なる砂漠に生息する。アラビア半島南西部、対岸のアフリカ東北部のヌビア、エチオピアの山岳・丘陵地帯に生息。

もっと北方のシリアやレバント地方にもかつては生息していたが、絶滅している。上記の生息地態でも急速にその数を減らし、絶滅危惧種になっている。

 

サイタルthaytalは 一般的には、アイベックス の亜種 (Capra ibex nubiana) であると考えられている。ヌビア・アイベックスであり、もう一つの名称ジャエラヤギ・アイベックスJaela goat、Jaela ibexとも称される。 Jaelaジャエラとはアラビア語ではなく、エチオピア語、ゲエズ語の地名から由来する、とされている。

 

一説ではワウルwa”l(カモシカ)の一種。その雄の老獣(al-dhakar al-musinn)のこととも。

 

 

     サイタル al-Thaytal ヌビア・アイベックスの図2態

 

いずれも成長した雄であり、左図の方はまだ若い雄。右の方は成長しきった雄。その角は背中に届くほど長大である。いずれもインターネット画像より。

 

 

サイタルの生態:

サイタルal-Thaytal(ヌビア・アイベックス)は体長105〜125cm、肩高65〜75cm、体重25〜70kg。 淡褐色の身体で、顔面が明るい褐色、下腹部は白く、四肢に大きな白斑が出る。雄の背上には暗褐色の筋がある。黒褐色の角は、節くれだっていて巨大で、雄は長さ120cmほどまでになる。背中に向けて湾曲した長い角の形を成し、野生的である。

雌も角をもつが、小さく30cmほどで、垂直かやや後ろに反るぐらいである。

髭はヤギのそれより長く黒色に近い。

                                               

標高200m〜2000mの岩の多い乾燥した山地に棲息している。ジャーヒズが述べるに「人間の住む定住地(hudr)や平地(basiit)を嫌い、近づかない。「山の住人」Sukkaan al-Jibaalと呼ばれている」。(Jah.Ⅶ300)

朝と夕方に木の実、草本や葉を食べに出かける。日の高い日中は日陰で反芻をして休む。そして日没近く岩場の棲家に戻って休息と睡眠をとる。山地であるから、厳冬期や寒い冬季の雨の日には洞窟に避難することもある。

 

天敵はオオカミやジャッカルさらにヒョウであり、最大の敵は人間である。

幼獣はワシにも狙われる。

 

繁殖期、雄は普段は単独で行動しているが、繁殖期の10月頃になるとメスを巡りオス同士であの巨大な角で突き合いの戦いをする。辺り一面に頭突きの高い音が響き渡る。勝った雄が5頭〜15頭のハーレムを形成する。

 妊娠期間は5ヶ月で、1頭〜2頭の子供を産む。性成熟は2年〜3年。寿命は約17年とされている。

 

人間に対しては、サイタル(ヌビア・アイベックス)は食用に良し、また巨大な湾曲した角を狙って狩りも行われた。またヤギなどの家畜との食料の競合が脅威となり、近代になって激減しており、絶滅危惧種に指定されている。 かつてはアラビア半島の北部まで棲息していたが、この地域では既に絶滅している。

まだ生息している地域にも問題があり、残っている固体も山岳地帯が主なので、広域に分散して孤立した小さな個体群ごとに暮らしている。そのため遺伝的多様性が失われ種の存続も危惧されている。 正確な個体数は不明だが1200頭以下と考えられる。

 

可食か不可食か Hukmイスラム法

基本的にはヤギと同じく草食動物とされており、その肉はハラール(許法、可食)とされる。

法学者ナハウィーal-Nakhawiiの見解によると、サイタルを狩ることはハラーム(不法)とされる、と述べている。    

                                        Jah.Ⅶ299-300、Dam.Ⅰ305

 

 

          アッイル鹿 al-Ayyil 

                    アラブ世界の野生牛Baqar Wahshii(1)

                                                   キーワード:

野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshii

野牛四種 オリックスマハーal-Mahaaもその一つ

アッイル al-Ayyil アッイル鹿、ベゾアールア鹿

語源「高いところに登る」 角に特徴

性質は非常に憶病  人の口笛(safiir)と歌声(ghinaa’)に魅了される

蛇を食べる  毒蛇の解毒法   蟹を食べてる解毒

解毒剤ベゾアール 胃石

謎かけ詩   可食か不可食か

民間医療 薬効、薬膳 Khawaass    角の威力・薬効

 

 

 

 

世界中でよく知られている想像的動物、一角獣・ユニコーンの発想の元と考えられているアラビアオリックス。今回からこのオリックス関係のアラブ世界に民俗事象を探ってゆく。

 

アラブ世界ではアラビアオリックスは野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshii (の一種)と称されている。これからは野牛・野生牛Baqar al-Wahshii であるオリックスとして述べてゆくのであるが、オリックスはアラビア語ではマハーal-Mahaa と称される。しかし野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiはオリックスであるマハーだけではなく他に3種あるとされる。

 

すなわち野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiには4種あり:

①マハー al-Mahaa  Oryx Beatrix、一角獣の発想の元。

②アッイル al-Ayyil アッイル鹿、ベゾアール鹿 ベゾアール石・胃石が採れる

③ヤフムール al-Yahmuur Cerves capreolus ダマジカ(Cervus dama)の亜種

                         ペルシャダマジカ (Dama dama mesopotamica)

④サイタル al-Thaytal Capra jaela ヌビア・アイベックスの類。

 

これら4種は、いずれも体躯が大きく、角が巨大である。また給水に頼らず、水が見つかれば飲みはすれ、水が無くとも、朝霧や朝霜、露をうまく利用し、採食も多肉植物を好んで、水分補給を補っている。また体温の変化がある程度でき、暑熱で苛まれる時は、体温を上げ、汗を掻いて水分を失わない様に、寒気の時は体温を下げ、体力を使わない算段する。小便や大便としての排泄物となる前に水分を再吸収して役立てる。ラクダもそうであるが、一日の小便数も少なく、濃度の濃い尿を数回するだけである。

高温となり日射の激しい昼日中は避難して、灌木の陰や、砂を掻きだして身体部に嵌るぐらいの窪地を作り出してそこで猛暑をやり過ごす。30cmも掘れば冷気があり腹部は熱さから妨げられ、胃やり過ごすことができる。地面に半ば沈むので、この休息方は平らな砂漠でも目ざとく見つかることはない。また角だけ露出していても、幸いに周囲と紛れて、捕食者に見つかることから免れている。

 

 

野牛・野生牛バカル・ワフシーBaqar al-Wahshiiの4種の内、オリックスは最後に扱う。本ブログでは「アッイル鹿」について述べる。但し同じ動物種でも、時代が変わり、地域が変わると、名称と実物とが異なることも生じ得る。このアッイル鹿についても生物学の方ではベゾアールアイベックスBezoar ibex (Capra aegagrus aegagrus)とされており、アラブ中世の記述と合致しないことが多い。

 

また現代アラブ世界でアッイルAyyilと名づかれた鹿類は、二種が確認されている。

① Fallow Deer、 亜名Ayyil al- Muruuj(牧場アッイル)、 ダマジカ Dama Dama

② Axis DeerまたはChital Deer 亜名Ayyil al-Arqat (斑紋アッイル)、アクシスジカ

であり、下図にそれを示しておいた。

     現代のアッイルAyyil2態

左図はダミーリーの『動物誌』より(第1巻177頁)、右図はバハレーン政府発行『アリーン自然保護区案内パンフレット』より(7頁)。右図上がダマ鹿、下がアクシス鹿。白い鹿班は夏季に対暑策として一層白さを増す。

 

 

ここではアラブ古典で記述されているアッイルの民俗事象について述べてゆくが、上図の原題のアクシス鹿の方が、どちらかといえば似ていよう、体躯の大きさおよび角の形状からしても。

 

アッイルal-Ayyil鹿はまたワアルal-Wa"alとも呼ばれる。Ayyil もWa"al も、いずれも動詞tawa””ala「高いところに登る」という習性の語から由来している。

雄はアウアールaw”aalとの名称も持つ。 

 

口は他の羚羊類と比しても、小さ目である。(Jah.Ⅶ117)

両角の間が牛のように広い、とされる。

角であるが、二歳までは角は生えず、三歳になってから生えだす。ジャーヒズによれば、それは離乳期でもあり、また袋角だと弱いので、強い角が生える年まで待って、溜めているのだ、と述べている。三歳になっての、最初期は杭のように真っ直ぐ伸びるが、太陽に当て乾燥化させて、横に広がるように角自体を強化する。(Jah.Ⅳ227)

翌年から枝角が生え始める。そして年々枝角も増え伸びて、6年目で限度となる。角は太陽に晒すことによって硬度が増し強化される。

また一説によると、蹄同様に、角もキリン(ziraafah)に類似している、といわれる。(Jah.Ⅶ243)

 

アッイル鹿の性質は非常に憶病で、常にビクビクしている。危険を感じたり、猟師に狙われたりすると、高所や岩山から飛び降りる。それで怪我をすることもない。

体質的に太る傾向にあり、そうなると一層神経過敏になり、気配を感ずるとすぐに逃走する。

捕食者や猟師の出現にはすぐに反応する。

 

雌のアッイル鹿は雄仔(walad)を出産すると、その胎盤(mashiimah)を残らず食べてしまう。それは呼吸器(nifaas)障害に有効と考えられている。(Jah.Ⅳ227)

 

雄の生殖器(dhakar)は、筋(“asab)だけでできており、肉(lahm)も骨(“azm)もない。

 

また、ジャーヒズもダミーリーも述べているのであるが、習性の一つとして、人間の口笛(safiir)と歌声(ghinaa’)には魅了されるという。これらの声を聞いている限りは、眠りも忘れて聞きほれている。この習性を知っている猟師は、一方が音を流している間、他方はアッイル鹿の後ろに回る。そしてアッイル鹿が耳を音楽の方に向けて楽しんでいるのが分かると、後手からこれを捕獲する、と言われている。(Jah.Ⅳ193,227)

 

アッイル鹿は蛇を食べることを好み、探し回っては捕食する、たとえ毒蛇だと認識していても。 それも食べ始めるのは尾の方が先で、頭を最後に食べる。このため運悪く毒蛇に噛まれたとしても、解毒法を知っている。それも二通りある、とする。一つは蟹を食べること。

ジャーヒズによれば、噛まれた後、すぐに谷間に駆け降りて行き、蟹(sarataan)を探して数匹食べると毒蛇の毒が消え、元の元気な状態に戻る、と言われている。(Jah.Ⅳ166、227、Ⅶ29)

もう一つは名称の由来となった、有名な解毒剤ベゾアールを作り出してそれを毒消し利用とする。アッイル鹿は眼窩の奥にある二つの窪み(naqaraani)、その深さは指の長さ程にもなろうが、そこから涙腺を通して涙を溢れさせる。その涙の溜まりを太陽光線に当てると、黄色い蝋(sham”)状に凝縮する。この蝋を舌で舐めたり、患部に擦り付けたりして、蛇の毒を身体から除去する、と言われる。Dam.Ⅰ

また蛇の遺体(rumuus=食べ残し)が体に付着していることもある。首や体表、時には顔にもその残存が見られる。(Jah.Ⅶ30)

 

この蝋ベゾアールがテリアカ(万能解毒剤)、アラビア語ではディルヤークDiryaaqの一種とされ、小石状に丸められ高価な薬用とされ、交易品にもなっていた。アッイル鹿のこのテリアカ・ディルヤークの最高品は黄色味を帯びたものとされる。また北部山岳地帯の産、インド、ペルシャの産のものが良いとされていた。この蝋を小石よりさらに細かく粒状のようにして日常に備えた。毒蛇、蠍毒は言うに及ばず、様々な毒消しに用いられる。人が猛毒を盛られて人命の危機にあっても、そのベゾアール粒を口に含ませて飲まさせたり食べさせたりさえすれば、危機は脱するとされる。まさにテリアカ、すなわち万能解毒剤の代表的一品である。高価なので庶民には高根の花ではあったが、何とかして入手しようと努力した。結構偽物も安価で出回った。(Dam.Ⅰ177)

 

アッイル鹿は学名がベゾアールアイベックス(Capra aegagrus aegagrus)とされている.その名称の通り、「ベゾアール石」が採取できる鹿、またはアイベックスである。

ベゾアール石は動物の胃の中にできる胃石(結石)である。牛や鹿など反芻動物の胃袋の中で形成される。麝香鹿同様にベゾアール石もこの鹿から主に取られることが知られる。

 

中世ヨーロッパでは万能解毒剤であるベゾアールア石=胃石について次のような話が信じられていた。

牡鹿は歳を取ると、若返りのため蛇を食べて暮らすようになる。ただし体内に入った蛇の毒を出すため、牡鹿は冷たい川に入って鼻先だけを水の上に出す。すると蛇の毒が涙のように牡鹿の目から流れ出て、川の水の中で凝固してベゾアール石になるというもの。または蛇に噛まれた牡鹿が流した涙が固まってベゾアール石になるともいわれた。

上の説明においても、ベゾアールア石が胃などの消化器から再出されるような採種される記述は無い。いずれも胃などの消化器系統にできる結石とは無関係である。

ベゾアール石baadzuhrの最良品は、黄色をしており、産地はインド、シンド、ペルシャである。蛇や蠍の毒に対しても、その患部にこの石を置けばたちどころに治る。有毒なものを飲んだり、食べたりした場合でも有効に機能する。ともかく有毒なものに対しての効用は聞きしに勝るものである。


現代でも市販されているベゾアール石。いずれもインターネット画像。人口でも製造できるとのこと。ハリーポッターの「賢者の石」はアリクシールと言って、錬金術で化学反応で鉱物を金に変える魔法の石のこと。ベゾアール石ではない。いずれもインターネット画像より。

 

 

アッイル鹿は魚と親和関係にあるとされる。しばしば谷川や断崖海岸まで出かけて行き、魚類の動きを見遣る。魚類の方も、アッイル鹿の姿が目に入ると、岸辺の近くまで来て親交を深めようとする。

この両者の親密さを知っている漁師は、アッイル鹿の毛皮を纏い、海岸近くまで来た魚たちに網をかけて漁をする、ともいわれる。

 

さて次は謎かけ詩の逸話である。

大言語学者イブン・ドゥライドIbn Durayd(1349没)は、ある座談で以下の詩の意味は何を叙しているのか問われた。

 

    愛するそなたの許離れるは疎ましさの故に非らず

       さにあらずして互い思うは隔てある方がいや増す故ぞ

    渇れし者 砂漠さ迷う者が水への希求一層増すに似て

       はるか遠くにオアシス見える方がより一層渇望増すもの

    身の方ではその赴くままに渇癒すを欲せども

        他方心の方ではその寸前で死に至るも確かとも

    されば厭うべき水の方より向きを背け去り行く

        後ろ髪引かれる如く愛ちらつく水場を見返りつつ

        (4行詩、前・後半詩行で構成、後半詩行に脚韻。Daariyyah(D子音脚韻詩)

 

問われたイブン・ドゥライドは、恋人の許から離れ遠くにさ迷う者はアッイル鹿に他ならず。アッイル鹿が渇水で水場を求めていることを叙している。水を恋人として、それを求めているにも拘わらず、一旦給水してしまうと、すべてが終わって破綻に帰してしまう。それに水場には他に危害を加える者もいよう。恋人は、水場は、遠くにありて思うことこそ肝心。アッイル鹿は渇水に対して我慢強いもの、恋人もまた現実よりも遠くから想像していることこそ、身を持することになる。   (Dam.Ⅰ178)

 

 

可食か不可食か Hukmイスラム法

アッイル鹿は蛇も食べるが、基本的には牛やヤギと同じく草食動物とされており、その肉はハラール(許法、可食)とされる。また各部位にも、薬効が宿り、それらも利用されている。特に角には効力がある。以下の民間医療の項参照。

 

 

民間医療 薬効、薬膳 Khawaass (Dam.Ⅰ179)

万能解毒剤ベゾアールは上に述べた通りであるが、アッイル鹿の身体には様々な霊能、薬効が宿り、それらも利用されている。特にその最大の特徴はやはり角にあるようだ。

角の威力:角にはあらゆる邪悪・猛毒を持つ動物類を追い払う力があるとされる。また妊

産婦が難産することなく出産できる、とされている。

角を削って粉にして飲むと、体内の虫たち(duud)を追い出す虫下しもしてくれる。もっと効果があるのは、角を焼き粉末にして蜂蜜に混ぜて飲む。

 

角を削って家の中を燻蒸すれば、蠍やヘビなど有毒害獣、害虫を家の外へ追い出すことが出来よう。

角を焼いて灰にした粉を煉ったものを、黄疸症(sufrah)で黄色く変色した部分、および虫歯(hafr)の部分に塗り付けると、治癒する。虫歯の部分の歯肉をも強化する。

角の一部を身体に携帯すると、その間は睡眠の生理状態にあっても眠気が襲うことはない。

(これはアッイル鹿の臆病な性質から由来するものか)

 

雄のペニス(qadiib)を乾燥させ、粉末にしたものを飲み物と混ぜて飲むと、性欲(baah)が増進する。

アッイル鹿の血を飲むと睾丸にできた結石を破砕するであろう。

 

 

 

 

 


 

猟犬矢の如く疾走 ガゼルを狩る Kalbun ka-anna-hu sahmun

                                                      アラブ狩猟詩(10)

キーワード:

アラブ狩猟詩  アブー・ヌワース詩集Diiwaanより

10行詩1篇  「R脚韻詩」Raa’iyyah

「猟犬矢の如く疾走 ガゼルを狩る」

優れた体格・技量持つ部位   犬が走る時の描写 矢の如く・流星の如く

「矢座」学名Sagitta、英名the Arrow、亜名サフムal-Sahmのこと

8頭のガゼルを斃す  狩り後の仲間との集い  詩で不朽となす

 

 

今回扱うテーマはアラブ狩猟詩であり、第10回目になる。猟犬による狩猟であり、それも詩人アブー・ヌワースの愛犬ズンブールZunbuurによる、ガゼル鹿狩りである。

詩題は「犬 矢の如く疾走」Kalbun ka-anna-hu sahmunである。この題は第6詩行の前半詩行「その様恰も的に向かって射られた矢の如く」から採られている。訳の方では内容も吟味して「猟犬のガゼル狩り 矢の如く疾走」とした。「アブー・ヌワース詩集」Diiwaan Abii Nuwaasの「狩猟Tard」の部に、10行詩1篇として635頁に収められている。

 

詩人の愛する猟犬の名はズンブールZunbuur。この犬は以前にも登場しており、体形も美観もよく、また調教も恐らくベテランの猟師の指導を仰いでなされていたことであろう。

先の2月16日のブログ「猟犬 我と共に」では岩地、丘陵地でのカモシカ狩りであった。今回は灌木などの多い平地・砂漠地帯に住む小型羚羊類ガゼルである。猛スピードで急襲して仕留める。ズンブールが主人公なので、獲物を次々と斃してゆく。

が、現実はその間の他のガゼルは四散して遠くに逃げのびるはず。襲っている間に遠くに逃げのびないよう、猟師たちもガゼルたちの行く手を遮る。他の猟犬の加勢もあったことであろう。この猟でズンブールは合計8頭のガゼルを斃している。一回の量で、しかも一頭での成果はこんなにも上がる訳がないが、そこは詩で絶賛するので多少の誇張はあろう。たとえそれは認めても、走り能力をすごさは、猟犬としての技量、それに追走・闘争能力が高い証明となろうし、それを詩人の感性が詩に歌いたくもなろう。

 

この詩の一篇の内容は:

詩人の愛犬ズンブールを狩りに連れ出し、猟をさせる。この愛犬は名が知れた猟犬であった。夜明け前の出発。やがて薄明の世界になり、その後太陽が出現し、辺りが色彩豊かな世界へ変貌する。映し出されるのは犬の雄姿。朝陽の浴びる中、視点はまず剥き出しの歯に目が留まる。歯を支える顎の、吻の長さと深さ、広さも強力な武器の支えとなっている。四肢と胴体の描写、このような優れた体格・技量持つ猟犬であるから、狙いを定めた獲物は、どうあがいて逃げる算段しても不可能で、天命を待つほかない。獲物はガゼルである。

視覚と臭覚の優れた犬は獲物の潜み場所も見つけ出してしまう。そしてその塒に突進。急を突かれたガゼルたち。そうした砂煙立ち上がる中、猟犬ザンブールは群れを襲う、矢の如く、あるいは流れ星の如くに。ガゼル群の中から狙い定めた雄ガゼルに猛追し、仕留める。粉塵の上がる中、次いで近くにいた雌ガゼルと埃色ガゼルとを斃した。

一頭と格闘して仕留めるまでには時間が要る。獲物の群れも先へ先へと逃げてしまう、そこで狩人一行は先回りして、逃走する方角へ人を配してそちらの方向に逃げない算段をする。獲物が間誤付く間に、猟犬が次々と倒してゆく。こうしてズンブールは多大な成果を上げ、「もう十分!」と言わしめる。

狩りは終わった。猟犬のいる現場へ駆けつける。犬の格闘で傷ついたところ、血だらけのところを、拭いたり水を使って綺麗に落としてやる。このような素晴らしい成果を上げても猟犬は奢るところはなく。主人の前に恭順に従うだけ。

最終行は総括。狩りを終え、猟犬を従えて他の狩猟仲間と落ち合う場所に出かけ、集いて今

回の狩りのことを談論する。ズンブールの働き目覚ましく、ここで詩作して後世まで残そう、ということになる。

 

形式について

この10詩行1篇は長詩の形式を採り、一詩行(bayt)を二つの半詩行(misraa')に分けて成り立つ。律格を合わせ、後半詩行のみに脚韻を整える。但しマトゥラウ(冒頭詩行)飲み、前半詩行にも同脚韻を押すのが定番となっている。

本稿での10詩行1篇の脚韻技法(qaafiyah)は、中心となるラウィー(脚韻子音)はraa'/r/なので「R脚韻詩」Raa’iyyahと称される。このラウィー/r/に前節するのが長母音/-aa-/である。二か所/-ii-/となっているが、この例外は認められている。ラウィー/r/に付される母音は/-u/であり、これで詩行が終わるので、/-ruu/と詠唱される。文法的に何か所か/-un/となるところがあるが、これも朗誦、吟ずることを重んずるため、/-ruu/とされる音になる。

 

 

 

 

 

)

                 猟犬サルーキー2態、

左図は獲物に向かって疾走する姿、馬に乗った狩りの一行が、猟犬サルーキーを放ったところ。この走る姿はいつ見ても魅力的である。走力、速力にかけては犬の中でもずば抜けている。中央の人物は鷹も据えている。

右図はまさに襲おうとする姿。相手はウサギであるが、すばしこい。ピョンピョンあちらこちらと跳ね飛ぶ。猟を心得ている犬は相手の首に食らい付く。いずれもPinterest画像より。

 

 

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           第1詩行

前半詩行:

  我早朝に狩り出せり 朝ぼらけやがてその威光顕わす

                       qad aghtadii wa-s-subhu mashhuurun

 

後半詩行:

   そして最初の曙光顕われて辺り照らす

                            qad tala”at fii-hi t-tabaashiiru

 

*         *       *

第1詩行訳注

冒頭詩行はマトゥラウmatla” と称されている。

狩りに出かける時刻は早い。朝が空ける前には出発していなければならない。やがて漆黒の闇から薄明の世界になり、白黒の世界が映し出される。その後太陽が出現し、辺りが色彩豊かな世界へ変貌する。

 

 

前半詩行:我早朝に狩り出せり 朝ぼらけやがてその威光顕わす

「我早朝に狩り出せり」の原文qad aghtadii。ガドゥワ(早朝)の時間帯に行動を起こすことをightadaaという。ここではその一人称単数未完了形。この文句は狩猟詩の冒頭句の常套表現。「朝ぼらけやがてその威光顕わす」の原文はs-subhu mashhuurun 「朝はその身を露わにする」。「身を露わにする」mashhuurは「有名な、名高い」として一般語であるが、元来はこの意味。

 

後半詩行:そして最初の曙光顕われて辺り照らす

「曙光」の原語はtabaashiir。「喜ばす、吉報もたらす」の動詞bashsharaの動名詞tabshiirの複数形。語根はブシュルbushr「吉報、朗報、福音」であり、その派生動詞の動名詞形複数、単数形はtabshiir。この複数形は単独でtabaashiirのみでも、「夜明け、物事の始め」との意味を持つ。薄明の中、太陽光線が出ると、それは闇を取り払い、神々しさと嬉しさをもたらす吉報となる。またこのtabaashiirの語は同時にキリスト教徒の間では処女マリアへの「受胎告知」の用語として知られている。

「顕われて」の原語 tala”at < tala”a「顕われる、上る、昇る」の意味で、天空の星ぼし、太陽、月などが昇る、顕われるときに用いられることが多い。

 

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           第2詩行

 

前半詩行:

   映し出すは我が猟犬 不ぞろいの剣照り映えその吻に収まる。

                          bi-mikhtafi l-ayluli fii khatmi-hi

 

後半詩行:

   両顎の長きこと、その咽喉奥の方まで支えられてあり

                            tuulun wa-fii shidqay-hi ta’khiiru

 

*         *       *

第2詩行訳注

朝陽の浴びる中、視点はまず剥き出しの歯に目が留まる。その歯並びの不揃いさこそ、歴戦を物語る証し。剣の如き歯。歯を支える顎の、吻の長さと深さ、広さも強力な武器の支えとなっている。

 

前半詩行:映し出すは我が猟犬 不ぞろいの剣照り映えその吻に収まる。

「不ぞろいの」の原語はuylul。この語は稀語で普通の辞書には見当たらない。「歯並びが不ぞろい、歯並びが短い」という意味のyalalの語から由来。一説にはその複数形とも。特に「上の歯の歯並びが不揃い」の意味yalal。この語には対立語があり、「歯並びが揃っている、長い」の意味のラウクrawqという。

「剣」の原語はmikhtaf。語根動詞√khatifaは「引き裂く、ひったくる、奪い去る」であり、その道具を表す接頭辞/mi-/が付された動名詞である。猛獣や猟銃の歯、なかんずく牙は「剣」に喩えられる。

「歯並びの不ぞろい」ヤラルは猛獣類、狩猟獣ぬ付されると、それは一種「箔が就く」ことになり、猛禽類が狩猟に長ければ長けるほどそうなるわけで。その上歯の剣は噛みつき抉(えぐ)る働きをしている。それ故経験によって、また力を入れやすい歯、そうでない歯、とでは長短に差が出る。牙、犬歯は個体差が一層はっきり出よう。こうした歯並びに牙が剣と見えて朝日に浴びて輝くわけである。

[吻]は鼻面のことであるが、原語はkhatm。「鼻孔部、鼻、嘴」などの意味を持つ。「吻の長いもの」をアフタムakhtamと言っており、犬でいえばハウンド犬がそうであろうし、ほとんど吻の無い、ブルドッグや狆など多様であるが、狩猟犬は「吻」が長くなければならないであろう。この部分の根元に装着させる「口輪、口枷、鼻輪、鼻枷」を同語根の他の派生語ヒタームkhitaamといっている。

と言っている。

 

 

後半詩行:両顎の長きこと、その咽喉奥の方まで支えられてあり

「両顎」の原語はshidqay。これは双数形shidqayniで、後接されると語尾の/-ni/が省略される。斜格で主格はshidqaani。「顎」の単数形はシドゥクshidqで複数形はashdaaqとされている。剣とされる歯をしっかりと支える。

「咽喉奥の方」の原語は ta’khiir。「遅い、奥まった、後方」の義。顎が浅くはなく、根元深くまで支えられている。歯の力を生む強力な顎が支えとなっている。

 

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             第3詩行

 

前半詩行:

  走らんとせばその尻丸め力強きこと 一歩ごとのその長きこと

                      "alimmasu l-“ajuzi ba”iidu l-khutaa

 

後半詩行:

  胴回り高く長く肢間精一杯広げさらに駿足度増す

                           musaljimu l-matnayni mihdiiru

 

*         *       *

第3詩行訳注

視点を四肢と胴体に移す。走れば後肢が前肢の前に出て、尻が丸く残る。競馬のギャロップで、一完歩が最大の長さに達する。さらに四肢の長く、高いことが力強さと速度を一層増す。

 

前半詩行:走らんとせばその尻丸め力強きこと 一歩ごとのその長きこと

「その尻丸め」の原語 “ajuzi は「尻」であり、馬でもそうであるが、犬が走る時、速力を増すとき、後肢を思いきり前方に伸ばすと尻だけ丸く残されたような形状となる。

「力強きこと」の原語 “alimmasu は稀語であり、どの辞書にも記載されていない。注釈者Ghazaalii はqawiyy “alaa s-sayr ( 走りにおいて力強い)と注釈を加えている。四肢を思いきり伸ばして、尻を丸め疾走する。

「一歩ごとのその長きこと」の原句は ba”iidu l-khutaa。「歩幅が遠い」が原義。khutaa「歩み、歩幅」は複数形で、フトゥワkhutwahが単数形。

 

 

後半詩行:胴回り高く長く肢間精一杯長くとり さらに駿足度増す

「胴回り」の原語matn。マトゥンは「背中の側面、背後」で主として背中や背骨を指して言われる。

「高く長く」の原語はmusaljim。この語は高いと長い(幅広い)を同時に意味しており、動作主は<人間、馬、ラクダ、犬、そして矢>が想定されている。当然ながら<足長>の上に胴回りがあることになる。

「さらに駿足度増す」の原語mihdiirは「速い、駿足な」で動作主は馬である。この語には「速い馬、駿足な馬」そのものをも表し、その複数形はmahaadiirとされている。「馬が走る、駆ける」という動詞は同語根の派生動詞ahdara及びihtadaraがある。「馬で競う、競馬をする」という動詞はhaadaraと言って、意味場を形成している。

 

 

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            第4詩行

前半詩行:

  されば危惧するはいったん獲物狙い定むれば

                     hattaa dha”arnaa kunsan lam yusab

 

後半詩行:

  獲物いかなる手立て用いようにも益なく逃れよう無し

                          bi-haa mina l-ahdaathi maqduuru

 

*         *       *

第4詩行訳注

このような優れた対格・技量持つ猟犬であるから、眼で捉えて狙いを定めた獲物は、一旦襲撃対象とされた獲物はどうあがいて逃げる算段しても不可能で、天命を待つほかない。ここでは獲物がガゼルであることが明かされる。

 

前半詩行:されば危惧するはいったん獲物狙い定むれば

「恐れるは」の原語 dha”arnaaの直義は「我々は恐れた」。動詞dha“ara は「危惧する、懼れる、恐れる」であり、このより一般語はakhaafaである。犬が仕留めるであろう、獲物に対する心情。

「獲物」の原語 kunsan <kunsは「羚羊類(ガゼルが代表する)などの巣、塒」を意味するkinaasの複数形。この語は掃くための「ほうき」miknasahと語根を同じくしており、羚羊類の巣は、そこに潜むために砂を<履き>、掘り、細長い窪地を作り、そこを巣とする、からであるとされる。ガゼルをはじめとする羚羊類もアラブには馴染みの動物のため、その<巣>にまで及んでおり、複数形が展開されている。単数形kaniis、少数形aknisah、多数複数形はここで記されているkuns、他にもkunnasがあり、さらに複数の複数形はmunasaatとされているほどである。

巣であるからには、雌も子供たちもいることであろう。ここでは巣というよりも、少なくとも数頭のガゼルの群れ、と採っておきたい、寝込みを襲うのであれば、猟犬の素晴らしさである、速度と追跡能力とは顕示されることはない。

半詩行末のlam yusabは内容から句跨りで後半詩行に続く。

 

後半詩行:獲物いかなる手立て用いようにも益なく逃れよう無し

句跨りであった前半詩行末のlam yusabは「的を射ない、正しくない:は内容が後半詩行に続く。lamは否定詞で後ろに動詞の短形(命令法)を取る。 yusabは「的をを射る、正解・正しさを証する」という動詞asaabaの未完了形受動形yusaabuから作られる短形(命令法)の形である。

「いかなる手立て用いようにも益なく」の原文は前半詩行からの句跨りになって内容が導かれる。lam yusab bi-haa mina l-ahdaathiの直訳は「それ(ガゼルの巣)によって、多くの手立て・手段(hadiithの複数形)も的を得ず、正解なく」となる。

「逃れよう無し」の原語は maqduuru。カダルqadar「運命」に任される。死ぬ運命にある。

 

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             第5詩行

 

前半詩行:

   獲物たち怯え慌てて、飛び上がりて寄り集まる

                  iqtaranat min khashyatin li-r-radaa

 

後半詩行:

   ズンブール砂塵の中 定めた獲物に突進

                        “affara-haa fi n-naq”i zunbuuru

 

*         *       *

第5詩行訳注

視覚と臭覚の優れた犬は獲物の潜み場所も見つけ出してしまう。そしてその塒に突進。急を突かれたガゼルたち、ピョンと跳ね上がり慌てふためいて、皆集めるところに向かう。しかしそうした砂煙で見えぬ中、猟犬ザンブールは砂塵の中へ。

 

前半詩行:獲物たち怯え慌てて、飛び上がりて寄り集まる

「怯え慌てて」の原語khashyatin<khashyah、で「怯え、恐怖、懼れ」の意味。

「飛び上がりて」の原語はradaa。原型動詞で、√radaa<radaya「飛び回る」で動作主は<子ども、羚羊類、馬などの走る動物の子ども>である。ここでは慌てた様も加わる。

「寄り集まる」の原語はiqtaranat<iqtarana。iqtaranaは「結合する、団結する」の意味。この語は「角」qurnが語源となっており、「角突き合わす」が直義であるが、この場合喧嘩腰の雄が戦い合うの意味ではなく、我が国の相談ごとのような「額を寄せ合う」の意味に近く、それゆえ「団結とか相談」との意味になる。

 

後半詩行:ズンブール砂塵の中 定めた獲物に突進

ズンブールZunbuurは犬の名前である。この犬名については先の2月16日付けのアラブ狩猟詩(6)「猟犬 我と共に、カモシカ狩り Kalbii Ma”iyy」の記述の中で紹介してある。            「我が犬」としていたのは猟犬ズンブールZunbuur(「大スズメ蜂」の義)である。そしてこの詩一篇「ズンブール」11行詩については、筆者は既に訳出紹介している。(「アラブの狩りと犬たち」『月刊百科』平凡社、205号,1979年10月号、34-40頁)。

「砂塵」の原語ナクウ naq” は「風塵、埃」の義。「埃、砂煙」のことは、より一般にはグバールghubaarや次に紹介するアフル“afrがある。

「定めた獲物に突進」の原語は“affara-haa、「それを埃の中襲う」。“affaraは「埃だらけになる、埃にまみれる、埃に中に転がす」。この語も<埃>と縁語で、そもそも語根は上で触れた

‟afrなのであるから。

 

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            第6詩行

 

前半詩行:

  その様恰も的に向かって射られた矢の如く

                   ka-anna-hu sahmun ilaa ghaayatin

 

後半詩行:

  あるは夜天の地平線に落ち行く流星か

                       aw kawkabun fi l-ufqi mahduurunn

 

*         *       *

第6詩行訳注

詩人の愛犬ズンブール、その疾(と)きこと矢の如く、あるいは流れ星の如く。ここでは獲物のガゼルに向かって猛進しているわけであるから、そのダッシュはいかばかりか。

 

前半詩行:その様恰も的に向かって射られた矢の如く

「的」の原語ghaayatin<ghaayahは「目的、意図、的」の意味。この語を用いた常套句に、「意図に沿って、目的どうりに」li-l-ghaayah、あるいはbi-l-ghaayahがある。「思いのほか、事のほか、非情に、はなはだしく」などの達成感を表す言い回しになっている。

「矢」が放たれた如くであるから、太っていては話にならない。痩身で時事を伸ばして疾走する姿は、実際見ると矢のようで、見惚れてし合う。

「矢」の原語はsahmun<sahm。矢サフムsahmは矢軸キドゥフqadh と矢尻・鏃ナスル nasl 、またはジュッジュzujj、矢羽根リーシュriysh、またはバリーシュbariishとから成り立つ。矢軸キドゥフの方は筮竹として占いや賭け事などに用いられる。また「矢」サフムal-Sahm 、「鏃」ナスルal-Naslは星座名、星名として天界にある。

天界の星ぼし、星座に中に二つの矢サフムal-Sahm及びナスルがある。

一つは星座として、もう一つは星座を構成する星名として。

先ず星座の「矢座」の方であるが、我々のよく見知った夏の大三角の中にあるから、夏の空気の澄んだ夜空では肉眼で見えるであろう、二等辺三角形の南の頂点にあるアルタイル、そのすぐ北に三角形の底辺と並行するように並ぶ四つ星、これが「矢座」であり、最も小さな星座の一つとされている「矢座」学名Sagitta、英名the Arrow、そしてアラビア語ではサフムal-Sahmである。しかもその星座のα星3等星ながら名称を持ちシャムShahmとされている。星座名をα星が代表する。多くの星名がそうであるように、ShahmまたはShamは「矢」のアラビア語サフムsahmは西洋に借入される過程で転訛されたものであることはお分かりであろう。

もう一つは射手座Sagittarius、the Archer亜名al-Raamii(射手)の中にあり、射手座の南斗六星の前の最西端γ星、矢の先端にあり、学名もナスルNaslとの固有名を持つ。ナスルとはアラビア語から由来し、上で述べたように「鏃(やじり)」である。アラブ・イスラム世界ではナスルal-Nasl、他にもズッジュal-Zujjuと称されている。

 

 

                 下図は「矢座」四様

  

矢座は狭いY字とされている。そして四つ星構成とされている。矢羽根がα星シャム、β星、軸がδ星、そして鏃はγ星とされている。しかし中世アラブ・イスラム世界では五つ星であり下図に描かれている通りである。すなわち軸にはもう一つδ星の先にζ星が描かれている。上図右もδ星の代わりにζ星が記されている。いずれもPintarest画像より。

 

 

後半詩行:あるは夜天の地平線に落ち行く流星か

「落ち行く」の原語mahduurun< mahduurは「下る、降りる、落ちる、流れる」の意味の動詞hadara の受動分詞で,kawkabに掛かるから「降下する、落ちる、流れる(星)」。

「地平線」の原語 ufqi<ufqは 「平面、水平線、地平線」の意味。

「流星」の原語kawkab。一般的な星はナジュムnajm(大文字にして固有化したal-Najmとは「スバル」のこと、我が国でも最小納言が「星は昴」といっているように、仄かさが魅力的なのであろう)よされている。しかしカウカブkawkabの方は、より時代的に古く、古代バビロシアに遡る可能性がある。ヘブライ語でもコカブkukabとされている。ここで用いられている「流星、彗星」の意味も持ち、こちらは不吉観が伴う。わが国では瑞兆とみられているが、イスラム観では「サタンを射る矢」として不吉がられている。堕天使となったサタンは人間を誘惑して悪の道に誘い込む。元天使であったサタンは天空の果てまで上り、そこが第7天の最下部なのであるが、そこで聞き耳を立て天上で行われていること、交わされている会話を盗み聞こうとする。それに気づいた天使が神に注進する。神はサタンに対して流星カウカブを放って追い払う。これがカウカブの流星観なのであるから。したがって「カウカブの顕われる日」Yawm Dhuu Kawaakib(kawkabの複数形)とは「不吉な日、不運な日、ついていない日」のことを言い表す。英語でも「流星」のことをShooting Starと言っているが、聖書起源であろう。

流星の善悪観をともかく、我が国の様に願い事を三度唱えれば叶えられる、というほどゆっくりとしてはいない。瞬時に、アッという間に消えてしまう。それほどに早く流れ消えてしまう。詩人の愛犬ズンブールの駿足ぶりを流星にまで喩えるのは新機軸て妙である。

 

 

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           第7詩行

前半詩行:

   たちまち背後に接近 雄ガゼルを狙って仕留める

                       fa-haana min-haa qarhabun “uffirat

 

後半詩行:

  ついで砂塵の上がる中雌ガゼル、埃色ガゼルを斃したり

                          min ba”di-hi “anazu wa-ya”huuru

 

*         *       *

第7詩行訳注

ガゼル群の中から狙い定めた雄ガゼルに猛追し、仕留める。粉塵の上がる中、次いで近くにいた雌ガゼルと埃色ガゼルとを斃した。

 

前半詩行:たちまち背後に接近 雄ガゼルを狙って仕留める

「接近」の原語 haana は時を表す用語で原型動詞√haana< hayana は「時が来る、時期が来る」の意味であり、語源は名詞ヒーンhiyn「時間、時期、機会」である。これを対格の副詞用法にしてhiynanとすると「しばらく、時折、暫時、ある日」などの意味となる。hiynの語に付加語尾/-ah/を付してhiynatanと副詞用法にすると「日に一度」の意味となる。その複数形は「時々、しばしば」のいみで口語でも用いられるアフヤーナンahayaananである。で原型動詞√haanaa は「時が来る、時期が来る」である。<運命>も時である。死すべき時の意味も持ち合わせ、他の派生名詞ハインhayn は「試練、破滅、死」の意味を持つ。ここではhaanaの主語が雄ガゼルであるから「雄ガゼルに死の時が来た」の方がより近い訳となろう。

「雄ガゼル」と訳した原語カルハブqarhab。この語は普通の辞書には見当たらない稀語であり。レキシコンLisaan al-Arab(1p.621)によれば、「雄牛」al-thawr の成長段階別名称で「年老いた雄牛、老雄牛」al-thawr al-musinn とある。(同書1p.621) ここでは状況的に砂漠や半砂漠では牛はいないので、ガゼル、雄ガゼルをさして言っているのであろう。

「雄牛」のことであるが、英語でcowは「雌牛」、oxは「雄牛」と習うが、雄でも「種牛」はbullと言っているはずである。oxは「去勢雄牛」のことになる。牧畜文化の盛んな地域では、こうした認識は当たり前で、アラブ世界では「牝牛」はバカラbaqarah、「雄牛」はバカルbaqar、そして「種雄牛」はサウルthawrと言って区別する。

御存じの黄道12宮の「牡牛座」Taurusも、英語ではthe Bullであり、アラビア語でもこのサウルal-Thawr「種雄牛」であることを断わっておこう。なぜ「牡牛座」、「牡羊座」とわざわざ<雄>と特殊化して言わねばならないのか。この起源が遊牧文化、牧畜文化であったことを考え合わせれば、少し納得できよう。

牛と星座のことを述べたついでに、天文の星のことを述べておくと「若牛」をアラビア語ではファルカドfarqadというが、こぐま座のγ星(光度3.1)の名称はフェルカドと言っている。天文学ではpherkadと綴られるが、西欧に借入される段階で転訛されてしまっている。Taurus原語も加えて、こう並べて見ると家畜の相対化の深さが分かるであろう。

半詩行末の “uffirat は後半詩行に掛かる句跨りになっている。

 

後半詩行:ついで砂塵の上がる中、雌ガゼル、埃色ガゼルを斃したり

句跨りになっている半詩行末の “uffirat は「埃まみれになる、粉じんの中で倒す」を意味する"affaraという動詞の受動形(三人称女性単数)である。したがってこの「粉塵の中斃される」のは後出する雌ガゼルであり、茶色カモシカである。文脈上、猟犬を主体に能動態で訳出した。なおこの語の語根義は、「埃」アフル ”afr から由来しており、その派生形になる。「埃色ガゼル」の原語 ya"fuurは「埃色の、土色のカモシカ、ガゼル」のこと。この語は上の“uffirat 「埃まみれになる、粉じんの中で倒す」と同じ語根を持ち、その派生形でその色の動物を言い表している。

「雌カゼル」の原語 アンズ "anzは「雌ガゼル、雌ヤギ、雌カモシカ」と羚羊類の、<雌>を多義に表すが、最も多いのはやはり家畜である「雌ヤギ」である。ここでは明らかにガゼルの群れなので、「雌ガゼル」となろう。

 

 

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            第8詩行

 

前半詩行:

   さらに我ら協力して行く手塞ぎ 近くをまごつく4頭を血祭りに

                       hattaa idhaa waalaa la-naa arba”an 

 

後半詩行:

  しばらくしてさらに2頭を仕留める その成果いかばかりか!

                       wa-thnayni wa-l-majhuudu mashkuuru

 

*         *       *

第8詩行訳注

一頭と格闘して仕留めるまでには時間が要る。獲物の群れも先へ先へと逃げてしまう、あるいは四散して追跡しにくくなってしまう。そこで狩人一行は先回りして、逃走する方角へ人を配してそちらの方向に逃げない算段をする。獲物が間誤付く間に、猟犬が次々と倒してゆく。こうしてズンブールは多大な成果を上げ、「もう十分!」と言わしめる。

 

前半詩行:さらに我ら協力して行く手塞ぎ 近くをまごつく4頭を血祭りに

「我ら協力して」の原語 waalaa la-naaの直義は「我らと協力して、我らの援助者となって、我らと一体となって」であり、動作主は猟犬の方である。狩りの一隊はガゼルの逃走する方向に先回りして幾方向かの行く手を塞いだ。そこでズンブールは素早く動き、近くをまごつく4頭を斃した。

 

 

後半詩行:しばらくしてさらに2頭を仕留める その成果いかばかりか!

「成果」の原語はmajhuud。「大いに努力する、苦労する、試みる」という原型動詞√jahadaの受動分詞形、「努力の結果、成果」を言っている。イスラムの「聖戦」とされるジハードjihaadもこの原型動詞から由来する。また「努力家」のことはムジュタヒドmujtahidと同語根の別の派生形であるが、よく知られた語もある。

「いかばかりか!」の原語はmawfuur。「豊富である、数多い」を意味する原型動詞√wafara

の受動分詞形で、上の「成果」majhuudと同語形態を並べる工夫を凝らしている。わが国で言えば讃嘆的に「もう十分!」というところか。

 

 

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           第9詩行

前半詩行:

  我らもすぐ奮闘の現場へ急ぎ 犬の血や穢れ拭い落とす

                          ruhnaa bi-hi nandahu a”taafa-hu

 

後半詩行:

  されど彼 かほど成果上げるといえども 謙虚さ表に

                          wa-huwa bi-maa awlaa-hu mashkuuru

 

 

*         *       *

第9詩行訳注

狩りは終わった。猟犬のいる現場へ駆けつける。犬の格闘で傷ついたところ、血だらけのところを水を使って綺麗に落としてやる。このような素晴らしい成果を上げても猟犬は奢るところはなく。主人の前に恭順に従うだけ。

 

前半詩行:我らもすぐ奮闘の現場へ急ぎ 犬の身体の血や穢れ拭い落とす

「犬の身体の血や穢れ拭い落とす」の原語は nandahu a”taafa-hu。nandahu は「水を振りかける、濡らす」という動詞nadahaの一人称複数未完了形。「洗い落とす」の義。a”taafa<a”taafは「体の側面、脇の下」を意味するイトゥフ”itfの複数形。体の側面であるから、双数形で表してもよいところであるが、格闘した後なので、側面でもあちこちに傷を負ったり、血だらけになったり。返り血を浴びたりした部分も拭って水をかけて綺麗にしてやる意味もあって複数形となっている。

 

 

後半詩行:されど彼 かほど成果上げるといえども 謙虚さ表に

「かほど成果上げるといえども] の原句は bi-maa awlaa-hu。awlaaは「利益を与える、成果を与える」で、利益・成果とは猟で獲物を多く仕留めたこと。この動詞は二重他動詞を取るので、「我らにその成果を与えた」となる。そして前の第8詩行の「我ら協力して」の原語 waalaa la-naaの「我らと協力して、我らの援助者となって、我らと一体となって」であるが、この語と語根が同じでwaalaaの方は相互的な他動詞で「お互いに成果を上げようとする、成果を争う」ということになる。

「謙虚さ表に」の原語はmashkuur。「感謝して」が直義。このような命を懸けての逃走をしたにもかかわらず、狩りをさせてくれたことに感謝して従順に畏まっている。この語はよく知られている「有難う!」のシュクランshukranと同語根である。

 

 

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           第10詩行(最終詩行)

 

前半詩行:

   我ら犬従え行きて猟仲間としばし集いて語らう

                    ruhnaa bi-hi fii tirbatin idh atat

                  

後半詩行:

  まこと彼努力の賜物 今や猟犬の至宝ここに記しておく

                      wa-mithlu-hu li-l-juhdi madhkhuuru

 

*         *       *

第10詩行訳注

最終章であるから総括する。狩りを終え、猟犬を従えて他の狩猟仲間と落ち合う場所に出かけ、そこで今回の狩りの成果や犬のこと、狩場のこと、獲物のことなど反省や改良点などを話し合う。ズンブールの働きは群れを抜き、優秀性を求められ、詩人自身が詩で謳い後世に残すことにした。

 

前半詩行:我ら犬従え行きて猟仲間としばし集いて語らう

「猟仲間」の原語はtirbatin<tirbah<tirbは「友人、仲間、相手、同時代人」の意味。もう少し具体的には、この名詞から派生した動詞taarabaが明らかにしている。「何らかの技能において対等である、同じ志である」。すなわちtirbは「同好の人士、同士」、ここでは「狩猟を共にする仲間」ということが明らかになる。

「しばし集いて語らう」の原句はidh atat。atatは「来る」を意味するataaの活用形。「彼らが参集したとき」。「我らが行き(集う)」ruhnaa、我らも狩猟仲間であり。彼らも狩猟仲間であろう、にもかかわらず相手の狩猟仲間を物や動物の複数形と同じく「彼女」で受けてatatと活用させている。

 

 

後半詩行:まこと彼努力の賜物 今や猟犬の至宝ここに記しておく

「努力の賜物」の原語はjuhd。「努力、能力」の意味で、第8詩行で述べた「成果、努力の結果」majhuud、「大いに努力する、苦労する、試みる」jahada、「聖戦」ジハードjihaad、「努力家」mujtahid、これらと同語根であり、juhdは語根動詞の動名詞形である。

「ここに記しておく」の原語 madhkhuuru。「記憶する。覚えておく」という原型動詞√dhakaraの受動分詞。「記憶される、思い出される」の意味で、ここでは詩にして残しておくことを意味する。

こうしてアブー・ヌワースの狩猟犬ズンブールZunbuurはいくつかの詩に詠われ、後世までその名を不朽のものとなったわけである。

 

 

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    ————了————

                                           

 

        鷹Baaziiを叙す Waqaa’i” al-Karaakii 

                                                                     アラブ狩猟詩(9) 

 

キーワード:

アラブ狩猟詩 大鷹の鷹狩り 作詩者アブー・ヌワースAbuu Nuwaas

「鷹baaziiを叙す」  「鶴への急襲」Waqaa’i” al-Karaakii

7詩行 「R脚韻詩」al-Raa’iyyah

詩作に駆られる名鷹   体毛色  眼光 目蓋や瞬膜は黒くアイシャドウ 

目回り黒く眼球の黄金引き立たせる  我が国の鷹目形12種

太い首は関節の様  突き出た頑丈そうな胸

嘴も広く太く両顎に収まる  趾、鉤爪の大きくて強い 大物獲りとならん

 

 

 

 

アラブ狩猟詩の9回目。今回も鷹狩りの分野である。原作者は前と同じく9世紀アッバース朝全盛期に活躍したアブー・ヌワースAbuu Nuwaasであり、その詩集Diiwaanの「狩猟」の部、658頁の七行詩である。「鷹baaziiを叙す」との題にしたが、原典の詩題は「鶴への急襲」Waqaa’i” al-Karaakiiとなっている。

この題は相応しくない。というのも、この詩題は最終詩行からの語句から採られたものであって、六詩行目までは鷹の部位の描写である。このような申し分のない部位を持つ鷹だからこそ、最終詩行に大物の鶴であっても狩るであろう、と述べられる。そこが詩題になってiいるのだから。ましては狩りの描写は全くない。それ故、内容を考慮して「鷹Baaziiを叙す」とした。

「鷹Baazii」とわざわざローマ字で原語を加えたのは、アラブの鷹狩りの代表格はハヤブサ類(シャーヒーンやセーカーなど)であり、広大な天空から襲う揚げ鷹が多いが、今回はオオタカ・Baaziiだからである。天空からよりも低い空、樹林の間を縫うようにして獲物を捕らえる。そのため気性がより荒く、身体がより頑丈で、尾もより長い。

 

オオタカの亜種の中でも、ユーラシア大陸北部が主生息地で、Nouthern Hawkと言われる。日本の亜種は白い眉斑と黒い眼帯が特徴である。アラブ世界では半島北部に飛来し、鷹狩り用に捕獲される。全体に淡く白色系のものが多い。

そのため、ヨウヨウ鷹のところでも見た如く、他の色に染まりやすく、特に朝陽や夕陽に照らされると、きれいな有彩色となる。わが国でも大鷹(おおたか)の語源が、その頭から尾羽にかけた上面が灰色になり、光の当たり方によっては青っぽくも見える、このことから「蒼鷹(あおたか)」と呼ばれるようになり、これが名前の由来となった、とされている。

 

詩の内容は:

名鷹を叙す、と称して良かろう。見れば見るほどその美点が際立つ鷹である。詩人も「我らが鷹」と記しているので、彼の所有かは定かではないが、心を動かされ、詩人としての感性が思わず試作に狩り出されたのであろう。詩に叙して世に知ってほしい、として謳い上げる。

鷹目利きと賞賛はまず体毛色から。その白と若干の赤毛交じりの月毛色。シロオオタカに近い種であろう。オオタカの中でも見栄えが良く、高位高官、特権者の持ちたがる白色、月毛色。この鷹はそうした月毛色の中でも絶品。

ついであの眼に移る。その黄色い輝き、矢のように遠くまで見る人の眼を射る。目蓋や瞬膜は眼の上下に収められ、黒色をなし、コホル(アイシャドー)の役をなす。と同時にそれが囲む眼の黄金色をを一層際立たせる。無骨そうな頭部の中にあって。参照としてわが国の「鷹目形十二種」の図を挿入しておいた。

鷹への視点はその胸、突き出た頑丈そうな胸に移る。

視点を下の胸からその上の口と首とに移す。関節のような太い首、嘴も強く太く広く両顎の口元に収まっている。

次いで視点は足元に及ぶ、猛禽類の最大の武器である趾、鉤爪の描写。長く荒く強い趾は猛禽類でも鷲鷹は最大で、獲物を鷲掴みにするには格好であり、さらにその先の鉤爪。鉤爪は刃物のように鋭く、経験を積めば獲物の肺の位置まで見当がつけられ、一蹴りで刀のように胴体を切り裂く。最終詩行は、この詩行を持って終わるので、総括する。今まで述べきたった際立つ鷹の部位。それを用いて狩りをすれば、大物とされる身体がはるかに大きい鶴、コウノトリ、雁であろうとも、何処に潜もうとも、いったん獲物として狙われ、襲われれば、その結果は明らか、と締めくくる。

 

形式に関しては:

ラジャズの詩形を半詩行(misraa’)として、前後半詩行に分けて一詩行(bayt)としている。

全体7詩行であるが、真ん中の第4詩行のみ半詩行にして中央に配して、元のラジャズ詩形の名残を留めるようにしている。

半詩行すべてに脚韻を踏ませている。脚韻技法(qaafiyah)は、その中心となるラウィー(脚韻子音)は/R/raa'である。したがって詩全体は「R脚韻詩」al-Raa’iyyahと称される。このラウィーに付される母音も/i/であり、したがって脚韻構成は前接する母音無し子音+r+iで統一されている。例外はラウィー後の母音/-i/が非限定の/-in/となったり、長母音/-ii/となっているが、これは詩法では許容されており、また朗誦や詩吟においては、すべて長母音じゃされ/-ii/とされて休止空間に入って咀嚼され、吟味される。

 

    アラブ世界の鷹狩りに用いられているオオタカNorthern Hawk (亜) Baazii。
上左図はイラクやシリア北方には生息するが、半島南岸や湾岸地方には多くは見られないオオタカAccipiter gentilisの雌。右図は幼鳥の飛翔図。幼鳥は胸班が厚く縦にあるが、成長に伴い横班になり、その密度が増す。また眼の黄金色も赤味を増してゆく。Tuyuur Umaan(オマーンの鳥類) p.93

左図は野生の鷹でユーカリの木の枝に止まっている。右足は分枝した枝先を掴んでおり、不安定。眼の方向は獲物がいるのか地面を見遣っている。左図は飼いならされた鷹で足革も付いており、飼い主の皮手袋の中に納まっている。インターネット画像より。

 

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        第1詩行

前半詩行:

   我汝を愛(め)ずる オオ我らが鷹よ 賞賛するとも

                        utrii-ka yaa baajii-naa wa-utrii

 

後半詩行:

   自発的に心底から そして作詩して世に知らしめん

                       murtajilan wa-fii habiiri sh-shi”ri

 

*          *      *

第1詩行注釈

「我らが鷹」と叙するので、詩人所有かは定かではないが、いつでもそこへ行けばお目に掛かれる優れた名鷹がいる。見れば見るほどその美点が際立つ鷹である。詩人も心の底からほれぼれして、詩に歌いあげて世に知ってほしい、として謳い上げる。

 

前半詩行:我汝を愛(め)ずる オオ我が鷹よ 賞賛するとも

「我汝を愛ずる」の原文はutrii -ka、utriiは「褒める、賞賛する」という他動詞atraaの一人称単数の未完了形である。この語は「新鮮さ、瑞々しさ」を表すtaraawahを語源とするから、そうした新鮮さやみずみずしさも意味要素が加わっている「褒める、賞賛する」ことを表そう。

「オオ我らが鷹よ」の原語はyaa baaziya-naa、「我が鷹」baaziyiiないしはbaaziya-niiと言ってはいない。個人所有ではなく、もっと高位のカリフ・ハールーンか、宰相ジャアファルか、あるいは鷹匠頭の名鷹で、それを「我らが」と言いあらわしている、とみられる。

「賞賛するとも」の原語は、wa-utrii「そして我愛ずる」。詩行の中に同義・同一形態語が入っているのは、詩法上は下手であり、忌避されるが、一流詩人がわざわざ用いるとそれは同時に強調性、驚嘆さを浮き立たせていることになる。

 

後半詩行:己自身の心底から そして作詩して世に知らしめん

「己自身の心底から」の原語murtajilan。この語は動詞「自らから進んで行う、即興で行う」の意味を表す動詞irtajala の能動分詞である。語根は「男、人間」のrajl、および「足」のrijlであり、それから派生した。

「そして作詩して世に知らしめん」の原文はwa-fii habiiri sh-shi”ri。直訳は「されば詩の知の領域の中に」。「知らしめん」の原語 habiiri< habiirは「知識・情報伝えるもの」。「知識・情報」の habar(pl.ahbaar)が語源となる派生形。なお「全知全能なる神」という聖句での「全知」はこのal-Habiirが用いられることが多い。

 

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         第2詩行

前半詩行:

   月毛そのものの体毛色 鷹に似つかわしきもの

                          aqmaru min darbi buzaati qumrin

後半詩行:

   眼のその輝かしきこと 眼光鋭く遠くまで放つ

                          yasqulu himlaaqan shadiida t-tahri

 

*          *      *

第2詩行注釈

賞賛はまず体毛色から。白や灰いろの明るい体毛色をしており、その白と若干の赤毛交じりの月毛色。オオタカの中でも見栄えが良く、高位高官、特権者の持ちたがる白色、月毛色。この鷹はそうした月毛色の中でも絶品。ついであの目に移る。その黄色い輝き、矢のように遠くまで見る人の眼を射る。

 

前半詩行:月毛そのものの体毛色 鷹に似つかわしきもの

「月毛」の原語aqmar、直義は「月色の」こと。語源は「月」al-Qamar。わが国の馬事用語では毛色の中で、白毛気系統の馬を「葦毛」と言うが、その中でやや赤みを帯びた毛色のものを「月毛」と言い慣わしている。アラブの「月毛」、その色は「白色、銀色の明るい色、白の中に緑と灰色が入った色、とも」。なおaqmarは色彩形容詞「月毛の」であり、女性形はqamraa'、それらの複数形はqumrであり、この半詩行の最後の語がこれである。

なお双数を用いた「二つの月、月二つ、」al-Qamaraanとは「月と太陽」。天球を夜と昼支配する両者。「月」を代表させるところに、熱暑と日射に苛まれる太陽、、涼やかさと冷たさに癒される月、両者へのアラブ民族の心情が表されている。

「体毛色 鷹に似つかわしきもの」の原文は min darbi buzaati qumrin。buzaatin<buzaatは「鷹」baaziiの複数形。それに掛かる形容詞「月毛の」も色彩形容詞複数形qumrin<qumr,

上のaqmarで説明してある。この部分の直訳は「月毛の鷹々の類の中でも、最も‥‥」

 

後半詩行:眼のその輝かしきこと 眼光鋭く遠くまで放つ

[眼]の原語 himlaaqan< himlaaq は、具体的には「眼の回り、瞼・目蓋の先端」の意味であり、ちょうどアイシャドーが塗られる部分とされる。多くの動物の場合、眼は人間のように瞼が半開きではなく、すべて上下の縁に収まり、黒く見える。アイシャドーの役もしている。次詩行で謳われる。

しかしここでは、明らかにその目蓋の部分では無く、眼全体を言っており、この動詞形 hamlaqaの意味も「瞼を大きく開いて見つめる」であり、本文でも「鋭い」と言っているのであるから、動作主は<瞼>よりも<眼>そのものである。。

「その輝かしきこと」の原語はyasqulu は動詞saqalaの未完了形であり、「磨く、磨かれる、光沢・艶(つや)を出す、光沢・艶が出される」と自動詞にも他動詞にもなる。

「眼光鋭く遠くまで放つ」の原語shadiida t-tahri。tahri<tahrは「遠く放つ、遠く飛ぶ」という動詞tahara の動名詞形である。動作主は<矢>が想定されており、眼の矢「眼光が遠くまで射る」ということになる。

鷹の眼は確かにずっと見ていても飽きないが、射すくめられている感覚もしてくるものだ。

 

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        第3詩行

前半詩行:

  回り黒く中に黄金引き立たせる コホルを施した如くぞ

                        ka-anna-hu muktahilun bi-shibri

後半詩行:

  小石だらけの集まりのような頭部の中にあって燦然と

                     fii haamatin lummat ka-lamma l-fihri

 

*          *      *

第3詩行注釈

鷹の眼の描写が続く。目蓋や瞬膜は眼の上下に収められ、黒色をなし、コホル(アイシャドー)の役をなす。と同時にそれが眼の黄金色をを一層際立たせる。無骨そうな頭部の中にあって。下図を参照。

 

前半詩行:回り黒く中の黄金引き立たせる コホルを施した如くぞ

「黄金」の原語shibli<shiblは「富、黄金」を意味しており、一般語で言えばザハブdhahabである。コホル(アイシャドー)で回りを囲まれた眼球の白目の部分は黄色、黄金色に輝く。

瞼が収まる周囲の黒がよく映え、一層黄金色を引き立たせている。この黄金色も年を経るごとに赤色に変化してゆく。若いほど黄色が目立つ。

「コホルを施した」の原語は muktahilun<muktahil は「コホル(アイシャドー)を目の周りに塗る」という派生動詞iktahalaの能動分詞形である。語源は「コホル、アンチモニーや灰で製した塗粉」 kuhl である。激しい日射対策や虫除けとして古くから女性に限らず男性も施していた。西洋に転訛したアルコールalcoholの語源はこの「コホル」al-kuhlであるが、転訛して行く過程でまったく意味を異ならせてしまった。

 

後半詩行:小石だらけの集まりのような頭部の中にあって燦然と

「頭部」の原語haamatin<haamahは「頭、頭頂」を意味する。一般語ではラッスra'ssである。こちらhaamahの方は、「頭部、頭頂」であるから「頭部、頭頂を飾る物」の意味として「冠」の意味にも、また「頭部、頭頂を飾る者」として、「指導者、支配者」の意味をも持っている。

「小石」の原語fihri<fihrは「小石、掌に握るによい石、擂り粉木石、杵」の意味。

lamma「拾い上げる、集める」でその動名詞がlamm。同族目的語を使用しているわけであるが、こうした同語を一行の中で用いるのは良くないとされている。

東部の羽毛で隠されれているが、筋肉と頭骨が発達して頭部は滑らかさより隆々とした様になっている。

 

       我が国の鷹目形12種

鷹の眼を見入ると、魅入られる。アラブ世界同様、我が国の鷹匠たちは大名などのお抱えになり、鷹飼育、鷹猟を発達させていった。こうした伝統の中で、鷹の白目=黄色目の中に斑点のあるものがあり、鷹目形と称してその特徴と性格を長年の経験と伝承から、タイプ化して12種に分類している。これは遺伝ではなくその個体の特徴となるので、上の表のように描かれ、『鷹の書』の中に盛り込まれていった。三流派の本図は筆者が責任編集した『鷹の書』235頁(第9分冊7頁)に掲載したもの。この辺りの本文にはその特徴が記されている。

2004年のこと、第9分冊として学部紀要に載せることは決まっていた。が、この図は白黒では判然としないのでカラーで載せたい旨、編集委員会に申し出た。コストがかかるならこちらで負担することも申し添えた。前代未聞のことであったので、結論が大分遅れたが、委員会が承諾してくれたので、我が意が叶えられた。印刷所の不二印刷も特別高級紙を用いて再現してくれた。そして、それが最終の11分冊を終え正式に『鷹の書』として書籍となる段階で、労に報いる意味から印刷は不二印刷に頼んで製本して頂いた経緯が思い出される。さらに印刷所は出版できないので、書籍番号を取り、販売も任せる出版社が必要であった。インターネットの時代なので、近くの小冊子の出版社に頼んだ。が、三年後には潰れてしまった。出版社名は印刷されているので変えられないので、販売店が必要となる。その後転々と販売店探しをして、今はネット販売で、板垣雄三先生のお計らいで「信州イスラーム勉強会」に委託している。

 

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         第4詩行

(前半詩行、後半詩行と分けず中央に半詩行一つを配する)

 

中央半詩行:

   その胸たるや硬き岩の如く堅固ぞ

                     wa-ju’ju’in ka-l-hajari l-qahqarri

 

*          *      *

第4詩行注釈

鷹への視点はその胸に移る。前に突き出た頑丈そうな胸。強固な岩を連想させる。

                                                                                    

中央半詩行:その胸たるや硬き岩の如く堅固ぞ

「胸」の原語ju’ju’in<ju'ju'は「鳥の胸」。普通「胸」はすべてに適用されるサドゥルsadrというが、鳥に胸は突き出ており特別の用語ジュウジュウju'ju'が用いられる。わが国の「鳩胸」がこれに当たろう。

「固き岩」の原語al-hajari al-qahqarri。「固き」と訳したqahqarri<qahqarrは「反り返った(岩)、風と対抗するような、強固な(岩)」の意味であり、語根動詞√qahqaraは「後ろに歩く、後退する、逆行する」の意味である。但し単なる、背を向けての逆行ではなく前を向いて>が条件になる。「後退(ずさ)り」が最も近い意味となろう。アラビア語にも前から読んでも後ろから読んでも文意が成り立つ「回文」がある。この「回文」の用語をやはりカフカリーal-Qahqarii と呼んでいる。

 

 

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        第5詩行

 

前半詩行:

   その首の太きこと指の関節の如く

                min minhararin rahbin ka-“aqdi l-“ashri

後半詩行:

   その嘴は何ものをも倒し、広く口元に収まる

                    wa-minsarin aqnaa rihaabi l-shajri

 

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第5詩行注釈

鷹の描写は視点を下の胸からその上の口と首とに移す。太い首は頭部と身体部とを結びつけ、両者を自在な、また強力な動きや反射を可能にする。恰も細い指にあって関節の如く太い、と。また首に接続する嘴もまた独特の用語を持つほど無敵であり、広い両顎の口元に収まっている。

 

前半詩行:その首の太きこと指の関節の如く

「首」の原語 minharin<minharは「胸の上部、首の上部」を意味する。首の太さは頭部に負けない程太い方がよく、外観と実際の武器の威力を増す。嘴、蹴爪だけでなく、首で相手に圧力もかけられる。

「首」の原語minharは派生義で、ナフルnahrが語源である。この部位は動物を屠る時の部位であり、最も安楽に即死させる部分とされている。語根動詞の意味が面白い。√naharaは「屠る、屠殺する」の意味である。具体的意味は「屠られる動物の首の上部minharを突くか切り裂いて屠る」の意味である。すなわち「首の上部」minharとは「首の上部=屠る部分」との意識がある。

犠牲祭他の晴れの場で肉を提供するラクダ、羊、ヤギなどの「犠牲動物・犠牲獣」は、この語根動詞の受動分詞ナヒールnahiirまたはマンフールmanhuurと言われている。また「犠牲獣を屠る人・屠殺人」のことは語根動詞の能動分詞ナーヒルnaahirと意味場を広げている。巡礼月の10日目の大祭「犠牲祭」も一般にはイード・ル・アドハー”Iid al-Adhaaとして知られているが、別名が「首の上部(が屠られる)の日」の意味でヤウム・ナフルYawm al-Nahr としても知られている。

「指の関節の如く」の原語はka-“aqdi l-“ashri。直義は「十(指)の結節のよう」。「関節・結節」の原語 “aqdi< “aqdは「結び目、繋ぎ所」であり、指に当てはめれば一番広く太い部位である。

「指」と訳した原語 “ashri<“ashrのの意味は「10」であり、文脈から「十指」を指すことが分かる。一般には「指」はウスブウusbu” (複数形はasaabii”)、またはアンマラanmalah(複数形はanaamil)というが、このような数値で表すのは創意であろう。但し鷹の趾は8本である。

 

後半詩行:その嘴は何ものをも倒し、広く口元に収まる

「嘴」の原語はminsarin<minsar。「嘴」は一般にはminqaar(直義:啄つく道具)であるが、猛禽類の鉤型の「嘴」はミンサルminsar(削ぎ取る、取り去る道具)と言われている。

同語根の派生語ナスルnasrは最大猛禽類「鷲」のことである。固有名詞アル・ナスルal-Nasrは周知の「わし座」であり、夏の大三角を形成し、天の川を挟んで向かい合う「両わし座」al-Nasraan。南のアルタイル、原語al-Taa’ir al-Nasr(飛び立つ鷲)と北のヴェガ、原語al-Waaqi” al-Nasr(降下する鷲)である。大三角のもう一つデネブは白鳥座にあり、その「尻」dhanabであり、両鷲の狙う獲物なのである。雄大な鷲の狩が天界に展開されている。

「何ものをも倒し」の原語 afnaaは「全滅させる、撲滅する。無敵である、無に帰させる」という動詞である。スーフィー(イスラム神秘主義)用語のファナーfanaa’(自己消滅、滅却)もこの語の派生語に当たる。

「広く口元に収まる」の原語はrihaabi l-shajri、shajri<shajrとは「口の端、口角」の意味。ワシタカ類の「嘴」は特別用語ミンサルと言われるように、太く広く大きく湾曲しており、その先端は鉤状になっており、それらをその口元でしっかり支える。

 

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          第6詩行

 

前半詩行:

   鉤爪の趾骨その粗く厚く、伸びやかなる趾間

                 shathnu sulaamaa l-kaffi waafii sh-shibri

後半詩行:

   切り裂くも巧みなれば 獲物の肺に達するまで熟知

                      akhraqu tabbun bi-ntizaa”i s-sahri

 

*          *      *

第6詩行注釈

視点は足元に及ぶ、猛禽類の最大の武器である趾、鉤爪の描写。趾に長さ・スパンは猛禽類でも鷲鷹は最大で、しかも掌は粗くザラザラしており、獲物を鷲掴みにするには向いているし、鉤爪は刃物のように鋭く、経験を積めば獲物の肺の位置まで検討をつけ、一蹴り、これは一閃と言ってもよい。

 

 

前半詩行:鉤爪の趾骨その粗く厚く、伸びやかなる趾間

「鉤爪」の原語はkaff、「掌」がその意味。掌の先に長い鉤爪が連なる。四つの鉤爪は掌の趾骨で支えられる。また掌の部分も粗くゴツゴツしていて、鷲掴みする時、木の枝に止まる時、滑らない様になっている。

「趾骨」の原語は sulaamaa。スラーマーは「指の骨、趾骨」の意味で、四つ脚動物だと「四肢の指の骨」。ここでは鳥類であるから二本足であり趾の骨も二つだけである。sulaamaaそのものが集合名詞的に複数扱いもされるため、双数形も用いる要はない。但し複数形をsulaamayaatと規則複数形にすべし、との異論もある。

「粗く厚く」の原語のシャスンshathnは形容詞「硬く厚い」の意味であるが、原型動詞√shathina,shathuna共に「硬くある、厚くある」であり、動作主は<掌>とされているから、まさに鳥類、特に鷲掴みする猛禽類のそれを言った用語と言えよう。

「伸びやかなる趾間」の原語は waafii sh-shibri。waafiiは「十分な、たっぷりとした。満たされた」の義。shibri<shibrは「趾間」すなわちスパンのこと。シブルは西欧のスパンと同じく身体尺で、親指と小指(鳥類の場合は親指と薬指)とを広げた幅、長さ。語根動詞もシブルから来ており√shabaraは「物を指の間隔で計る」である。

ワシタカ類のスパンは大きく、雛の時から異常な、異様な長さであり、身体の平衡を保つのにやっとである。猛禽類とはこういうものか、と思わせる。長い幅や長さの単位は「槍」rumhとされ、12シブルとされていた。最小の方は「小麦粒一つ」ブスムbusmとされ、また我が国にもあった「腕尺」、手の先から肘先までの幅・長さはジラーウdeiraa"とされていた。

 

後半詩行:切り裂くも巧みなれば 獲物の肺に達するまで熟知

「切り裂く」の原語はakhraqu。形は比較形容詞「切り裂き上手な」。語根はkharq「切り裂き、裂け目、突き通し」の意味であり、語根動詞も√kharaqa「裂く、破る、貫通する」である。まさに鉤爪は蹴爪と言われる如く、一蹴り。その蹴りも人間や他の動物のように踵ではなく、つまさき=爪先、鋭い鉤爪の先で一蹴り、であるから刃物で切り裂かれるように体表から体中を抉られる。

「肺」の原語はsahri<sahr。一般語では「肺」のことはリアri'ahという。サフルを用いた熟語に「彼の肺は膨れた」intakhafa sahru-huとは、我が国流で言えば「彼は臆病風に吹かれた」との意味になる。。

「達する」の原語はntizaa”i<intizaa”。「もぎ取る、取り出す」を意味する動詞intaza"aの動名詞形。蹴爪が肺や内臓がどの辺りにあるか、その辺りまでえぐり取る、もぎ取る。

「熟知」の原語 tabbun< tabbは「習熟した、熟達した、知見豊かな」のいみであり、同語根の他の派生語タビーブtabiibとは周知のように「医者」の意味として知られる。

 

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           第7詩行(最終詩行)

 

前半詩行:

   さればいかに鶴が如き大物が山に潜めども

                      fa-li-l-karaakiyyi bi-kulli dabrin

後半詩行:

   鷹が急襲 切り裂きか鷲掴みかで終え果てる

                     waqaa’i”un min “anatin wa-asrin

 

*          *      *

第7詩行注釈

この詩行を持って終わるので、総括する。今まで述べきたった際立つ鷹の部位。それを用いて狩りをすれば、大物とされる身体がはるかに大きい鶴、コウノトリ、雁であろうとも、何処に潜もうとも、いったん獲物として狙われ、襲われれば、その結果は明らか。

 

前半詩行:さればいかに鶴が如き大物が山に潜めども

「鶴」の原語karaakiyyi は複数形で、単数形はクルキーkurkiyy。アラビア半島を中心とするアラブ世界の鶴クルキーは学名Ardea virgo、英名Numidian craneと呼ばれ、頭部と首部とが黒く、胸にかけて房毛を持つ。アラブ世界ではコウノトリと一緒にされてグルヌークghurnuuqと呼ばれたり、また雁(Iwazz)の仲間と見做され、別名を「イラク雁」Iwazz “Iraaqiyyとの称される。クンヤ(俗称)は「援助の父」Abuu al-“Ayzaarとされて、鶴やコウノトリの良いイメージが感じられる。

「山」の原語は dabrin<dabr。「山」の一般語はジャバルjabalであるが、ダブルdabrの方は「背後にあるもの、何か前にあり、それに隠れてあるもの、峰々」のような意味合いを持つ。

 

後半詩行:鷹が急襲 切り裂きか鷲掴みかで終え果てる

「急襲」の原語waqaa’i”un <waqaa’i”。この語は「襲撃、猛襲、攻撃」を意味するwakii”ahの複数形である。原型動詞√waqa"aは「起こる、生ずる、降る」の意味。夏の夜空の主役、「夏の大三角」の一角を占めるベガVega、この語もこの原型動詞の能動分詞ワーキウwaaqi" から由来する。元のアラブ世界では「降下する鷲」ナスル・ワーキウal-Nasr al-Waaqi”として天の川の対岸アルタイル al-Nasr al-Taa’ir「飛び立つ鷲」と対にされていた。西欧へ借入する際、後接語のWaaqi” だけになり、またアラビア語独特の音が消去・平易化されてVegaとなって西欧中心の天文学用語となった。

「切り裂き」の原語は"anatin<"anat。「危機、乱暴、骨折」などの意味を持つ。

一方「鷲掴み」の原語はasrin<asrであり、「生け捕り、捕縛」である。この同語根語に「捕虜、囚人」asiirがある。

 

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   ————  了  ————

 

        アラブ・イスラム世界の鶴、二態

左図はイスラエルの出版社から発行された大図の鳥類一覧の中から。ヘブライ語もアラビア語と同じく、右から読み、母音表示されない。“aguwrと読む。頭頂に、我が国の丹頂鶴のように赤毛があるが、ごく部分的で、一般的には黒毛が多く「クロズル」とされている。

右図は中世イスラム美術の細密画に描かれた、恐らく着火に驚いた鶴たちが飛び去ろうとするところ。恐らく『カリーラとディムナ』の中のミニアチュールの一枚と思われる。

 

 

    罠 小鳥に仕掛ける al-Fakhkh     アラブ狩猟詩(8)

キーワード:

アラブ狩猟詩 罠で小鳥を獲る 詩人アブー・ヌワースAbuu Nuwaas

「Raa'iyyah」「R脚韻詩」、9行詩

仕掛けた罠が一旦は失敗  巧妙に罠を掛け直す

小鳥再び飛来  小鳥の葛藤・躊躇・思案する

神al-Rahmaanラフマーン(慈悲深きもの)へと縋る

小鳥の身になっての感情移入   ムスリム的思考も反映

             チュニジアの鳥籠図  al-Rahmaan(慈悲深き方)神の美称

 

今回のブログはアラブ狩猟詩の8回目。<罠>が扱われる。原題は「罠」al-Fakhkhだけである。邦訳題は少し手を入れて具体的な「罠 小鳥に仕掛ける」とした。

作詩者はこれまでと同じ9世紀初頭、アッバース朝初期の全盛期に活躍したアブー・ヌワースAbuu Nuwaasであり、その詩集Diiwaanの「狩猟」Tardの部661頁に収められている9行詩である。

「罠」であるから、どのようなものか期待したが具体描写は無かった。大型のものほど罠の描写は必然であるけれども、雀のような小鳥の仕掛け罠であるから、わりに簡素でその描写も不要としたものか。サバクやステップ、平原にしかける罠なので、カモフラージュが難しい。撒き餌はどうしても必要であろう。冒頭詩行で「叩かれる」と記されているから、網状の四角の出入り口が<閉まる>類のものではなく、バネ仕掛けの<打ち下ろし>式のものであろう。

 

内容は:

詩の冒頭が凝っている。先ず仕掛けた罠が、捕らえそこなって小鳥に逃げられてしまったことが述べられる。そこで、もっと巧妙に罠を掛け直すことにする。罠を見えない様に紛らわせるにはどうすればよいか。ところがあいにくここら辺り一面は平ら。障害物がほとんどない。

辺り一面は平ら。

少しこんもりした小さな土塊の突起、小砂丘の陰を利用する他ない。罠が直接には見えない様に、小さな積み重ね石を壁にして、砂を集めて砂溜まりか砂丘の自然物のように見せかける。獲物の雀、再び様子を見に飛来してくる。罠の辺りを通り過ぎた時、その辺りに餌が蒔かれているのを目にした。獲物となる小鳥。ばら撒かれている餌に身体の食欲は魅かれて急(せ)くが、一方で心の方では何かあるのではとの疑心暗鬼が急くのを妨げている。

ホバリングや旋回をしながら躊躇し、思案する。ここで突然神にすがる。慈悲深き神ラフマーンも自分を殺しはさせまいと、al-Rahmaanラフマーン(慈悲深きもの)と神の名を出してまで逡巡する。鳥まで神の恩寵にすがる、このムスリム的心理・心情の投射が面白い。

「慈悲深き者=神」の慈悲を頼って餌に向かって飛び降りてゆくことに決心。そして翼羽を細めて餌の方に降下してゆく。最終詩行では小鳥は砂上の餌に近づけが近づくほど、本能と欲のままに、わき目も触れずに餌に飛び付く。そして罠にかかる。詩人が見え隠れに見守っているのが見えたにも関わらず。

雀の身になっての、感情移入が見られ、またムスリム的思考も反映されて面白く出来上がっている。罠の具体的描写がもっとあれば、参照もできるところであるが…。

 

形式

ここでは狩猟詩に多いラジャズ形式を採らず、タウィール(長詩)形式を採っている。前後半詩行(misraa’)を配し、一詩行(nayt)としており、後半詩行のみ脚韻を採る。但しマトゥラウ(matla" 冒頭詩行)のみ前半詩行末にも韻を踏ませる。

脚韻技法(qqfiyah)は中心のラウィー(脚韻子音)はraa’/r/であり、したがって「Raa'iyyah」、「R脚韻詩」と言われる。ラウィーに付加される母音がすべて/-aa/の長母音となっている。したがってすべて/-raa/で終わっており、これは難しい技法である。すべて統一するのは困難であるから、語法としては文法的にも誤用である。詩の形式にのみ許されたもの。

というのも朗読し、吟ずる場合、母音/a/は口を大きく開け、明るく解放的であって、聞くにも心地良い響きであるためである。

技法上脚韻すべてを/-aa/で統一するのは困難であるため、工夫を凝らして/-raa/になるように工夫を施している。ここでは4種の、詩でのみ許されている技法が採られている:

①動詞完了形三人称男性単数は語尾が/-a/で終わり、それを長母音にする。

②接続法動詞は語尾母音が/-a/となるためそのまま長母音にする。

③非限定名詞の対格は/-an/で終わるが、それを変じて/-aa/とする。

④名詞から転じた副詞は語尾/-an/を採るが。そのまま/-aa/と変ずる。

以下の原文のローマナイズの方に、後半詩行(冒頭詩行のみ前半詩行にも)の脚韻語の個所の語尾に、カッコ入り(<~~)で原語を示しておいた。

 

 

鳥を愛で、鳥籠作りで有名なチュニジア。チュニスのスーク脇ではこのような鳥籠作りが行われ、市民や観光客が購入して我が家の鳥籠として用いている。筆者もチュニジアには1975年、1990年、2003年この地を、調査旅行をしている。市街のホテルに留まると、朝方近隣の家々のベランダから、こうした鳥籠が置かれたり吊るされたりして、中からブルブルやカナリヤの美しい鳴き声で目覚めされたものであった。左は鳥籠を作っている職人。右は店先の並べ、吊るされて売られている鳥籠。白塗りのチュニジア独特の形である。インターネット画像より。

 

       罠 小鳥に仕掛ける al-Fakhkh 

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      第1詩行

前半詩行

  罠すんでのところで獲物外したり

           qad kaada haadhaa l-fakhkhu an ya”qiraa(<ya”qira)

              

後半詩行

  雀は叩かれるのを逸れて飛び去る

                wa-nharafa l-“usfuuru an yanqiraa(<yanqira)

 

*            *         *

第1詩行訳注

罠が述べられる。掛ける獲物の大きさや習性によって罠も異なるが、ここは小鳥用罠なので大掛かりなものではない。冒頭から仕掛けた罠が、捕らえそこなって雀に逃げられてしまったことが述べられる。

 

前半詩行:罠すんでのところで獲物外したり

「罠」の原語fakhkhは「罠、網、巣」の意味を持つ。「罠」はペルシャ語起源の、このファッフfakhkhがよく用いられている。が、外来語であるために、派生形の持たず、意味場も形成されない。

アラビア語起源のタルクtarqもよく知られている。「罠、網、カスミ網」の意味で、読まれ方はtirq及びtarqahがあり、これらの複数形はtaraqとされている。またミスヤドmisyadah

も「罠」の意味で用いられているが、こちらは言わずと知れた「狩り、猟」のsaydを語源として、道具を表す接頭辞/mi-/を付した形で「狩り、猟のための道具」であるから「罠」に限らず、意味範囲はもっと広い。

「すんでのところで獲物外したり」の原文はqad kaada an ya“qiraa、直訳は「ほとんど屠るところであった」。成功しそこなったことの言い表し方。「屠る」の原語ya“qaraa<ya“qaraは「屠る、殺す」との動詞 “aqaraの接続法である。ハッジ(メッカ巡礼祭)の10日目にクライマックスは犠牲獣 ”aaqirを神にささげる午前中の犠牲祭(Iid al-Adhaa)の儀式であった。ラクダや羊他が穢れ無き状態で保たれ、この日に"aqara(屠り)されるのである。

 

 

後半詩行: 雀は叩きつかれるのを逸れて飛び去る

「逸れて飛び去る」の原語nharafa<inharafa は「逸れる、外れる、離れる」であり、罠の仕掛けから危うく逃れ飛び去った。<逸れた>四辺形=台形をムンハリフmunharifと別の派生形で言いあらわす。

罠にしかけた獲物、それは小鳥、ここでは「雀」“usfuuruであった。それ故罠は大掛かりなものではないのが分かる。わざわざ罠にかけるのでありから、やはり食用に供したのであろう。雀や小鳥はパチンコや前に紹介した小型の石弓bunduqで簡単に獲れるし、少年たちがスーク近くで羽毛を取り去った裸の、さらに図体の小さくなったのを、ヤシの葉を裂いて紐代わりにして何羽もぶら下げて売り歩くのを何回も見かけたことがある。

「叩きつけられるのを」の原文は an yunqaraa。主語は雀であり、yunqaraa<yanqaruは「打つ、叩く、つつく」との動詞naqaraの受動の接続法である。この派生形「つつくもの=嘴」minqaarはすでに紹介してある。

これで「罠」がどんなものか知られる。ネズミ捕りの金網の箱型のようなものでなく、板状(砂で隠される)の上に縦上に太めの針金のバネ仕掛けをして、餌に触れると即座に反応して、首辺りを叩きつける、そうした類のものであろう。

 

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        第2詩行

前半詩行

  手許に戻し土塊の壁に先ずは隠す

               wa-ghayyabtu bi-t-turbi “alay-hi

 

後半詩行

  平地ゆえ獲物容易に気付かれること惧れる

                bi-l-mustawii khashyata an yanfiraa(<yanfira)

 

*            *         *

第2詩行訳注

逃げられてしまったので、罠を掛け直すことにする。先ずは罠を見えない様に隠す。鳥の視力は人間の8倍、どこぞ近くでこちらを窺っていること間違いない。餌が蒔いてあり、鳥もそれは確認しているのであるから。ところがここら辺り一面は平ら。障害物がほとんどない。罠を掛け直すにはどうすればよいか。獲物には一度逃げられてしまっているので、罠の存在も気づいて経験済みである。

 

前半詩行:手許に戻し土塊の壁に先ずは隠す

「土塊の壁」の原語turbi<turbは「土、埃」の意味である。一般にはtaraabと読ませる方が多い。「土」の概念は遊牧民は農耕民と異なり、新たな新鮮な「土」の上で牧草と家畜と共に一定期間留まると、「土」が穢れるとして移動を開始する。したがって住居を固定して住まう「土壁の民」を嫌い、蔑視した。「毛皮=テントの民 」として、清浄な自由な生活を良しとした。遊牧民出のアラブにはしたがって新鮮な土が良しとし、古くなった土は悪いという「土」に関する相反する概念があった。したがって他動詞「土化する」tarrabaは「貧困化する」を意味し、二重他動詞atrabaは「相手を土化せしめて、自分を富裕にする」の意味となる。諺に「富裕だったものが零落した」tarraba ba”da maa atrabaがある。その直義は「相手を土化して裕福になったのに、その後自分が土化して貧者になった」となる。

<土>には自由とか、制限とか、汚れが常に付きまとう。砂漠である<砂>には常に清浄性が陰に陽に付きまとって遊牧民とは「砂漠の民」と言われる如く、切っても切れない関係性を築いている。

「隠す」の原語ghayyabtu<ghayyabaは他動詞で「隠す、眼に見えなくする」の意味。この原型動詞√ghaaba<ghayabaは自動詞で「不在である、見えない、消えている」。罠は一度仕掛けて失敗したら、二度目は獲物の方も警戒して、いくら餌が蒔かれていても、そのままでは来ようとしない。もっと工夫を凝らさねばならない。ともかくも罠そのものが獲物から見えない様にして、それからの工夫となる。

 

 

後半詩行:平地ゆえ獲物容易に気付き逃げられるを惧れる

「平地」の原語mustawiiは「平均、たいら」が語根のsawaaが語源であり、語根動詞√sawaa<sawawaの語義も「等価である、平らである」。派生動詞istawaaは「等しくする、均等にする、平らにする」であり、その能動分詞がmustawiiである。口語でも「等しい、同じ」ことをサワサワsawasawaと言って馴染みである。

平地だと同じものは何処においても、特に危険物は経験済みであり、鳥の方も要警戒をしてこちらを見遣っているのに違いない。

ゆえに獲物容易に気付かれること惧れる、となる。

「逃げられる」の原語yanfiraa<yanfiraは「逃げる、避ける、離れる」の動詞nafaraの三人称単数現在の接続法の形。この動名詞ナフルnafr「逃亡、避難、別離」の意味を持つが、最後者の「別離」の意味で、メッカ巡礼の重要な宗教用語となっている。

巡礼行は、「巡礼月」ズー・ル・ヒッジャの8.9.10日間、強行軍を強いて定められた行事を巡に行わねばならない。10日目の昼前の犠牲祭で行事は終了する。すべての巡礼者はハッジュhajj(一般にはハッジとして知られる)の称号が与えられるし、晴れて自ら名乗っても良い。厳格な行事が三日間続く。三日目の10日は「犠牲の日」と呼ばれる。

義務行事が終わった後の三日間は休養に当てられる。その後の三日間は「干し肉の日々」Ayyaam al-Tashriiqといわれ、10日の犠牲祭で屠った肉を腐らせず保存するために、細く平たく切って、テント綱や、板、岩場などに干し(tashriiq)ながら、身体を休ませるのである。「干し肉の日々」のうち第1日は、すなわち巡礼月11日は「目を涼ませる日」ヤウム・カッルYawm al-Qarrと称されている。そして12-13日は「別離の日」ヤウム・ナフルYawm al-Nafrと呼ばれ、巡礼者で早い人はこの12日、後ろ髪を引かれるように聖地メッカに別れを告げてゆく。12日の方はそれ故「第一別離の日」ヤウム・ナフル・アッワルと呼ばれる。そして多くの巡礼者が聖地を去ってゆく13日の方は「第二別離の日」ヤウム・ナフル・サーニーYawm al-Nahr al-Thaaniiと呼ばれる。「逃亡、避難、別離」の語ナフルnafrにはこのような意味合いも持っていた。

 

 

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        第3詩行

前半詩行

   獲物その土塊見出すや小塚と思わせん

              kamaa ra’aa t-turba ra’aa juthwatan

 

後半詩行

     あるはいくらか小高く、砂丘と思わせねばと

                               maa’ilata sh-shakhsi fa-maa stankalaa(<stankala)

 

*            *         *

第3詩行訳注

辺り一面は平ら。罠作りにどうするか。少しこんもりした小さな砂丘の陰を利用する他ない。罠が直接には見えない様に、小石を積み重ね小塚の壁にして、砂を集めて砂溜まりか砂丘の自然物のように見せかける。

 

前半詩行:獲物その土塊見出すや小塚と思わせん。

juthwatan<juthwah「小塚、積み重ね石、砂丘」。語根語は「膝まづき、しゃがみ、蹲(うずくま)り」という名詞juthuwwであり、語根動詞√jathaa<jathawa,jathayaであり、語根義を動詞化したものである。それ故派生名詞juthswah「小塚、積み重ね石、砂丘」のイメージは上の語根義が反映されているはずである。

 

後半詩行:いくらかなだらかな傾斜設け、砂丘と思わせねばと

「いくらかなだらかな傾斜」の原語はmaa’ilata sh-shakhsiで、直義は「傾斜した物体」。シャフスshakhsは「人間、人物」の意味として一般化している。元来は「物象、事象、物体」であって具象的に<みえているもの>を指して言われる語である。

「砂丘と思わせねばと」の原語maa stankalaa。そのmaaは否定詞、stankala<istankalaは派生動詞であり、語根名詞は「否定、拒絶」を意味するナカラnakalah。その派生動詞istankalaは「否定するように仕向ける、~~ではないかと思わせる、疑わさせる」である。ここでは「人工物では、罠ではないか、と思わせる、疑わせる」。砂丘あるいは自然な石や砂の傾斜と思わせる。

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             第4詩行

前半詩行

      獲物飛び来りてその上通り過ぎし時

                                hattaa idhaa ashrafa-haa muwfiyan 

後半詩行

       餌の麦粒蒔かれているのを確と目にせり

                                      wa-“aayana l-habba la-hu muzharaa(<muzharan)

 

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第4詩行訳注                                                                                                

獲物の雀、再び様子を見に飛来してくる。罠の辺りを通り過ぎた時、その辺りに餌が蒔かれているのを目にした。

 

前半詩行:獲物飛び来りてその上通り過ぎし時

獲物「飛び来りて」の原語muwfiyanは、「上に出る、飛び上がる、舞い上がる」の語awfaaの能動分詞対格副詞的用法。同語根に他の派生語miyfaa'には「上に昇ってゆく(鳥)」がある。

「上通り過ぎし」の原語ashrafaは「見渡す、上から見る」。鳥であるから飛行中に眼下を見渡すことができる。当然罠の仕掛けられた場所も。

 

 

後半詩行:餌の麦粒蒔かれているのを確と目にせり

「餌の麦粒」の原語habba<habbは「稲類、小麦類、穀類の実、粒」。アラブ世界はパン文化であり、それが主食であり小麦文化であった。稲作は水を多く要し、大河に沿っての地域、湿地が広がる地域に限られていた。

「蒔かれている」の原語 muzfaraa<muzfarは「あからさまにする、表面を見せる、目に明らか、一目瞭然にする」の動詞azfaraの受動分詞形である。上空から見て餌の麦粒が(罠の周囲の)地表に撒かれているのが視覚に入った。

「確と目にせり」の原語は “aayana 、語根の「目」アイン“aynから派生した動詞で、「確と見つめる、凝視する」。原型動詞から派生した他動詞なので、眼にする対象がより意識される、さらには二重他動詞なので、与格(罠の周辺に)・対格(餌の穀粒を)まで意識されている。

 

 

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                第5詩行

前半詩行

      小鳥 すぐに食べんと急(せ)くも心は否と

                                  khaatibatun min nafsi-hi zaajirun

 

後半詩行

     されば我が見立ては 彼早々には応じまいと

                                              qad kuntu laa arhabu yazjuraa(<yazjura)

 

*            *         *

第5詩行訳注

獲物となる小鳥。ばら撒かれている餌に身体の食欲は魅かれて急くが、一方で心は何かあるのではとの疑心暗鬼が急くのを妨げている。罠をしかけた詩人は雀の様子から、すぐには餌に飛び付かないことを察知。

 

 

前半詩行:小鳥 すぐに食べんと急(せ)くも心は否と

「すぐに食べんと心急く」の原文はkhaatibatun min nafsi-hi 「(すぐに食べ物にありつこうかどうか)彼は心と話し合っている」。身体の食欲はすぐにでも「餌の方へ」、しかし心中では「待てよ、何か危険が潜んでいるかもしれない」との葛藤。

zaajirun<zaajirは「追い払う」であり、獲物の方の心中は「否!」と身体と食欲とが急くを追い払おうとしている。

 

後半詩行:されば我が見立ては 彼早々には応じまいと

「我が見立ては」qad kuntu laa arhabuの直訳は「我恐れているにはあらず、思っていた通りにはならないこともあり得る」。

arhabuは「恐れる、危惧する」 rahabaの一人称単数未完了形で、「我は恐れる」

「彼早々には応じまい」yazjuraa<yazjuru、本詩行の前半部で述べたzaajirunと同語根で語根動√zajara「追い払う」である、上にも述べた通り、彼(獲物)の方の心中は「否!」と身体と食欲とが急くのを追い払おうであろうと、私=詩人は見立てた。

 

 

 

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                第6詩行

前半詩行

      小鳥しばらく思案のなか すぐに餌場へと行くべきか否かと

                                             fa-af”ala l-fikra qaliilan fa-laa

 

後半詩行:

     慈悲深き方も殺すことが思し召しではあるまい

                                      yaqtulu-hu al-Rahmaan maa fakkaraa(<fakkara)

 

*            *         *

第6詩行訳注

この詩行と次詩行は小鳥の心理を読んだもの。恰もチョウゲンボウやハチドリのホバリングのような、羽ばたきすれど先の行為には進まない。慈悲深き神も自分を殺しはさせまいと、ラフマーン(慈悲深きもの)と神の名を出してまで逡巡する。鳥まで神の恩寵にすがる、このムスリム的心理・心情。

 

前半詩行:小鳥しばらく思案のなか すぐに餌場へと行くべきか否かと

「しばらく思案のなか」 af”ala l-fikra qaliilanの直訳は「彼はしばらく思考を行った」。この「思考」fikrは派生動詞も様々持っており、そのうちの一つが後半詩行に記されるfakkara「考える、思う」であり、ここでそれを用いてもよいのであるが、語形態の同一語を採るのは、詩芸に悖(もと)るものと忌避され、ここでは「思考を行う」という別の表現を選んだわけである。

 

後半詩行:慈悲深き方も殺すことが思し召しではあるまい

「慈悲深き方」の原語 al-Rahmaan 、イスラームの神アッラーは99の別名を持つ。「神の美称」Asmaa‘ al-Husnaaと呼ばれる。多くは全知全能の神の属性が美名となっており、ここに述べられている「慈悲深き方」al-Rahmaanもそのうちの一つである。下図参照。

イスラム教徒たる詩人が小鳥に感情移入している。

唐突にこのal-Rahmaanの語句が出てきた。この語句を目にした最初の印象は名のある猟師か誰か、の個人名かとおもった。しかし脚注も見たがなにも言及の無いこと、それから後の詩行にも人名と関わることが無いところから、神の名と判断して、訳も少し変えて進めた。

「殺すことが思し召しではあるまい」の原文は、句跨りになっており、前半詩行末からfa-laa yaqtulu-hu al-Rahmaan maa fakkaraa。直訳は「思し召し通りに殺しはすまい」である。

 

 

         「神の美称」Asmaa‘ al-Husnaaの一例

神アッラーは全知全能。その神の属性の特徴的なものが美称とされ、99とされている。「アッラーは99の名を持つ」として有名であるが、上の図では、一般的なものでアッラーの名を冒頭に持ってきて、いかに威力ある属性は並べられている。11列10行になっており、本詩で出て来る「慈悲深き方」al-Rahmaanはアッラーの下、3行目の最初に配されている。ムスリムの家庭ではもっと装飾に富んだ大きな張り紙として礼拝場所や客間に飾る。また小さく圧縮した薄紙にして折り畳んだものを護符代わりにしている。インターネット画像より。

 

 

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               第7詩行

前半詩行

     確かに、いやそうでは無いかも しばし迷いの中

                             fa-htarabat laa wa-na”mu saa”atan

 

後半詩行

     確かに との勢いが増し 遂に翻って飛ぶ

                            thumma njalaa jundu na”mi mudbiraa(<mudbiran)

 

*            *         *

第7詩行訳注

小鳥の躊躇いはさらに続く前半詩行の「しばし」の原語saa"atanの直義は「一時間も」であるが、まさかそれほど長くはないであろうが、「慈悲深き者=神」の慈悲を頼って餌に向かって飛び降りてゆくことに決心。

 

前半詩行:確かに、いやそうでは無いかも しばし迷いの中

「確かに、いやそうでは無いかも」laa wa na”mu 口語的表現。ラフマーン様(慈悲深き方)のご加護があるか、ないか。「産めよ、増やせよ、地に満てよ」という聖句はすべて<人間>のため、一方では「慈悲は細部にまで宿る、小鳥にまで全地全能の神の慈悲は及ぶであろう」はずと。

「迷いの中」の原語 htarabat<ihtarabaは「葛藤する、合い戦う」の意味。この語根は周知の「戦争、戦い」ハルブharbであり、その派生動詞である。

 

後半詩行:確かに との勢いが増し 遂に翻って飛ぶ

「勢いが増し」の原文はnjalaa jundu、「~の軍勢が優勢になる」が直義。njalaa<injalaa

の意味は「明らかになる、顕現する」。

「翻って飛ぶ」の原語 mudbiraa<mudbiran<ムドゥビルmudbirは「背を向ける、逆になる・させる」という動詞adbaraの能動分詞形対格である。「背を向ける、翻って飛ぶもの」をムドゥヒルmudbirと、「前を向く、前進するもの」をムクビルmuiqbilと言い、対語として対照的な表現をとなっている。

 

 

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                   第8詩行

前半詩行

      決然と両翼を胸前に丸めて降下してゆく

                                        damma kashhay-hi ilaa ju’ju’in 

 

後半詩行

      何か事起これば即応できる態勢をとりながら

                                  kaana idhaa stanjada-hu shammaraa(<shammara)

 

*            *         *

第8詩行訳注

小鳥は躊躇い思案した結果、餌にありつく決断を下す。そして翼羽を細めて餌の方に降下してゆく。危険が生じても自分なりの対処はできる対処はできるようにしながらも。

 

前半詩行;決然と両翼を胸前に丸めて降下してゆく

「両翼を丸めて」の原文はdamma kashhay-hi、直訳は「彼の両翼を抱いて」鳥たちが急降下する時の態勢。翼をわき腹に窄めて丸くなり、空気の抵抗感を少なくする。「両翼」の原語kashhay<kashhayniは双数形で。単数形はカシュフkashhであり、「覆い」が直義で、ここでは「翼」の一般語ジャナーフjanaahと同義。

「胸」の原語 ju’ju’in<ju’ju’ は「胸」の一般語サドゥルsadrにたいして<鳥類>だけの「胸」だけを指して言われる。わが国の「はとむね(鳩胸)」のイメージ。そして鳥料理は、その部位の中では、手羽、と並んでこの「胸肉」 ササミ ju’juが美味とされている。

アラブ世界の米肉高級料理にジュウザーブjuwdhaabuがある。中でもコメと雁の胸肉(ju’ju’ al-iwazz)の入ったジュウザーブが最高とされている。「雁の胸肉入りの米ジュウザーブほど美味なものがあろうか!maa atyaba juwdhaaba al-arzz bi-ja’aaji’ii al-iwazz  ( ja’aaji’iiはju’ju’の複数形) との言い回しは諺にもなっている。

 

後半詩行:何か事起これば即応できる態勢をとりながら

「何か事起これば」の原文kaana idhaa stanjada-hu。その直訳は「彼に救出の事態生ずれば」。stanjada<istanjadaは「救出・脱出を依頼する。助けを求める」

「即応できる態勢をとりながら」の原語は shammaraa<shammaraは「活発化する、目論む、対処する」

 

 

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             第9詩行

前半詩行

      餌間近にして既に我が存在眼中に無し

                                  fa-lam yur”i-nii ghayra tadwiimi-hi

 

後半詩行

     彼への我が意のままに 飛び来りて罠に嵌る

                                      aamina maa kuntu la-hu mudmiraa(<mudmiran)

 

*               *         *

第9詩行訳注

最終詩行。小鳥は砂上の餌に近づけが近づくほど、本能と欲のままに、わき目も触れずに餌に飛び付く。そして罠にかかる。詩人が見え隠れに見守っているのが見えたにも関わらず。

 

 

前半詩行:餌間近にして既に我が存在眼中に無し

「餌間近にせば」の原語tadwiimi<tadwiimは「鳥が旋回する」という動詞dawwamaの動名詞形。スピードを上げて回り込むように餌に接近。

「既に我が存在眼中に無し」の原文fa-lam yur”i-nii、その直訳は「彼は私に注意を向けなかった」。yur”iは「面倒を見る、世話をする、意に介する」ar”aaの未完了形yur"iiの、否定詞/lam/の後に来る短形。同語根の派生形ラーイーraa”ii といえば「家畜の番人」であり、「羊飼い」、「ラクダ番」の意味になる。

 

 

後半詩行:彼への我が意のままに 飛び来りて罠に嵌る

「彼への我が意のままに」の原文はmaa kuntu la-hu mudmiraa。

mudmiraa< mudmiranは「心に抱く、決心する、考える」admaraという動詞の能動分詞対格である。ここでは「罠にかかってくれ」との思い。

「飛び来りて罠に嵌る」の原語アーミナaaminaは「思いのとおりである。意に背かず安全である」。同語根の感動詞アーマンaamanは讃嘆、感動した時に発する言葉で「素晴らしい!なんと見事!天晴!」の意味。

 

 

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               ———了———

 

鷹 燃え盛る火焔の如く映え 雁を狩る 

                                                       アラブ狩猟詩(7)

 

キーワード:

アラブ狩猟詩  作アブー・ヌワースAbuu Nuwaas  

詩題al-Lahab al-Murtajj  「燃え盛る火焔」

伝統的な8行詩の体裁  ラジャズ詩Raa'iyyah(R脚韻詩)

狩りの出発時はghadwah(早朝)  陽光に映える鷹  鷹の部位の描写

大物獲り狙った獲物イワッズ(iwazz雁)  雁獲り

蹴爪の一撃  縺れながら視界の外へ  斃して毅然とした姿

北斗七星ζ星の伴星スハーal-Suhaa  妙見社の社紋の輔星

 

 

鷹 燃え盛る火焔の如く映え 雁を狩る 

アラブ狩猟詩の7回目は、鷹狩り詩であり、「鷹 燃え盛る火焔の如く映え 雁を狩る」との題名とした。アブー・ヌワースAbuu Nuwaas詩集では狩猟詩(Tard)の部、660頁に載せられている。

詩題は al-Lahab al-Murtajj であり、直訳すれば「燃え盛る火焔」である。第2詩行の叙述

に出て来る語句から題として採られたもの。しかしこれは朝日に照り映える鷹の様を述べたもので、そのあとのメインである鷹狩りの様を謳ったものではない。今回は大物の雁獲りである。それゆえ外すわけにはいかず、妥協して訳詩のタイトルを「鷹 燃え盛る火焔の如く映え 雁を狩る」とした。

内容は:

第一詩行はマトゥラウ(matla")=冒頭詩行という。狩りの出発時はghadwah(早朝)、まだ真っ暗な闇の中に出かける。しかし夜明けはすぐに、早くも夜の暗黒の闇も嘯くだけとなり、朝が開け放つ。

日の出と共に辺り一変。陽光に照らし出される、手に据えた鷹を詩人は目立つ部位を叙してゆく。第4詩行の後半部から、鷹の描写から、急転して狩りの現場へと情景を変え、本題に移る。

この鷹は大物獲りであった。狙った獲物はイワッズ(iwazz雁)であった。空中から急襲して獲物を蹴爪で引き裂く。長い鉤爪は、獲物が中物以上ならば刀やナイフの役割をなし相手の胴体に突き刺し、切り裂く。しかし大物故、その場ではケリがつくものではない。。上下して縺れながら視界の外に消えてゆく。詩人一行は消えた先を急ぐ。すると一撃で倒したものか、雁を組み敷いており、勝敗はついていた。雁の翼は強く、武器になり、これで羽叩かれると、鷹は気絶してしまう。

最終詩行は、鷹の勝ち誇った姿、その毅然とした様を人間では、仇討ちを果たした者、生命を賭した無謀な誓いを戒められ俄然として正気に戻った者の如くに、と終わる。

 

形式について:

伝統的な8行詩の体裁を採っているが、ラジャズ詩であるため、一詩行が形成する前・後半詩行に脚韻を踏んでおり、実際は18詩行になる。

脚韻はラウィー(脚韻子音)が/r/(raa’)である。それ故Raa'iyyah(R脚韻詩)と称される。シラ(silahラウィーの後接する音)は母音/u/であり、その後に代名詞(英語のhimに当たる)接尾詞の/hu/で統一されている。したがって脚韻の体裁は/-ruhu/となっている。しかし朗読される時、吟じられる時は接尾詞の/hu/は強調されず、母音無しの/h/となり、ター・マルブータ同様無音・サイレントのなって、末尾音としての空間に広がってゆく。

 

 

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             第1詩行

前半詩行:

  朝いまだ明けやらぬ頃出発す 夜暗く暗黒の闇覆う中を

                 qad aghtadii wa-l-laylu daajin “askaru-hu

 

後半詩行:

  朝 闇衣覆うを嘯(うそぶ)きつつやがて脱ぎ去る

                 wa-s-subhu yafrii julla-hu wa-yadharu-hu

 

     ***       ***     ***

第1詩行の注釈

第一詩行はマトゥラウ(matla")=冒頭詩行という。狩りの出発時はghadwah(早朝)、まだ真っ暗な闇の中に出かける。しかし夜明けは早く夜の暗黒の闇も嘯くだけで朝が開け放つ。

 

前半詩行:朝いまだ明けやらぬ頃出発す 夜暗く暗黒の闇覆う中を

「朝いまだ明けやらぬ頃出発す」の原文はqad aghtadii 。aghtadiiは序で説明したightadaaという動詞の一人称、単数現在形で、直訳は「我ghadwahの時刻に出かける」である。

「夜暗く 暗黒の闇覆うなか」の原文は、前二語al-laylu daajinであり、主語一語、述語一語の文「夜は暗い」となる。が、これを受ける “askaru-hu「その暗黒さが」となり。「夜はその暗黒さが暗い」と、「暗い」の主語は後接する「その暗黒さ」になり、我が国の助詞「は」と「が」との関係と類似している。

「暗黒」の原語アスカル“askar は「夜の暗闇、暗黒」の意味。アスカル“askarといえば「軍隊」の意味であまりにポピュラーな語であり、派生形もその関連用語となっている。しかしこの同一語が別義で「夜の暗闇、暗黒」があり、語根動詞√“askara には「夜の闇深まる。夜の暗黒一層濃くする」の義も分有している。

 

後半詩行:朝 闇衣覆うを嘯きつつやがて脱ぎ去る

faraa<faraya「嘘吹く、嘯く、でっちあげる、虚飾する」

「闇衣」の原語 jall の直訳は「馬衣、馬鞍」であるが、動作主は<天、夜>であるから「夜天の衣、覆い」→「闇衣」となる。

「やがて脱ぎ去る」yadharu-huの直義は「それ(闇衣)を脱ぐ、追い払う」。

 

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            第2詩行

前半詩行:

  陽光燦燦(さんさん)鷹映え燃え盛る火焔の如く 眼光は火花飛ぶ

                        ka-l-lahbi l-murtajji taara shararu-hu

 

後半詩行:

   鋭く曲がる鉤爪 太く曲がる嘴 また陽光反射して 

                        bi-ahjani l-kalluubi aqnaa minsaru-hu

 

     ***       ***     ***

第2詩行の注釈

日の出と共に辺り一変。陽光に照らし出される、手に据えた鷹。詩人の眼はまず全容の中で鋭い眼に向かう。ただでさえ威圧するような眼光。それが陽光に映える。次に鷹の武器である蹴爪と嘴に向かい、その湾曲ぶりが照り映える。

 

前半詩行:陽光燦燦 鷹映え燃え盛る火焔の如く 眼光は火花飛ぶ

「燃え盛る」murtajji<murtajjは「揺れる、震える」という動詞irtajjaの能動分詞形。ここでは太陽光が燦然と輝き、鷹の姿を火焔(lahb)の如く反映させる。

「眼光は火花飛ぶ」の原語はtaara shararu-hu 。直義は「その(鷹の眼光の)火花飛ぶ」。火花はshararの他にshiraarとも。語根動詞√sharra<shararaは「晒す、露わにする」であり、動作主は元来<陽光>である。陽光が鷹の鋭い眼光を倍加して反映させている。中国でもわが国でも「かげ」の概念も同じで「影」か「陰」か、は陽光が関与している。

 

後半詩行:鋭く曲がる蹴爪 太く曲がる嘴 また陽光反射して 

「鋭く曲がる」の原語ahjunは「湾曲した、曲がった、歪んだ」という形容詞形。語根名詞はハジャンhajanであり「曲がり、湾曲、歪み」という抽象名詞、「鉤、留め金、曲がり杖」などの具象名詞の意味も持つ。鉤爪・蹴爪も前3趾(わが国では鷹用語として趾の名称がある、人指し指に当たるウチ爪、餌ハミ、、中指にあたる鳥カラミ、トツスエ、取手、薬指に当たるカエルコ、ライソ)と後ろ1趾(親指に当たる懸爪、モキカケ)で獲物を切り裂いたり、しっかり掴む湾曲した形をしている。

「蹴爪」の原語kalluubは「鷹の鉤爪」の意味を有しており、他に「槍、熊手、鉤状に曲がった

鉄、釘、刺」などの意味を持つ。読み方としてはほかにカッルーブkalluubがあり、これらの複数形はkalaaliibとされる。なおこの語の基本義に犬kalbがあるが、同語根異義語となっている。

「太く曲がる」の原語はアクナーaqnaa。「鉤状の、曲がった」の意味。鼻の形容「鷲鼻の」もこの語が用いられる。アラブ人にはこの鼻型の、高い特徴的な面相が多い。ここは<鷹鼻=嘴>の形容である。

「嘴」の原語minsarは特に鷲鷹類の「太く湾曲した嘴」をいう。「嘴」の一般語はミンカールminqaar(「啄く、突つくもの」の義)という。猛禽類の嘴ミンサルminsar、この語は「鷲」nasrから由来し、我が国で「鷲鼻」というのに発想を同じくしている。あの湾曲した鼻は鷲がその代表となっている。語根動詞√nasaraは「削ぎ取る、取り去る、こそげ落とす」であり、動作主が鷲を想定されていることが分かろう。 

 

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中世イスラム世界、ムガール朝下の王族の鷹狩り細密画。

鷹狩りの舞台は、丘陵か山岳地帯、ないし岩石地帯の山場であり、その高低差を配分して、鷹狩り一行は上下二段に分かれて描かれている。

上段では鷹狩りが行われている。前二人が勢子で野鳥類を追いだし、鷹をし向けるよう促す。乗馬の鷹匠は好機が来たと鷹を放とうとしている。しかし鷹を据えるのも皮手袋もこの図のように右手ではなく、左手でおこなうもの。後ろの馬上の人物は高位のものであろう。指示があるまで、鷹を手に据えている。しかし両者とも、鷹を据えるのも皮手袋もこの図のように右手ではなく、左手でおこなうもの。

下段では既に狩りを済ませて、鷹と獲物(重禽類か?)とを離し、中央では仕留めた獲物の吟味をしており、左手の馬上の二人の人物のうち右手のものは、同じ赤色の軽装の鷹匠であるが、格闘後の乱れた鷹を、口回りの血や乱れた翼羽などを綺麗にして、ブルクワ(頭巾)を被せた後、後ろの馬上の人物に手渡している。左手での授受のやり取りは正しい。細密画の作者は鷹狩りの知識がどこまであるのか、下書きやデッサンをどのくらいしているのかが問われる。

馬鞍の前方に太鼓が吊るされているが、音響高く乱れ打ちして潜んでいる獲物を追い出したり、サイン打ちして勢子や鷹匠たちへの指示用に鳴らす。一種の采配具である。

The Metropolitan Museum of Art所蔵

 

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              第3詩行

前半詩行:

   後趾また調教時に促されずともすでに剛腕俊敏

                   mu”aawidu l-aqdaami hiina tadmuru-hu

 

後半詩行:

   翼羽の褐色目立ち 頬の黄色みもまた爽やか

                 ahwaa z-zuhaari jasidun mu”adhdhiru-hu

 

     ***       ***     ***

第3詩行の注釈

陽光に当てられ照り映える鷹。詩人の眼は転じて後趾の逞しさ、すぐにでも反応しそうな俊敏さを、次に体全体覆う翼羽の褐色さ、頬のサフラン色の鮮やかさを叙す。

 

前半詩行:後肢また調教時に促されずともすでに剛健俊敏

「後趾」はaqdaam、単数形「足、肢」はカダムqadam。

「調教時に促されずとも」の原文はhiina tadhmuru-hu。tadhmuruの語根動詞√dhamaraの原義は「けしかける、扇動する、促す」である。「彼を(調教に)促すとき」。

「すでに剛健俊敏」の原文mu"aawidは「繰り返しの訓練」。調教において急襲、Uターン、上下左右の即応をたび重ね、さらに疑似獲物、本物を用いての仕留め方などの方法を身に着けているので、後趾は強く太く筋肉が盛り上がり、それでいて俊敏な対応ができる。

 

 

後半詩行:翼羽の褐色も頬のサフラン色もまた鮮やか

「翼羽」の原語zuhaari<zuhaarは「外側、外面」とされている。元来ザフルzahr「背中」が語根義であるから、「翼」を表していよう。

「褐色」の原語ahwaa、「褐色の」という色彩形容詞であり、一般語はasmarである。両者の違いは、前者ahwaaの、その語根語の名詞huwwahがどんな褐色かを明らかにしている。「赤色に黒が入り混じった色、鉄錆び色」のこと。原型動詞√hawwa<hawawaも「褐色である、となる」。確かに鳥には鉄さび色の翼羽をしたものが多い。わが国にもスズメやツグミのような色は褐色でも鉄さび色ahwaaであり、猛禽類の褐色もこうした色である。

「頬」の原語 mu”adhdhir。mu”adhdhirの語はイザール "idhaar 「頬、頬のうぶ毛・髭」に由来する。派生動詞に ”adhdharaがあり、「頬に産毛・髭が生える」の意味である。

「サフラン色」の原語はjasid、あるいはjisad,jisaadとも。この動詞形jassadaは「サフランでものを染める」である。

 

 

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         第4詩行

前半詩行:

   恰も陽光 そをサフラン色に染めたる如し

                ka-anna-maa za”fara-hu muza”firu-hu

 

後半詩行:

  されど猟欲のひとたび生ずれば獲物逃がる術無し

                laa yuw’ilu l-abghatha min-hu hadharu-hu

 

     ***       ***     ***

第4詩行の注釈

鷹が陽光に照り映える。サフラン=太陽、陽光が鷹をサフラン色に染める。後半詩行から急転して、鷹の描写から、狩りの場へと誘(いざな)う。猟欲が表に出て、獲物を見出したなら、その獲物はたとえ大型の鷺、鶴、コウノトリ、雁であろうとも、すべてブガースbughaath(捕食される弱者)となり、逃れること能わずと。

 

 

前半詩行:恰もサフランが そをサフラン色に染めたるが如し

「サフラン」muza”firu-huの直義は「その(陽光の)サフラン化したものが」である。この場合動作主の代名詞/-hu/(英語のhis)は、<太陽>とも採れるが太陽は女性形なので、太陽から発する<陽光>(diyaa')と採っておくほうが妥当であろう。サフランの原語ザアフラーンza"afraanはペルシャ語起源するがアラブ世界でも一般に知られている。上の第3詩行で述べた「サフラン色」jasid、jisad、,jisaadはアラビア語起源であるが、時代が新しくなるほどza"afraanの方が一般化した。

 

 

後半詩行:されど猟欲のひとたび生ずれば獲物逃がる術無し

「猟欲のひとたび生ずれば」の原語hadharu-hu「その警戒は」であり、「一旦気を引き締め、猟欲を表に出せば」ということになる。ハザルhadharは「用心、警戒」という名詞なのだが、この「ハザルhadhar!」というだけで、「警戒せよ!、用心せよ!」との、動詞命令形と同じ語法となる。

「獲物」の原語abghatha<abghathは「斑入り、班入りの鳥]の意味であるが、狭義には「猛禽類ではない普通の鳥、弱い鳥、捕食される鳥」である。比較形容名詞であり、その原型はブガースbughaath「斑入り鳥、小鳥も含めた一般の鳥類」の意味。弱者の代表と見做され、強者は猛禽類の「鷲]nasrである。それ故諺に「まことブガースが鷲になった」inna al-bughaatha yastansiruがある。「最貧者が最富者になった。卑しいものが高貴な者になった。地位の最低のものが最高位になった」などの例えとされている。

「逃がる術無し」の原語 laa yuw’iluの laaは否定詞、yuw’iluは派生動詞aw’alaの未完了形「逃げる、避ける]であり、原形動詞ワアラwa'alaと同義とされている。「避難所」は/ma-/という前接詞を付してマウイルmaw’ilといったり、マウアラmaw’alahというが、この語は、現地で矢印と共に赤い大きな文字の目にすることが多い。

 

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          第5詩行

前半詩行:

   時に猟欲忘れることあろうとも 今や迷うこと非ざるや

                    hiinan yusaahii-hi wa-hiinan yadjuru-hu 

 

後半詩行:

   飛び立つや急襲して その鉤爪獲物切り裂く

                    yuhwii la-hu mukhaaliban tusharshiru-hu

 

     ***       ***     ***

第5詩行の注釈

朝日を浴びて、主人に鑑賞されて、安んじているひと時。しかしすぐに猟の時と気づいてその態勢に入る。そして獲物見つけるや飛び立ち、空中から急襲して獲物を蹴爪で引き裂く。

 

前半詩行:時に猟欲忘れることあろうとも 今や迷うこと非ざるや

「時に猟欲忘れることあろうとも」の原文hiinan yusaahii-hiの直訳は「時には彼はそれを忘れる」である。動詞yusaahiiはsaahaaの未完了形であり、「見過ごす、気づかない、忘れる」である。この派生名詞スハーsuhaaは「見過ごされるもの、忘れられるもの、気付かれないもの」の義であるが、星の名スハーal-Suhaaとしても有名である。

北斗七星の柄杓の柄の真ん中のζ星には伴星があり、星座辞典ではalcoleとされており、アラブ・イスラム世界ではスハーと呼ばれて、昴(スバル)より光度が低く、「仄かのもの、微小のもの、見過ごされるもの、気付かれないもの」の代表となっており、ベドウィンは視力を確かめるとき。この星が見えるかどうかで判断した。

わが国でも北斗七星と北極星とを主とする北辰信仰はあり、妙見神社は北斗七星を独自に象って象徴としているが、星田妙見宮の紋のみが、短い枝を出して輔星(スハー)を明示している。(下図参照)

「今や迷うこと非ざるや」の原文はhiinan yadjuru-hu。yadjuruは語根動詞√dajaraの未完了形で、「活気がある、驚かされる、酔わされる」の意味である。この部分の直訳は「時にはそれ(猟気)に活気付けられる」である。

 

 

後半詩行:飛び立つや急襲して その鉤爪獲物切り裂く

「飛び立つや急襲して」の原文yuhwii la-hu。yuhwiiはahwaaの未完了形で、「空中、高所から降下する、襲う」であり、この語根は「空気・大気」として周知のハワーウhawaa’である。直訳は「それ(獲物)に対して高みから襲う」である。

「鉤爪」の原語makhaaliban<makhaalibはmakhlab「猛獣類、猛禽類の爪」であり、まさに鉤爪であり、同義でヒルブkhilb(pl.akhlaab)があり。これが語根義である、語根動詞√khalaba「爪で裂く、傷つける。鷲掴みにする」であり、動作主は<爪>である。この動作を行う場・部所が、前接詞/ma-/で表され、makhlabなのである。

「切り裂く」の原語tusharshiruは畳語の四語根動詞sharsharaの未完了形で、「裂く、割る、粉々にする」の義。畳語であるshar、またはsharaは、擬音であって小麦などの穀類、種類を蒔くときの音、我が国では「パラパラ」であろうか。また血などが滴る音、我が国では「タラタラ」、「ポタポタ」に相当しようか。ここでは鷹の蹴爪が獲物の胴体を切り裂いたのである。

 

        北斗七星ζ星ミザルの伴星アルコルが描かれた図

上図はアラブ・イスラム世界の中世に描かれた大熊座とその尻尾にある北斗七星の拡大図。

北斗七星はアラブ・イスラム世界では「棺の娘たち」Banaat al-Na‟sh と呼ばれ、天界を股に掛ける雄大な物語が展開されている。四辺形を形成する棺(na“sh=杓)の中には、北極星(乱暴なヤギal-Jady)に殺された父親が収められている。北斗の中にはナアシュ(al-Na"sh 棺)と記されている。柄の三ツ星は葬送を先導する三人娘(banaat=柄)。殺害された兄の弟スハイルは南の果てまで逃れて仇討ちの機会を窺う。

三人娘の真ん中ζ星ミザルはアラビア語起源ミイザルal-Mi’izar(身体の真ん中を包む衣、腰巻)は既婚者で幼子(=伴星)を連れている。その幼子がスハーal-Suhaaである。ζ星の別名が図示されているイナークal-“Inaaq(抱きしめる、抱擁する者)であり、幼子スハーと関連付ける名称である。その上に赤丸で描かれスハーal-Suhaaとアラビア名が記されている。

下図は我が国の北辰信仰・宿曜道を代表する妙見信仰。各妙見大社は北斗七星の七つ星を、工夫を凝らして独自の社紋を保持している。そうした中で、寡聞ながら大阪府交野市に本社を置く星田妙見宮の北斗七星の紋が上図のようにζ星に繋げてスハーを入れた形で描かれている。宿曜道では「輔星」といっている。社札の上部、お守り袋にも描かれている。

筆者も十年以上前には国内の妙見信仰調査で結構へき地まで出かけた。「星降り梅」などの伝承があるところもある。

 

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           第6詩行

前半詩行:

   その鉤爪 獲物切り裂こうが鷲掴みしようが意のまま

                        tawran yufarrii-hi wa-tawran yanquru-hu

 

後半詩行:

   一旦狙われたら獲物逃げ隠れようとも無益は必定

                         wa-s-sirbu laa yunfa”u-hu tasatturu-hu

 

     ***       ***     ***

第6詩行の注釈

攻撃の武器となる鉤爪の叙述。猛禽類では、猛獣類も同じであるが、餌物を襲う時頭部を引っ込めて鉤爪を突き出す。長く曲がった武器は、中物以上ならば刀やナイフの役割をなし相手の胴体に突き刺し、切り刺こう。小物ならば胴体ごと掴んで、その圧力で締め上げてしまう。獲物の方も必死であるから「窮鼠猫を噛む」状態になり、鳥ならば嘴で目を狙って突いてこようし、四肢動物ならば牙を剥いて噛みついてこよう。一旦狙われたら逃亡も不可能。特に障害物の無い空中では。

 

前半詩行:その鉤爪獲物切り裂こうが鷲掴みしようが意のまま

「その鉤爪獲物切り裂こうが」の原文tawran yufarrii-hi。第1詩行の後半節でfaraa<faraya「嘘吹く、嘯く、でっちあげる、虚飾する」として出てきているが、ここではその派生形の他動詞farraa「切る、切り裂く」の義とされている。この再帰形であるtafarraaもまた「自ら切られる、遮断される」との意味である。

「鷲掴みしようが」の原文tawran yanquru-hu。yanquruはnaqaraの未完了形、「はじく、叩く、突く」で動作主は<指>であるから、猛禽類の場合は鉤爪である。わが国の「鷲掴み」とこはよく言ったもので、大きな趾と先端まで湾曲して伸びる鉤爪で胴体ごと掴み取る。なおnaqaraには「突つく」の意味が強く、「頻繁に突つくもの」ナッカールnaqqaarとは「キツツキ」の意味になる。

 

 

後半詩行:一旦狙われたら獲物隠れようとも無益は必定

「獲物逃げ隠れようとも」の原文sirbu は動詞saraba「逃れる、逃げる、避難する」の動名詞形。ここでは「逃げ隠れること」

「無益は必定」laa yunfa”u。laaは否定詞。yunfa”uはanfa”a「利する、有益となる」の未完了形。

 

 

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             第7詩行

前半詩行:

  雁を襲いて視界の外へ 我ら追うてみるや

                      mina l-iwazzi al-khaanisaati naqfiru-hu

 

後半詩行:

  一蹴りか! 見るや背上に鷹 雁羽ばたつかせど既に運尽きたり

                        sakkan  idhaa jadda bi-hi taqadduru-hu

 

     ***       ***     ***

第7詩行の注釈

大きな獲物、雁を捕らえ、上下して縺れながら視界の外に消えてゆく。詩人一行は消えた先に急いでいってみると、一撃で倒したものか、雁を組み敷いており、成功を収めていた。雁の天運もここまで。

 

前半詩行:雁を襲いて視界の外へ 我ら追うてみるや

「雁」の原語iwazzi<iwazz、iwazzは「ガン、ガチョウ」、複数形であり、単数はイワッザiwazzahという。ここでは前置詞minの後の複数形なので、英語で言うone of geeseあるいはamong geese の用法である。雁よりより小型のduck類すなわちアヒルや鴨はバッタbattahという。

この語には語根もなく、語形態も類例がない珍しい語である。この語から派生したものに、「雁の多い地域。雁の溜まり場」を意味するマアッザーma'azzaahがあり、もう一つは雁の尾先を左右に振って歩く歩様はをイワッザーiwazzaaというが、女性が腰を左右に振って歩く、いわゆるモンロー歩きもまた「雁歩き」iwazzaaといわれている。

「視界の外へ」の原語khaanisaati <khaanisaatは語根動詞√khanasaは「姿を隠す、隠れる」の派生名詞である。女性複数の語形であり、「姿を隠した者たち」(女性形)が原義。その単数形はkhaanisah、そしてその男性形がkhaanisである。この語は能動分詞形であり、「姿を隠すもの」。ここではその女性複数形であるから「姿を隠した者たち」(女性形)ということになる。数にうるさいアラブの民であるから、ここは鷹と雁一羽の数は二羽。それが縺れ合って視界から消えたわけである。双数形もあるアラビア語構造であるから、それ故khaanisahの女性双数形khaanisataani、その対格(副詞的用法もある)khaanisatayniとすべきである。韻律の関係か、音の響きの関係か、厳密な語法を採ってはいない。

「我ら追うてみるや」の原語は naqfiru-hu、直訳は「我らその跡を追った」。naqfiruは未完了形で、完了形は語根動詞√qafaraになる。「空になる、跡が見えない、跡を追う」の義。この派生名詞に砂漠の語彙の中のひとつ、カフルqafrがある。「荒涼とした、人跡未踏の砂漠」と、<跡>の形容語の付いた砂漠のこと。

 

 

後半詩行:一蹴りか! 見るや背上に鷹 雁羽ばたつかせど既に運尽きたり

「一蹴りか!」 行初めに一語sakkan。sakkan<sakkは「打つ、叩く」を意味する語根動詞√sakka<sakakaの動名詞形。より一般語であるdaraba「打つ、叩く、殴る」の動名詞形darbanとした方が分かり易い。どちらの語も強勢子音で始まっているから、一語で収めて余語を用いない技法は驚嘆、賛嘆を表すに最適。 

jadda bi-hi 「彼(鷹)はそれ(獲物を狩ること)に成功した」。「新しい」でよく知られるjadiidの原型動詞√jadda<jadadaは「真面目に行動する、確かめる、新しくある」であり、前置詞/-bi/を伴って「~に成功する」の意味となる。

「すでに運尽きたり」の原語taqaddur。「予め準備されたもの、予定されていたもの、運」

の意味。鷹に狩られるのが運命であった。taqaddurの語源は「運命、宿命」を意味するqadar。イスラム神学で「天命、宿命」をめぐって個人自身の自由意志がどのように、どれほど介在するのかを巡って論争が続いた。

 

 

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           第8詩行

 

前半詩行:

   仇狙う者 積年の恨み討ち果たした如く毅然と

                      ka-taalibi l-awtaari tullat mi’aru-hu

 

後半詩行:

  あるは命を賭す者、その無謀さを諭され我に返る如きに

                   awi l-muhalli n-nahbi kaana yandhuru-hu

 

     ***       ***     ***

第8詩行の注釈

最終詩行。鷹の勝ち誇った姿は毅然としている。長年の仇討ちを成就した者の如くに。あるいは生命を賭した無謀さを説得されて俄然として正気に戻った者の如くに。鷹の狩り後の毅然とした姿を、人間への喩えで終わる妙。わが国ではこうしたエンディングは想像しがたい。

 

前半詩行:仇狙う者 積年の恨み討ち果たした如く毅然と

「仇狙う者」の原文はka-taalibi l-awtaari 。「仇」の原語awtaarは複数形で、単数形はwitrという「復讐、報復、仇討ち」の義。こちらの名詞が語源であろう、この語根動詞√wataraには「復讐する、仇を討つ」の意味である。

「積年の」の原語tullatは語根動詞の三人称単数形、tullatは受動形で原型のtalla<talalaの意味は「引き伸ばす、遅延する、復讐されていない」である。

「恨み」の原語 mi’arは複数形で、単数形はmi’rah 、「憎しみ、怨恨、中傷」の義で、抽象名詞ながら、具象的に積年、一年遅れ、また一年遅れて「恨み」が積み重なってゆく。

 

 

後半詩行:あるは命を賭す者、その無謀さを諭され我に返る如きに

「命を賭す」の原語nahbi<nahbは「賭け、誓い」のいみ。原型動詞√nahabaにも「賭けをする」の、そして派生動詞naahabaは「相手と賭けをし合う」の意味がある。しかしナフブnahbは単なる「賭け」muraahanahではなく、<危険な、重大な、命を賭した>「賭け」であり、それゆえ、そうした「誓い」の意味にもなる。

「その無謀さを諭され」の原文 kaana yandhuru-huの直訳は「(他人が)彼に忠告、警告を既に与えていた」である。命を懸ける無謀さに気付かされたのである。

「我に返る」の原語はmuhall、受動分詞形であり、動詞ahallaは「義務から解放する。聖なる状態から解放させる」、その受動の意味合いとなる。ハラーム(命を賭す誓約の禁忌)からハラール(禁忌の状態から解放される)となる。自分ではハラームと確信して生命を賭けて行おうとしていたことを、それは無謀なことで、解放されねばならない、ハラールなことと忠告され、俄然と気付いたそうした覚醒者。

 

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     ———了———

 

   猟犬 我と共に、カモシカ狩り Kalbii Ma”iyy  

                        アラブ狩猟詩(6)

 

 

キーワード:

アラブ狩猟詩・犬   作者は詩人アブー・ヌワース   猟犬カモシカを狩る  

11詩行長詩カスィーダ詩形      qaafiyah(脚韻技法)al-Baa'iyyah、「B脚韻詩」

岩がちのところが猟場     獲物はカモシカ         「我が犬」を放つ

岩だらけ難じて逃げられる    臭覚で追跡     離れた茂みの中のカモシカ群

それに目掛けて突進  一頭が敢然と犬に挑戦。  我が犬は術心得、深手を負わせる

技巧みに仕留める      讃嘆で終わる最終行

 

 

今回のアラブ狩猟詩は猟犬(恐らくサルーキー)が岩地を超えて逃げてゆくカモシカを狩る、しかもそのカモシカは追ってくる猟犬に対して挑戦してくるのである。そのカモシカに対して、狩りに手慣れた犬は急所どころを心得ていて、順次そのステップを踏み、見事な技で仕留める。

作者は前回と同じくアッバース朝全盛期の9世紀初頭、首都バグダードで活躍した詩人アブー・ヌワース Abuu Nuwaas。

この詩一篇は『アブー・ヌワース詩集』Diiwaan Abii Nuwaas のTard (狩猟)の部、632頁に収められている。

 

ここで紹介する一篇の詩題は Kalbii Ma”ii であり、直訳は「我が犬 我と共に」であるが、邦題はカモシカを狩るので「猟犬 我と共に、カモシカ狩り」とした。我が犬とは、詩人が愛犬としたズンブールZunbuur(「大スズメ蜂」の義)のいう名の猟犬のことと思われる。この犬については、『詩集』の次ページに謳われており、具体描写が続く。この詩一篇については、筆者は既に他の狩猟詩と共に訳出紹介している。(「アラブの狩りと犬たち」『月刊百科』平凡社、205号,1979年10月号、34-40頁)。

 

本詩は11詩行であり、今回はラジャズ詩形をとっておらず、長詩カスィーダ詩形を採っている。

1詩行は前半と後半に分かれて、詩行末=後半詩行末のみに脚韻を置く。但しマトゥラウmatra"(冒頭行)のみには前半詩行末にも脚韻を置くのが常道。本詩も、それに則っている。

 

qaafiyah(脚韻技法)を述べれば、ラウィー(脚韻子音)は/b/であり、バーイッヤal-Baa'iyyah、すなわち「B脚韻詩」。ラウィーに掛かる母音は/i/であるが、多くは行末の効果を活かすために長母音化させて/ii/とされる。インシャード(詩吟)詠みの場合は、もっと長引かせて、奥行きと余韻を共有する場・空間の中に響かせる。

ラウィーに前接するのは母音を採らない子音である。したがって脚韻は/子音+b+i/の構成となる。

 

内容の方は、猟犬を連れて、狩場である岩がちのところに登って行く。やがてカモシカの群れを見つけ、猟になれた「我が犬」を放つ。しかし岩だらけなので、逃げられてしまう。しかし、優れた臭覚で、離れた茂みの中に休んでいるカモシカ群を見つけ、襲いかかる。

が、ボスであろう一頭の雄が敢然と犬に挑みかかってきた。応じた我が犬は要領を得ていて、横から攻め相手に深手を負わせ、順次攻撃の巧みさ見せながら仕留めに入る。その戦いぶりの見事さを讃嘆して終わる最終行もしっかりしている。

 

なお、原文通りではなく、詩行の順序を変えたところがある。第9詩行はまだ戦う場面である。そのため、仕留める段階にはいる前の、8詩行に差し入れた。第8詩行の方は仕留め方の天晴を謳う内容なので10詩行に差し替えた。それ故。第8詩行以下は順序が原典とは異なる。この詩行のずれについては、注釈でも理(ことわり)をいれておいた、。

 

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         第1詩行 

前半詩行:

  何とあまた度(たび)犬と共に早朝出かけたことか!

                     rubba-maa aghduu ma”iyy kalbiyy

 

後半詩行:

  猟師仲間と連れ立ち 共に絶好なる獲物求めて

                               taaliban l-s-saydi fii sahbiyy

 

   ***      ***      ***

第1詩行の注釈:

マトゥラウ  matla” =冒頭詩行。早朝の出発。詩人も猟犬を連れてどれほど狩りに多く出かけ

たことか。馴染みの猟師たちと一緒に、さて獲物は?と。

 

 前半詩行:何とあまた度 犬と共に早朝出かけたことか!

「何とあまた度」の原語rubba-maa。rubbaは数量の多さを表す感嘆詞である。そのあとには、名詞単数属格の非限定詞を従える。ここでは「何とあまた度」であるから、rebba marratinと言い換えることができる。単語ではなく、文章を従える場合,rubbaの後に文節を従える、英語のwhatに当たる接続詞(ここではmaa)を従えることによって、後述する文章内容の多量性、多数性を感嘆する表現となる。

数量の感嘆詞は前回のブログ「ユウユウ鷹を連れ出す」の第3詩行前半詩行で「多くの猟師」でも用いられており、同じく単数形を用いて複数表現する技法である。wa-qaanisinは/wa-/という接続詞と、名詞単数形(ここではqaanis) 、その非限定属格(ここではqaanisin)との組み合わせで、「多くの猟師」の複数表現となる。ちょうど英語でもここで言うhuntersという代わりにmany a hunterという表現があるのと同様である。

 

「私は早朝出かける」の原語は aghduu が用いられている。普通はaghtadii(私は早朝出かけた),ightadaa(彼は早朝出かけた)が狩り出の冒頭句の決まり文句であるが、これら派生動詞を選ばず、原型動詞aghduuを用いている。

 

 

後半詩行:  猟師仲間と連れ立ち 共に絶好なる獲物求めて

「猟師仲間」の原語sahbiyyは直訳は「わが友たち」である。sahbiyy<sahbは複数形で、単数形はsaahib。このsaahibにはsahbも他にいくつかの複数形があり、そのうちの一つにサハーバsahaabahがある。と同じ「友」でも、特殊な宗教用語「預言者の教友たち」の意味となり、イスラム草創期には重要な役割を果たした。イスラームの信仰共同体の確立、聖典クルアーンの解釈、預言者の言行録をオリジナルで伝えるのもサハーバであった。

「獲物」の原語はここではサイドsaydになっている。サイドsayd はごく一般的に「狩り、狩猟、漁猟」の他に、このようにその対象である「獲物」自体の意味も外延している。同語根の派生語受動分詞でマスィードmasiid(<masyuud)「狩られたもの」も当然「獲物」になる。

 

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猟犬二態。左図は本詩と似た状況。岩がちな狩り場を猟師が犬を連れて登ってゆく。サルーキーが勇ましくはなく、愛らしく描かれている。中世の細密画の一部を拡大。

右図はウサギに追いつきまさに捉えんとしている一瞬。インターネット画像より。

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         第2詩行 

前半詩行:

  足場悪しき岩山を犬と共に登りて

                      fa-samawnaa li-l-haziizi bi-hi

 

後半詩行:

  カモシカたち見出し 犬を追わしめる

                              fa-dafa”naa-hu “alaa azbii

 

   ***      ***      ***

第2詩行の注釈:

砂漠や平地ではない。荒れた坂の山登りをしてゆく。目指すのは岩山でも平気な、いやそうした岩地を得意としてカモシカ。見出したカモシカを我が犬で追わせる。

 

前半詩行:足場悪しき岩山を犬と共に登りて

「足場悪しき岩山」haziizi <haziizとは語源ハッズhazz「切れ目、刻み目」から由来し「切れ目、刻み目が多い土地、平たんではなく岩石で凸凹とした大地、岩の多い地」であり、人間に当てはめると「積極的で大柄な人」になるとされる。

「登りて」の原語samawnaa <samaa<samawa は「上る、登る、上に行く」であり、語源はサマーウsamaa‘「天、高み」に行き着くので、それの動詞化されたもの。

 

後半詩行:カモシカたち見出し 犬を追わしめる

「カモシカたち」の原語azbii は複数形で、単数形はzabiyyであり、カモシカとガゼル鹿の両義がある。親しい動物なので、複数形がazbiiの他に幾つもある。UAEを構成する首長国の中のアブダビの正式名称はアブー・ザビーAbuu Zabiyy、すなわち「カモシカの父、ガゼル鹿の父」の意味を持つ。

「追わしめる」の原語dafa”naa<dafa”a は「押す、押し出す、放つ、追わす、払う」である。

 

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         第3詩行 

前半詩行:

  折しもカモシカたち授乳の時 仔たちに乳与えており

                    fa-stadarrat-hu fa-darra la-haa

 

後半詩行:

  瞬時に立ち上がる 両肘を乳泥まみれにしつつ

                            ya’timu l-rifqaini bi-t-turbi

 

   ***      ***      ***

第3詩行の注釈:

獲物とされたのは、岩がちのところに住むカモシカ。まだ危険な相手に気づかず安心して草を食んだり、授乳をしていた。そこへ敵の猟犬が突如が現れ、慌てふためく。授乳の中の母親は素早く立ち上がったため乳を垂れ流し土と入りまじった泥をくっつけて仔を率いて連れて逃げる。

 

前半詩行:折しもカモシカたち授乳の時 仔たちに乳与えており

「授乳」の原語stadarrat<istadarraは後出する「乳与える」darraの派生動詞であるので、darraの方を先に説明しておく。語根語は名詞darr「多量の乳、豊富な乳」である。そして語根動詞が√darra<dararaであり「乳が豊かにある、多量の乳を出す」であり、動作主はラクダとされるが、人間にも他の家畜類にも言われる。

搾乳して人間の食料に当てることができる動物の乳は一個体が多量の乳を出してくれるほど、遊牧民などには有難がれた。多量に乳を出す雌ラクダは選別され「乳ラクダ」 haluub として、選別してその系統を作っていった。それ故その持ち主に大なる恩恵を与えた。諺に「彼の(乳ラクダの)多量の乳はアッラーの賜物」li-llaahi darru-huがある。「彼はなんと素晴らしい人物だ、彼の属性(例えば気前良さ、寛大ぶり)は見上げたものだ」と、そのラクダの所有者をほめたたえる誦句となっている。

砂漠の中では、ラクダの乳は乞われれば、そこで絞って与えることが遊牧民の美風であった。「彼の多くの乳量が出なくなりますように!」laa darrun darru-hu との文句は上とは逆に「彼は性悪だ、ケチだ、悪人だ」との意味の言い方。その由来は砂漠民の美風を体現しようとせず、自分の利益だけのことしか考えない人物、乳いっぱい出すラクダがおり、その乳を乞うても拒む人物がいたゆえに生まれた。

「授乳」の原語stadarrat<istadarraはこの原型動詞darraから派生した動詞で、単に「乳を与える」のではなく、厳密にいえば「乳をたくさん授乳させる、与える」ということになる。

 

後半詩行:瞬時に立ち上がる 両肘を乳泥まみれにしつつ

両肘」の原語rafaqaini <rafaqaaniは双数形であり、単数形はrafaq「肘」。語根動詞√rafaqaは「肘を動かす、肘で押す、肘で叩く」であり、場所を表す接頭辞ma-を付してmarfaqahとすると「肘置き、肘掛け、脇息」の意味を派生させる。何か行動を起こすとき、反応する時、先ず手の方が動き出す。肘も同時に動く。転倒する時、杖を使う時、まず「庇(かば)い手、肘出し」がとっさに出る。ここでは敵の襲撃なので、もっと慌てふためいた行動になり、乳がこぼれ土まみれになる。

「泥まみれにしつつ」の原語ya'timu。未完了の形で、完了の形は 'atama。直義は「波がうねる、炎が燃え上がる」であるが、ここでは両肘の描写なので、授乳の状態から、その急激の立つ動作に転じて謳っている。

 

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       第4詩行 

前半詩行:

  追う犬をはぐらかせ 岩地飛び翔り去りて一安心 

                   fa-ddaraa-haa wa-hya laahiyatun

 

後半詩行:

  ハーズとガルブの茂みの中に逃れ行きて

                        fii jamiimi l-haadhi wa-l-gharbi

 

   ***      ***      ***

第4詩行の注釈:

普通の駆けりではサルーキー犬も負けないが、大きくジャンプするカモシカはしかも岩場

を得意とするのでは叶わない。犬をはぐらかせ、遠く離れた茂みの中で潜んでまずは様子見。

 

前半詩行:追う犬をはぐらかせて 岩地飛び翔り去りて一安心 

はぐらかせて」の原語iddaraa<idtaraaの意味は「はぐらかす、欺く、惑わせる」である。岩地なので勝手知ったるところ。ピョンピョン跳ね飛び、追っ手を混乱させ、追跡困難に追い込む。

「一安心」の原語laahiyatun<laahiyah<laahiyyの語根動詞√lahaa<lahawaの意味は「気を紛らす、気を晴らす」である。起伏があり岩地の多いところでは、犬よりは大型で足が丈夫で飛躍力があるカモシカが有利で、より有利な遠くに逃げ去る。

 

後半詩行:ハーズとガルブの茂みの中の逃れ行きて

「ハーズ」haadhi< haadhとはアカシアに似た「Stylax(エゴの木)科の仲間」とされる。複数形はaahaadh。なお同語根の派生語にハウザーンhawdhaanの語があり「スイレン」である。

「ガルブ」gharbi <gharbとは「タマリスクtarfaa'の1種」とされる。レクシコンのLisaan al-“Arab によれば「アラビア半島西岸ヒジャーズ地方に産する、大きく太くなる木で、緑の葉が茂り、刺を持つ。別名アブハルabhalと呼ばれる。この木からクハイルKuhaylと呼ばれる樹脂が取れ、この樹脂はタール状(qatiraan)になり、人間やラクダなどの家畜の疥癬の塗り薬として用いられる」、とある。Lisaan al-“Arab、(Daar al-Saadir版)第1巻644頁。

 

 

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ネゲブ砂漠の砂丘近くのタマリスクTarfaa'。砂漠の植物としては頑丈さも刺もなく、なよなよとしており、我が国ではギョリュウと命名されている。 1984年9月筆者撮影。この実がマナの一つとされているが…。  右図はタマリスクの詳細、図巻 Plants of Dhufar pp.282-83より。

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          第5詩行 

前半詩行:

  されど我が犬 その群れに追いつき猛然と突進せり

                      fa-faraa jummaa”a-hunna kamaa

 

後半詩行:

  恰もターバンの結び目切り裂くが如くに

                             qudda makhuluulaani min “asbi

 

   ***      ***      ***

第5詩行の注釈:

犬は岩場ではカモシカに敵(かな)わないから取り逃がす。だが犬には敏感な臭覚がある。この武器で、後れを取ったとしても、追跡能力は抜群。やがてカモシカの潜み場所を見つけ、その群れに向かって襲撃する。群れの塊は四散する、ターバンの結び目が解かれて広がってゆくように。

 

 

前半詩行:されど我が犬 その群れに追いつき猛然と突進せり

「群れ」の原語ジュンマーウjummaa”a <jummaa” は「集まり、集団」であるが、より具体的には個々の部分が寄り集まって、寄り集めて成り立つ集合体の意味。アラブ民族には、「複数」概念が発達しており、疑似複数、少数複数、多数複数、複数の複数などの標識の集合体がある。これがjummaa”として成り立つ複数概念である。

また牡牛座の昴(スバル)にまつわる関連で「スバルのジュッマーウ(=昴の集まり)」Jummaa” al-Thurayyaaとの逸話がある。見る人によって普通には六つ星であったり、視力の良い人には七つ星である小さな星の集団であるスバル。スバルは秋の到来に備えて、その時に降る最初の雨ワスミーal-Wasmii(大地に雨粒跡を残す刻印)を生じさせる星たちjummaa”と言われている。大地にワスミーの雨の粒跡(wasm刻印)を残すと、それが明瞭であるほど来るべき秋から始まる雨期に大いなる降雨と豊穣が約束されると信じられている。スバルの誕生譚がアラブにはあり、神に命じられて天使が個々に「雨降り星」と呼ばれる小さな星たちを、広大な天空を放牧地のように探しながら、情報を得て探し当て丁寧に寄り集めた。そしてその位置を今の雄牛の肩の部分に囲って配した、といわれている。それ故スバルの星たちは小さいながらも個々に「雨降り星」なのであり、そのjummaa”(集まり)なのだから、もっとその威力が増していると信じられているわけである。

 

 

後半詩行:恰もターバンの結び目切り裂くが如くに

「ターバン」にはアラブ世界で代表語に2語ある。一つはイマーマ"imaamahであり、この方が知られている。が、もう一語はアスブ “asb という。敢えて区別すれば後者の方が小さ目、前者の方が大き目とされている。ここでは後者が用いられているので、少し説明をしておこう。

アスブ“asbの語は「ターバン」が語根であり、それゆえ語根動詞√“asabaは「ターバンを巻く、着ける、縛る、締める」の義となる。(より原義的には「布地を巻く、捩る、折り畳む」である) その派生名詞イサーバ“isaabahも同じ「ターバン」の意義を持つ。この語形態はイマーマ "imaamahと同じである。

普通は一人ではターバンの着用が、我が国の女性の和服の腰帯を締めると同様、手間暇と時間がかかる。他人の助けを借りることが多い。それを派生動詞で他動詞となるアッサバassaba「ターバンを巻かせてやる、ターバンを着用させる」が表している。このアッサバには「ターバンを被せる」の他に「冠を被せる]の意味もあり。国や地域の王や首長などのターバン=冠を表し、「戴冠式を行う」までの意味を持つ。「戴冠式」のことは、この動詞の動名詞タアスィーブta“asiibといっている。それも伝統的に赤色のターバンが巻かれる伝統があった。

さらにその派生形に再帰形があり、タアッサバta“assabaと言い、お互いに助け合い「お互いターバンを着用させ、着用に及ぶ」ことを言っている。

家庭ならば寝室には、帽子掛けならぬターバン台が設けられており、きつく巻かれたターバンをしたまま頭からスッポリ外し、その台の上に置いて身を横たえる。翌朝起き上がる時はその台からターバンを取り上げ、頭にしっかりと被ることが日常であった。

ターバンを巻くのにもいろいろな形や巻き方はあり、イスバ“isbahとの語はその「ターバンの巻き方」との用語である。特に正面の見せ方、両端の垂らし方や上げ方など、貴賤での、時代での、地域での、生地での、それぞれ違いがあった。イスラム世界でアラブ民族がヘゲモニーを握っていた頃はターバンの着用はアラブ民族にのみ許されていた。「ターバンを巻いている人」とのムアッスィブ mu“assibとはその時代の特権的意味合いを持っていた。アッバース朝時代のペルシャ人やその後のセルジューク朝時代のトルコ系人など、時代を経るにしたがって一般着用が普及していった。

 

「結び目」の原語makhluulaani<makhluulといい、語根動詞√khalla<khalalaには対義的意味があり、「突き刺す、切り裂く」と「両端を合わせる、結ぶ」があり、ここでは後者で「衣の裾、端を結ぶ、ピンで留める」の義。その受動分詞なので「結び目」と訳した。

「切り裂く」の原語はqudda、qaddaの受動形で「切り裂かれる」の意味で対象はカモシカある。が、動作主を犬に統一したために能動形に訳出。「切る、切り裂く」の一般語はカッタqattaであるが、qaddaの方が「長めに、深めに切り裂く」の意味が強い。

 

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         第6詩行 

前半詩行:

   されど褐色カモシカの一頭 犬へと挑みかかる

                          ghayra ya”fuurin ahaaba bi-hii

 

後半詩行:

  しかるに犬組み易しとみて 心臓近くの脇腹をえぐりたり

                             jaaba daffay-hi “ani l-qalbi

 

   ***      ***      ***

第6詩行の注釈:

カモシカは逃げるはずが、雄で強いボス風なのが犬ぐらいと侮って、逆に挑戦してきた。角を低く接近するために敵が良く見えない。犬は狩りを心得ており、正面を避け、わき腹に一撃を喰らわせた。

 

前半詩行:されど褐色カモシカの一頭 犬へと挑みかかる

「褐色カモシカ」の原語はヤアフールya”fuurin <ya”fuur、複数形はヤアーフィールya”aafiir。「カモシカ」の中でも赤みがかったカモシカ。しかし語根名詞アフル ”afr、またはアファル ”afarは「埃ほこり、埃色」であるので「埃色カモシカ」の方が適訳かもしれない。

埃色の中には「赤みがかった、褐色っぽい」色も含意されているのであろう。ヤアフールya”fuurには「ガゼル(一般語はghazaal)、ガゼルの幼獣=khishf」の意味もあるが、カモシカが妥当しよう。状況的に、内容的に見て猟犬に挑戦するほどのガゼルはいないだろうし、ここではカモシカが妥当しよう。カモシカの描写がもう少し欲しいところ。

 

 

後半詩行:しかるに犬組み易しとみて 心臓近くの脇腹をえぐりたり

「脇腹」の原語は daffay<daffayni、この形は双数形であり、単数形はダッフdaff。「脇、側、横腹」である。一般語はジャンブjanbであるが、ダッフの方は、動物・家畜の「腹」を指して言われることが多い。カモシカの角の攻撃を避けるには横からの攻めが必要で、わき腹に嚙みつきえぐった。

「えぐりたり」の原語は jaaba。この語根はjawbahであり、「穴、窪み」であり、語根動詞√jaaba<jawabaは「穴をあける、横断する」である。カモシカの脇腹に一撃を加えた。その一撃は牙が横腹に穴をあけ切り裂いたのである。

 

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         第7詩行 

前半詩行:

   さらに獲物の鼻先を髭ある顎で噛みつきたり

                        dammu lihyai-hi bi-makhtami-hi

 

後半詩行:

  切り離された両端を結びつけるが如くに見ゆ

                              dammu-ka l-kasrayni b-l-sha”bi

 

   ***      ***      ***da

第7詩行の注釈:

さらに致命的な深手を負わすために、カモシカの頭または首を狙ったのだが、犬の顎は相手

の鼻口部の根元に食い込んだ。その深い食い込み方は、相手の鼻口部を切断しているようにも、顎が結び付けているようにも見えた。

 

前半詩行:さらに獲物の鼻先を髭ある顎で噛みつきたり

「鼻先」の原語はmakhtam。語根語はハタムkhatam「鼻口部、吻、嘴」であり、語根動詞√khatamaは「鼻口部を打つ、叩く、乗用動物などに口輪をつける」である。ラクダや牛などの鼻に付ける「鼻輪」のことはヒタームkhitaamと言っている。獲物を仕留めるとき、頭部・首部への攻撃が致命的となる。

「髭ある顎」の原語はlihyai< lihyaini 、双数形で単数はlihyah。「顎髭」の意味であり、直訳は「両の顎髭で噛みつきたり」となり、直訳すると奇態な内容となる。「顎髭」の部分で全体の「顎」を比喩化、換喩化して表示している。

「噛みつきたり」の原語はdammu<dammは「丸め込むこと」であるから。両顎の中に相手の鼻口部が全部入ってしまったことになる。

 

後半詩行:切り離された両端を結びつけるが如くに見ゆ

「切り離された」の原語 sha”bi <sha”b は「分離、分技」であり、ここではカモシカの鼻口部を指している。

「両端」kasrayni <kasraani。双数形で単数はkasr。「断片、壊されたもの、切断されたもの、切り離されたもの」。その双数形であるから、犬がカモシカの口先に顎を入れたので、一方の断片kasrが口先の方、他方の断片kasrが頭部に通ずる口元ということになる。

「結びつける」の原語damma<damm であり。前半詩行のdammと全く同一語であるが、「丸め込む」から「結ぶ、結び合わす」と意味が微妙に変わる。カモシカの長い鼻口部に犬の顎が入り込む。その顎によって切り離された二つの断片とも採れるし、反対に顎によって分離されていたものが結び合わされたようにも受け取れる。犬の噛みつきがそれほど横に深く鼻口部に入ったのである。

 

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         第8詩行 

前半詩行:

  カモシカうつ伏せにドーと倒れ、動き封じられたり

                   fa-ta”aayaa l-taysu hiyna kabaa

 

後半詩行:

  その頭哀れかな 後ろの方に仰(の)け反(ぞ)らされる

                           wa-danaa fuu-hu mina l-“ajbi

 

   ***      ***      ***

第8詩行の注釈:

優勢な犬に、頭部を噛みつかれたカモシカは立って抗してはいられず、倒されてしまう。そして動きを封じられ、頭を尻尾の方に仰け反らされる。原典では第9詩行。

 

前半詩行:カモシカうつ伏せにドーと倒れ、動き封じられたり

「カモシカ」の原語がここではtaysになっている。taysは普通は「子ヤギ」の意味として一般に用いられるが、韻律の関係で類語が選ばれたのであろう。

「うつ伏せにドーと倒れ」の原語 kabaa は「うつ伏せに倒れる、躓く、よろめく」である。頭部から背中にかけて犬が比重をかけたので、カモシカは倒れ、ひっくり返った。。

「動き封じられたり」の原語 ta”aayaa の意味は「実行できない、無能である、疲れさせる」

であり、自分の有利な態勢に持ち込もうとしても最早叶わぬ不能の状態。

 

後半詩行:その頭哀れかな 後ろの方に仰け反らされたり

「その頭」の原語はfuu-hu。fuuはfamm(口)の変化形で、後接語があると子音Mが消去され長母音化される・主格はfuu、属格はfii、対格はfaaとなる特殊名詞である。それ故直訳は「その口」となる。頭の中でも先端にある口であるが、こうした描写としては<頭>の方が相応しかろう。

「後ろの方」の原語 “ujbi<“ujb は「尾(dhanb,dhanab)の付け根」をいう。したがって上半詩行の表記と合わせる「その口は尾の根元の方へ」が直訳。

「仰け反らされたり」の原語はdanaaaであり、「近づく、近づける、接近する、させる」であり。「頭が尾・腰の方に近づく、近づけさせられる」、すなわち仰け反らさせられる。獲物にとっては、抵抗できない瀕死の状態である。

 

 

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         第9詩行 

前半詩行:

  犬仕留める動きいまだ止まず砂上で続く

                 zalla bi-l-wa”saa’i yunghidu-hu

 

後半詩行:

  噛みついたまま 相手の背骨に重心を落として

                           azaman min-hu “alaa l-salbi

 

   ***      ***      ***

第9詩行の注釈:

カモシカの自由を奪い、重心を落とし、今その命を奪う最後の仕留めに入る。幸い岩場では

なく砂地。息の根を止めるため喉元深く嚙みついたまま。原典では10詩行目。

 

前半詩行:犬仕留める動きいまだ止まず砂上で続く

「仕留める動き」の原語 yunghiduは、動詞anghadaの完了形で、「振り回す、引きずり回す、揺すり回す」の意味である。この語根動詞√naghadaは「振る、引きずる、揺する」でありその違いは派生動詞anghadaは二重目的語を採れる他動詞の意味になることである。

「砂上」の原語 wa”saa’ は「草が生える砂丘」である。「柔らかい砂地」のことはwa”sといい、それから派生している。挑戦してきたカモシカは岩場の茂みから出てきて、平地の砂上で犬と戦ったわけである。

 

後半詩行:噛みついたまま 相手の背骨に重心を落として

「噛みついたまま」の原語azaman<azam。これは動名詞形で、その動詞は原型動詞であり、√azima「噛む、噛みつく」である。一般には「噛む」の代表語は”addaがよく知られているが、より強度が激しい。 というのもこの動詞から派生した名詞に「犬歯」aazim、aazimahがある。語根義にも「犬歯で噛む」が含意していよう。それは牙が深く食い入っていることも想定される。「噛みつくもの」azuumは猛獣類がその典型で、定冠詞が付きal-azuumというと、その代表である「ライオン」の意味になる。「噛む回数・度数」の用語もあり、アズマazumahという。同時にアズマは「一度噛み」を表し、二度噛みは双数表現azumataani、三度以上の「複数の噛み」は複数形azmまたはizamという。

「背骨」の原語salbは「背骨、髄」の意味であり、同じ派生名詞にサリーブsaliibがあり、「十字架」の意味である。

 

 

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         第10詩行 

前半詩行:

   遂には仕留めるがその手際の見事なこと そは恰も

                        wa-ntahaa li-l-baahiyaati kamaa

 

後半詩行:

  狭い峡谷を大きな鷲 自在に縫い舞うが如くに

                              kasarat fatkhaa’u min lahabi

 

   ***      ***      ***

第10詩行の注釈:

獲物の仕留め方。その手際の良さに感嘆。大きな鷲が峡谷を縫うように飛ぶ見事さに喩えて

いる。原典では第8詩行。

 

前半詩行:遂には仕留めるがその手際の見事なこと そは恰も

「遂には仕留める」の原語はntahaa <intahaa。一語「終わる」。wa-ntahaaで「そして終わる」。

「その手際の見事なこと」の原語baahiyaati<baahiyaatは複数形であり、単数はbaahiyah。 バーヒヤbaahiyahとは「手際の見事さ」であるから、その複数形は「様々な手際、手腕の見事さ、その数々」。ここでは狩り技術、狩りざまを言っているが、語源はバハーウ bahaa’ であり、抽象的な「優美、上品、華麗、立派」を表し、その派生名詞である。

 

後半詩行:狭い峡谷を大きな鷲 自在に縫い舞うが如くに

「狭い峡谷」の原語は注釈家ガッザーリーはlahbと読ませているが、辞書類では母音を異ならせてlihbと読ませている。「山の狭い道、狭い峡谷」の意味はlahbには無い。狭い崖っぷちでも縫うように飛奔する鷲。狭き峡谷も大きな鷲が自在に縫い舞う。

「鷲」の原語fatkhaa’u< fatkhaa’。普通「鷲」はウカーブ "uqaabという。fatkhaa’というのは鷲の属性の一つを言っている。ファタフfatakh「足、踝、翼羽の柔らかさ、柔軟さ」の比較形容詞アフタフaftakhの女性形がこのファトゥファーウfatkhaa’である。ここでは翼羽の柔軟性を言い、狭い峡谷でも大きな鷲が自在に飛べるのは、その属性を持つから、それは鷲」"uqaab(女性扱い)の特性とされている。したがって鷲は「翼羽しなやかな鷲」al-"uqaab al-fatkhaa’u とも形容される。

 

 

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          第11詩行 

前半詩行

   これぞ我が趣味なりしぞ まだ若かりし時の

                      tilka ladhdhaatii wa-kuntu fatan

 

後半詩行:

  趣味とてこれほどのものもあるまい、堪能するも十分な

                             lam aqul min ladhdhatin hasbii

 

   ***      ***      ***

第11詩行の注釈:

最終詩行。犬でカモシカを獲る。狩りそのものが、繊細な詩人であっても、興趣そそる野外行であった。時に若気あふれる時は体力に任せて、猟犬を連れ、また鷹を手にして思う存分堪能できた。その喜びで終わる。

 

前半詩行:これぞ我が趣味なりしぞ まだ若かりし時の

「我が趣味」の原語ladhdhaatii、「趣味」ladhdhaatは複数形であり、単数形はladhdhah。「楽しみ、趣味、娯楽、快楽、甘美」の義で、抽象的でいて、個々にも勘定もできる「趣味」の訳がここではあっていよう。作者の狩猟の趣味に限っても、犬での狩り、鷹類での狩り、チーター(豹)での狩り、石弓(弓矢)での狩りなど多様で、同時に狩りの対象も羚羊類や鳥類であったりと多様である。今回で観たように狩りの場が困難を極めたであろう山登りや岩場でも、若さに任せて追い求め、詩に結晶させていった。

 

後半詩行:趣味とてこれほどのものもあるまい、堪能するも十分な

「堪能するも十分な」の原語はhasbii 。hasb自体は名詞で「(計算づくでも)満足、十分」の意味であるが、ここでのhasbiiの直訳は「私にとって十分!、満足!」であり、hasbは口語で言うkifaayah、感嘆詞、感嘆文を構成する。「お前にはこれで十分!」hasbu-ka haadhaaあるいはbi- hasbi-ka haadhaaと言うように。

 

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  1984年9月、ネゲブ砂漠のベドウィンとサルーキー。

画像が古く見分け難いがサルーキーは三頭いる、手前に白いサルーキーが横たわる。この所有者はこの辺りのシャイフ。服装も伝統に則っており、その誇りと気品が感じられた。現代の若者はわが国と同じく手軽な洋装である。テント生活もままならず、イスラエルの圧力で定住生活を余儀なくされ、今固定した家を建築中、世を嘆いておられた。サルーキーと戯れるのは、同行した我が妻。

1982年から86年までの5年間、海外調査はエジプトとイスラエルとで行った。イスラエル(パレスチナ)へはネゲブ砂漠とベドウィンの現状を調査する目的であった。飛行機で入国すれば、パスポートに別紙が張られるだけであった。イスラエルの存在を認めない他のアラブ・イスラム諸国に行くには、その別紙を取り去りさえすれば、不問である。

筆者は1982年、地域事情や生活ぶりを具に知りたいため、近い目線で、地方や彼らの日常を知るために、敢えてカイロからの陸路バスを選んでイスラエルに入った。ガザの国境検問所で、パスポートが一括して集められ全員にイスラエルの入国スタンプがパスポートの中へ押されてしまった。別に個人として入国手続きをしたいと頼んだが、聞いてはもらえなかった。それ故このパスポート期限が切れ、新たなのを入手できるまでの86年までは、他のアラブ諸国には入国できずにエジプトとイスラエル(パレスチナ)だけであった。アラブ諸国ではない他のイスラム諸国にはパキスタン、トルコ、キプロスには取材できたが。

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           ユウユウ鷹を連れ出す al-Yu‘yu‘ 

                                                    アラブ狩猟詩(5) 

    

キーワード:

アラブ狩猟詩 詩・ユウユウ鷹を連れ出す アブー・ヌワースAbuu Nuwaas作

ラジャズ調8詩行  al-Miimiyyah    ミーム脚韻詩

名鷹は血筋 鷹匠と鷹の関係  鷹匠の細心の注意と愛情  

鷹の調教、痩身と俊敏性を養う  鷹の飛行ぶり  鷹匠の指示への対応

    

 

 

 

作者の詩人アブー・ヌワースAbuu Nuwaas(810年没)には「ユウユウ鷹」al-Yu’yu’ と題する同一名の詩篇が二つある、いずれもアブー・ヌワース詩集Diiwaan Abii NuwaasのTard(狩猟)の部に収められている。前回訳出紹介した狩猟詩「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」も原題はユウユウ al-Yu‘yu‘とあり、今回の詩篇の表題も全く同一のal-Yu’yu’ とあるだけである。この点、詩集の編纂に当たったAhmad al-Ghazaaliiも何か付言があれば読者に供し得ようが、何の説明もない。一方の方がユウユウ鷹al-Yu’yu’ は654頁(前回のブログで紹介)、もう一方のal-Yu‘yu‘ の方が669頁(今回紹介するもの)の二篇である。

 

前回のブログに続いてユウユウ鷹al-Yu’yu’(チョウゲンボウの一種、小チョウゲンボウとされる)を主題にした一篇の狩猟詩。但し今回の内容には実猟の描写は無い。マトゥラウ(冒頭行)は狩り出の定型句で始まっているが、ユウユウ鷹を荒涼とした野外に連れ出し、鷹と鷹匠の親和関係、調教を行う叙景が扱われる。調教ならば早朝である必要はなく、また最末詩行のエンデングの形式も異なり、詩篇一篇を中途で終えた可能性も考えられる。あるいは前出の al-Yu‘yu‘ の自作を思い出しての結果か。

 

前回の「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」の一篇は8詩行からなり、今回の「ユウユウ鷹を連れ出す」も同じ8詩行からなる。詩の内容は狩りの劇的に描写される前回の方が変化もあって楽しめるが、今回は鷹の調教と、鷹匠との信愛関係が描かれていて、これはこれで興味深い。

 

詩形も同じラジャズ調、前回同様一詩行であるべきを、前後の半詩行に分ける。当然ながら両方に脚韻を置くことになり、前後半詩行の如く配している。それ故事実上は16詩行なのである。長詩同様な配列構成をとっており、したがって1詩行を前半詩行、後半詩行の構成として記してゆく。

 

内容はまず定型の早朝の狩り行を述べて、次にユウユウ-Yu‘yu‘ 鷹のことを叙す。如何に名鷹であるか、いかに鷹匠が細心の注意と愛情をもって鷹の調教に当たっているか、痩身と俊敏性を養うために、食の量を落とされ、寒さが身に染む。一旦放たれ時の鷹の飛行ぶり、鷹匠の指示への対応が述べられる。終末行の定型である鷹を人間に利用させてくれた神に感謝して終わる場面はない。

 

形式については、qaafiyah(脚韻形式)について述べると、脚韻子音rawiiは、前回の詩篇が子音/h/のハーイッヤ(al-Haa’iyyah)、すなわちハー脚韻詩であったのに対して、今回の詩篇は子音/m/のミーミッヤ(al-Miimiyyah)、すなわちミーム脚韻詩ということになる。そしてラウィーに前接する形が、前回の長母音、母音連続であったのに対して、今回のはラウィーに前節するのはすべて異なる/子音/となっている(例外は冒頭の前半詩行のみ)。一方ラウィーに後接するシラ(接尾辞)は/-i-hi/、すなわちラウィ含めると、/mi-hi/の脚韻形態となる。したがって全体の脚韻構成は/前接子音+mi-hi/で統一されている。

 

 

         Into the Desert Sky  by Lynn Maderich.

近年(2020年8月19日)物故した米国の女流画家Lynn Maderichの作品。 Lynn Maderich

は幼児より絵と馬が好きで、アラビア馬に異常なほど関心を持って作品化した。アラビア馬を保有するベドウィンの生活にも関心を惹かれ、現地には取材経験がないが、資料を収集して、また米国在住のアラブ出身者から民俗資料などを蒐集して、それをもとに多くの作品を残した。そのうちの一つが上に載せた Into the Desert Sky である。鷹匠がアラビア馬に乗り、手に据えた鷹を放ったばかりの瞬間をとらえている。鷹が羽ばたき、飛行体制を整える。サルーキーの動きも鷹の動きを追うものと、すでに飛んでゆく方角に走り出そうとしている。何よりも馬の描写は秀逸である。

鷹は左手に据えるもの、左手から放つもの。また鷹を据えていた手甲(マンカラ)は鷹を放つとき、物理的に言っても、上に向けるものではなく、というかそれは不可能であり、腕は水平に後ろから前に向けて放つ。鷹が飛ぶ方向に勢いをつけるのである。現実を見ていないための小さな欠陥が露呈している。

 

 

 

    詩 ユウユウ鷹を連れ出す al-Yu’yu’

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第1詩行 (Matra“=冒頭詩行。「早朝狩り出する」の常套句で始まる。今回は夜明け前の

         全く闇の中での狩り出であった。後半詩行から手に据えたユウユウ鷹の描写

          に入ってゆく。yu’yu’と誰かが呼んだだけなのにその場の皆が奮い立つ) 

 

前半詩行:

  早朝狩り出する 夜の闇まだその幕のなかにあり

                          Qad ightadaa wa-l-laylu fii maktami-hi

 

後半詩行:

  隼髭も立派なユウユウ鷹を手に据えて かく呼ばれるだけでも意気揚々

                           Bi-yu’yu’in asfa”a yud”aa bi-smi-hi

 

   ***      ***      ***

第1詩行の注釈:

前半詩行:早朝狩り出する 夜の闇まだその幕のなかにあり

「早朝狩り出する」の原文Qad ightadaa は狩猟詩の冒頭の常套句。動物が活発に動き回る朝の時期が狩りの時期でもあるため、まだ暗いうちから出立する。「幕」の原語maktamは語根動詞√katama「隠す、隠蔽する、秘密にする」、の場所を表す接頭辞/ma-/が付された動名詞であって「隠すもの、隠れ場所。覆い」などの意となる。ここでは天地が真っ暗で、夜明けとともに明け行く天空もまだ闇に包まれたまま。

 

後半詩行:隼髭も立派なユウユウ鷹を手に据えて かく呼ばれるだけでも意気揚々

「隼髭」と訳した原語 asfa” は色の形容名詞「赤みががった黒、鷹、野牛」の意味である。この語の元の色彩名詞サファウsafa” は「頬にある黒っぽいしみ、ほくろ、斑点」であり、ここではタカのハヤブサ類が持つ「八の字形の髭」、いわゆる「ハヤブサ髭」を言っている。

「かく呼ばれるだけでも意気揚々」の原文 yud”aa bi-smi-hiの直訳は「彼の名が呼ばれる」である。「ユウユウyu’yu’」と声を出すだけで、他人が言っても、所有者が言っても、それ自体でその場を意気揚々とさせる威力がある。

 

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第2詩行 (据える鷹の名鷹ぶり。父も母も血筋よく、またその兄弟・姉妹である鷹もおり、

          いずれも高貴さを湛えている。血筋だけ見れば類まれな鷹であり、それがお

          のずからおもてに顕われている)

 

前半詩行:

  高貴な鷹よ、父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ

                        Muqaabilun min khaali-hi wa-“ammi-hi

後半詩行:

  さればいかな血筋であれ彼ほどの例他にあるまい

                         Fa-ayyu “arqin saalihin lam yunmi-hi

 

   ***      ***      ***

第2詩行の注釈:

前半詩行:高貴な鷹よ、父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ

「高貴な鷹」の原語ムカービルMuqaabil とは、何ものにも対抗できる「対抗者、対峙者、高貴な者」の義。ここでは何ものにも対抗できる<血筋>のこと。タカ類が狩りに利用される場合、普通の狩猟鷹ならば、猟期の前に捕獲して、訓練して獲物を捕らせる。そして渡りの時期が終えると、飼育場から放ち自由にしてやる。しかし例外的に、狩猟の上手なもの、見栄えが良いものなどは、野に放たず鷹舎を立てそこで飼育する。一年を通して鷹舎で過ごす。美的鑑賞に当てると同時に、大物狙いなどの調教に当たる。また良い子孫を残すための繁殖もここで行われる。

「父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ」とは、こうして名鷹として鷹舎に保育されている他の雄や雌と番わせて、次世代の名鷹を作り出してゆく。そして当然なことながら、名高い鷹、血筋の良い鷹であっても、同族であると欠陥種が出来てしまうため、二世代に一度は血の繋がらない他の鷹匠が持つ名鷹とも交渉して、血筋がしっかりと維持された貴種を保つ。こうして姿形の立派さだけでなく、調教慣れして狩猟に長けた鷹を維持継承してゆく。

 

「叔父」であるが、ここではその字を当てたが、我が国では「おじ」として父方や母方に関係なく用いられている。が、中国では「叔父」は父母、いずれもの弟を指し。また「伯父」は父母いずれかの兄を指して用いられる。いっぽうアラブ社会では年齢差は関係なく、「父方おじ」をアンム “amm と言い、「母方おじ」をハールkhaalと明別している。鷹に対してもこの観念が反映されている。親族名称として考察の対象となれる事例である。ここでは鷹にもそれが当てはめられている点興味深い。

 

後半詩行:さればいかな血筋であれ彼ほどの例他にあるまい

「血筋」の原語 “irqin<“irqは「血管、動脈、静脈」を意味する。血筋というと抽象的であるが、もっと具体的な、まさに「血」の意味である。なおソコトラ島及びイエメン南部にのみ生育する竜血樹Gragon Blood Treeの樹液は赤い色を呈しているので、樹液はキリンケツ(麒麟血)として、アラビア名もイルク・ハムラ ”Irq al-Hamrah(赤い血)と呼ばれて、医薬品や染料として用いられている。

「彼ほどの例他にあるまい」の原文は lam yunmi-hi、直訳は「彼ほどの育てられ方はない」である。

 

 

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第3詩行 (手に据えるユウユウ鷹は血筋よい名鷹。鷹匠誰しも一度は手にしたいと望む

          ほど。自分で仕込んで、己流に実猟に臨みたいと)

 

前半詩行:

  多くの猟師、かくなる名鷹なれば母子ともに歓迎しよう

                        Wa-qaanisin ahfaa bihi min ummi-hi

                             

後半詩行:

  例えまだ調教されずとも、実猟の経験なかろうとも

                        Law yastatii”u qaata-hu bi-lahmi-hi

 

   ***      ***      ***

第3詩行の注釈:

前半詩行:多くの猟師、かくなる名鷹なれば母子ともに歓迎しよう

「猟師」の原語qaanisin<qaanisは前回のブログ「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」の第4詩行の注釈で述べておいた。

「多くの猟師」の表現法は単数形を用いて複数表現する技法である。wa-qaanisinは/wa-/という接続詞と、名詞単数形(ここではqaanis) 、その非限定属格(ここではqaanisin)との組み合わせで、「多くの猟師」の複数表現となる。ちょうど英語でもここで言うhuntersという代わりにmany a hunterという表現があるのと同様である。

「歓迎しよう」の原語ahfaa は名詞「歓迎、歓待」のhafaawah及びhifaawahを語根とする派生動詞形である。

 

後半詩行:例えまだ調教されずとも、実猟の経験なかろうとも

「例えまだ調教されずとも」の原文はlaw yastatii”u qaata-hu であり、直訳すると「たとえ彼(=鷹匠)が彼(=鷹)の食料(の調整)が可能であったとしても」である。

「実猟の経験」bi-lahmi-hi の原句の直義は「彼(=鷹)の肉当ての調整でもって」。肉は生きた鳥(多くはウズラ類)を投げ与えて、捕らえさせて食べさせる。成長するにしたがってハト類、さらにカラス類を鷹舎内で投げ与えて獲らせる。実猟は長ずるにしたがって、野外で行い、鷹の足に経緒(へお、鷹が逃げないように足首に巻き付ける長紐)を装着させて捕食させる。様々な捕食体験をさせた後、いよいよ実猟に入るわけである。

 

 

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第4詩行 (まだ調教中であり、一層肉を削ぎ痩身にせねばならず、また旺盛で食べ過ぎ

          る食欲もまだ十分には抑制が効いていない、主人の命令、掛け声にも即応で

           きなければ、調教を済ませたことにはならない)

 

前半詩行:

  未だなお肥肉落とし 食の欲求を減らす過程

                         Maa zaala fiiqdiihi-hi wa-nahmi-hi

 

後半詩行:

  その聡明さで人語もまだ その解し方なお一層の要

                           Yuuhii ilay-hi kalimaati “ilmi-hi

 

   ***      ***      ***

第4詩行の注釈:

前半詩行:未だなお肥肉落とし 食の欲求を減らす過程

「肥肉落とし」の原語taqdiihi<taqdiihは「痩せさせる。細らせる」qadddahaの動名詞形。競馬や狩猟獣は太っていては速度も機敏さも失われる。そのため、長ずるに従って調教によって瘦身の身体に仕上げる必要がある。この仕上げ方にもコツがあり、鷹匠の工夫どころである。

「食の欲求」の原語nahami<nahamは「過度の食欲、大食、暴食」で語根動詞√nahimaの動名詞形。

 

後半詩行:その聡明さで人語もまだ その解し方なお一層の要

「聡明さ」の原語 “ilmi<“ilmは「知識、学問」であるが、「彼の」が後接しているので、「鷹の知識、知恵」、すなわちや鷹匠から教わり、調教で学ぶ「知識経験」を会得する聡明さをいっている。

「人語」の原語はkalimaati <kalmaat。「語、言葉」の意味で、単数形はkalimah。鷹匠の言葉は主として鷹に掛ける言葉。もちろん「鷹言葉」、「鷹用語」として采配の身振り、餌箱を叩く音、猟友である犬との慣れ親しみ、なども理解せねばならない。

 

 

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第5詩行 (鷹匠の気遣い。十分な食事も与えられず、痩身にさせられるため、鷹自身に

          は寒さが堪える。鷹匠はそれを弁えており、母が子を懐に入れて思いやるよ

          うにブルダ(外套)の長い袖の内側に入れてやる)

 

前半詩行: 

  露降りて寒気増す折りには己の袖に囲う

                   Yaqii-hu min bardi l-nidaa bi-kummi-hi

 

後半詩行:

  恰も母が子を思いて胸に抱く如くに

                    tawqiyata l-ummi ibna-haa fii dammi-hi

 

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第5詩行の注釈:

前半詩行:露降りて寒気増す折りには己の袖に囲う

「露」の原語nidaa の語注については、前々回のブログ「犬、 狐を狩る」の第6詩行の語注で説明しておいた。

「袖」の原語kummi<kummは衣類の「袖、覆い」。「袖」が語根であり、その語根動詞√kamma<kamamaは袖の持つ縁語が散りばめられている。「物を隠す、器に蓋をする、人や動物、家畜に口枷をはめる」。すべて<袖>の縁語である。露降りて寒気増す折りには己の袖に囲ってやる。

「(己の袖に)囲う」の原語yaqii<waqaa<waqayaは「保つ、維持する、整える」の義。この語根を構成する3子音を見れば分かる如く、第1子音/w/、第3子音/y/が弱文字のため、命令形(本来ならば/iwqiy/<wqiy/においては、両方とも消去され、一子音一母音が残るだけで/qi/となる例として知られる。例えばqi nafsa-ka「自分自身を保て、気をつけろ」の如くに。

 

後半詩行:恰も母が子を思いて胸に抱く如くに

「思いて」の原語tawqiyata <tawqiyyahは前半詩行で語注したwaqaa「保つ、維持する、整える」の派生動詞tawaqqaa「(他を警戒して)守る」である。ここでは「母が子を守る」と同時に再帰の「母親自身も警戒して守る」の意味を持つ。

「胸」の原語dammi<dammの意味は「抱擁、胸に抱くこと」であり、この語に語尾をつけたダンマdammahという用語はアラビア語初心者でもご存じであろう。アラビア語では母音/u/を表す記号だが、その記号の形が抱擁した形であることから由来。

 

 

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         an Algerian huntress with a falcon

画家オラース・ヴェルネ(Émile Jean-Horace Vernet, 1789- 1863)作と伝えられる。ヴェルネはフランスの画家で、戦争画、肖像画、動物画、アラブの情景を描いた作品で知られている。彼も異国情緒あふれるイスラム社会にあこがれるオリエンタリスト画家の一人であった。この作品はアルジェリアで1840年以前に描かれたものとされる。当時までは、まだアラブの君侯や上流社会では、男性に交じって女性でもこのような小鷹を用いて狩りにも同行していた。薄いベールを纏い、アラブ馬に女性用の乗り方で着座し、サルーキー犬を従え、そして手にチョウゲンボウのような小鷹を据えている。鷹には赤色のブルクア(眼套)がされている。右手ではなく左手で。また素手でなく手袋または手甲で鷹を据えるはず。素手で他かを据えれば、鉤爪でくいこまれ血だらけになってしまう。周辺描写はアラブ情緒たっぷりである。アラブ馬の特徴もよく捉えており、見事に描かれている。ルーブル博物館蔵。

 

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第6詩行 (鷹匠と鷹との親密さ。鷹匠の思いやりに対して、鷹も素振りでそれに答える。

           鷹匠の行き届いた配慮は、鷹の息苦しさまで見分けて対処する)

 

前半詩行:

  心地良きかなと鼻で報せる 主人の匂いを嗅ぎ分けて

                       wa-maa yaludhdhu unfa-haa min shammi-hi

 

後半詩行:

  鷹息苦しくなると訴えるや 袖覆いから解放される

                           Yanaazilu l-makkaa’a “inda nahmi-hi

 

   ***      ***      ***

第6詩行の注釈:

前半詩行:心地良きかなと鼻で報せる 主人の匂いを嗅ぎ分けて

「心地良きかな」の原語maa yaludhdhu の直義は「何と甘きこと、心地良きこと!」。

yaludhdhuの同語根派生義で最も知られている語は「甘い、甘美な、素敵な」という形容詞ラジーズladhiidhであろう。わが国の「甘露、甘露」に相当しよう。

「鼻」の原語unufa<unufと言い、鷲鷹類では(鳥類全般にもいえるが)嘴の根元にあり、空気孔の部分は薄い膜で保護されている。眼を保護する「瞬膜」と同様、猛スピードで飛んだり、上昇・下降する時、水鳥ならば水中を泳ぐとき、この膜を閉じて空気や水の急な流入が体調に異常をきたさない様にする機能がある。これを「蝋膜」と言っている。そしてこの蝋膜への色の注視もまた品種の区別の指標となっている。アラブ世界ではシャーヒーン(ハヤブサ)類の蝋膜は黄色であるが、サクル(セーカーハヤブサ)類は青い色で目立つ。また蝋膜の色は裸出した脚の部分とも連動して同じ色になっている。

 

後半詩行:鷹息苦しくなると訴えるや 袖覆いから解放される

「鷹」の原語はここでは makkaa’aになっている。makkaa' は「鳥。小鳥」として前回のブログの第5詩行で出てきているが、その時は<獲物の対象>であったが、今回は獲物を<捕食する対象>になっている。

「息苦しくなる」nahmi <nahm「喘(あえ)ぐ、息苦しい」nahiimは「馬などの胸から聞こえてくる喘ぎ音」とされる。この変化形ナヒームnahiimが馬の鳴き声とされ、わが国の馬の鳴き声「ヒヒーン」に相当する。またガリバー旅行記に出て来るヤフー(原始人間)を支配下におく「馬の国」及びその言葉フウイヌムが出て来るが、どうやら/h・m・n/音は馬の擬音に関して 世界共通のようだ。

「解放される」の原語yanaazilu は「解放する」であり、主語は鷹匠となるが、前半詩行の流れから、鷹を主語にして受動態で訳出している。

 

 

 

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第7詩行 (寒さは沁みるものの、一旦主人の手から解放されれば、自由になって誇りを

          取り戻す。飛行に移ればすぐに野性味が全開。。得意げに上ったり下りたり、 

           大地がどうであれ、すれすれに飛行したりと)

 

前半詩行:

  放たれれば自在なり 己の意志で(ほしいまま)に上に下にと飛ぶ

                           baalaghat aw yanzilu “inda hukmi-hi

 

後半詩行:

  荒涼たる大地なれども その端を縫うが如く(はし)(さき)伸ばして左右に飛び回る

                           yarkabu atraafa s-sawaa bi-khatmi-hi

 

   ***      ***      ***

第7詩行の注釈:

前半詩行:放たれれば自在なり 己の意志で恣に上に下にと飛ぶ

「放たれれば自在なり」の原語baalaghat < baalaghaは「努力する、全力を尽くす、誇張する」の意味。いままで拘束されていた状態なので、解放されるや、自由を得て思う存分羽を伸ばし、さまざまな飛行を試し、主人に誇示する。ここでは水平飛行であり、後続語が上下動になる。後接語 yanzilu は直義は「降下する、降りる、止まる」であるが、当然ながら上昇と下降がもまた飛行に含まれている。

「おのれの意志で」“inda hukmi-hi。hukmは意志よりも「知識・経験、知恵、叡智」など、より賢さが浮かび上がる語である。

 

後半詩行:荒涼たる大地 その端を縫う如く (はし)伸ばして飛び回る

「荒涼たる大地」の原語sawaa の意味は「枯渇、頑強」であるが、文脈的に大地の形状を言っており、ここでは「草木無く荒れて、起伏のある大地」。

「嘴先」の原語khatmi<khatm の意味は鳥獣類の頭部先端を言い、獣類ならば「鼻口、吻」を、鳥類ならば「嘴」を意味する。この部分が特に長い、獣類ならばサルーキー犬のような長く突き出た顎、吻を持つもの、鳥類ならば鷲鷹類のような湾曲して長く突き出たもの、これをkhatmから派生したアフタムakhtam「長く突き出た顎、吻を持つもの」、と言いあらわしている。

水平での左右の動き、上る下りるの上下動を終えて、嘴を伸ばして速度を上げ、でこぼこした大地をすれすれに、自在な動きを見せる。

 

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第8詩行 (最終行。いったん飛び立てば、思う存分飛行したいのが本能。しかし鷹匠の静

          止にも従わねばならない。我慢して嫌々ながら差し出す手のマンカラ(手甲)の

          上に降りてこなければならない。鷹匠は鷹の匂いを嗅ぎ分けて、渇水状態で

          あるのを見極めて実猟に入る直前の「二度目の給水」を行う)

 

前半詩行:

  何と健気か 意に反しながらも手に止まる

                     wa-kam jamiilin hatta-hu bi-raghmi-hi

 

後半詩行:

  止まるを見れば渇きの匂いして二度目の水飲ます

                     wa-qad saqaa-hu “alalan min shammi-hi

 

   ***      ***      ***

第8詩行の注釈:

前半詩行:何と健気か 意に反しながらも手に止まる

「何と健気か」の原語 kam jamiilinの直義は「如何に美しいことか!」

「意に反しながらも」の原語 bi-raghmi-hiの直義は「彼の嫌い気をもって、彼の好まぬことを承知で」。raghmi<raghmは語根動詞√raghama「嫌う、好まぬ」の動名詞形である。

「意に反して、いやいやながら」という熟語はこのbi(with)という前置詞よりも"alaa(on)という前置詞を伴うことが多い。「彼の意に反して、嫌々ながら」との熟語は”alaa raghmi-hi

などと言う如くに。

 

後半詩行:止まるを見れば渇きの匂いして二度目の水飲ます

「二度目(の水飲ます)」の原語 “alalan <“alal の意味は「二度目を行う、飲む」であり、原形動詞√‟alla<‟alalaの意味は「もう一度行う、二度目を飲む、繰り返す」。飛行を思う存分、精力をかけて行った結果、水分を補う必要がある。それは鷹の吐く息の匂いで鷹匠が判断できる。

「二度目の給水」アラル“alal、この語はベドウィンにとっての遊牧生活の大事な用語となっている。家畜を放牧する時の給水用語で、アラル“alalは「二度目の給水」であり、最初の「一度目の給水」をナハルnahalと区別している。特に乾燥時や夏の猛暑日の放牧に出すときは、先ずナハルを済ませて置き、出かける直前にもう一度飲ませて、アラル(二度目の給水)を済ませてから放牧地に向かう。“alal ba”da nahal「(給水は)一度目の後二度目を忘れずに」というのが、出かけ間際の挨拶言葉であった。

 

 

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       —— 了 —— 

 

     サクル(セーカーハヤブサ)を手に据える筆者。

UAEの最南端ラッス・ル・ハイマの砂漠の中にある鷹舎。当時の首長の弟が鷹匠で、この鷹舎を拠点として鷹の調教と鷹狩りをしている。夕方から夜間、この鷹舎には調教及び鷹狩りを終えた仲間が集まり、鷹や狩り、獲物などの新情報を交換したりしながら閑談する。筆者も聞き取りがてらお邪魔することが多かった。そうした折の一枚。

ブルクワ(頭巾)を脱がせて(筆者の右膝の手前の右端にある)、 マンカラ(手甲)を通して中指で端にある指入れ輪にさして安定させ鷹を手に据える。1994年3月撮影。

 

  ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る   

                              アラブの狩猟詩(4)

キーワード:

コチョウゲンボウ(小長元坊) Falco columbarius、Marlin、Yu‘yu‘

Falco columbarius aesalon  赤首輪鷹 al-Baazii al-Ahmar al-Tawq

コチョウゲンボウのアラビア名称は三種

詩「ユウユウ鷹 鳥を狩る」  原題はal- Yu‘yu‘のみ

8詩行のラジャズ調律格  脚韻形式は子音/h/の一篇al-Haa’iyyah、ハー脚韻詩

内容は定型の早朝の狩り行、ユウユウ-Yu‘yu‘ 鷹の名鷹ぶり、鷹匠の心配り。

実際の狩りの描写、眼光鋭き視線は二三の瞬きのあと獲物を捕らえる。

獲物に向かって飛び立つ。その速さ、即応の機敏さ。

獲物の腹部を鉤爪で一閃。見事な狩りぶり。

最終詩行の定型 鷹の備わった天賦の才、それを人間に利用させてくれた神

神に感謝して終わる。

預言者のブルダ(外套)、詩人ブースィーリーの長詩・カスィーダ

 

    コチョウゲンボウについて  

コチョウゲンボウ(小長元坊、学名:Falco columbarius、英名Marlin)は、鳥綱ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属に属する鳥類の一種とされる。アラブ世界で棲息するコチョウゲンボウは、さらにその亜種とみられ、Falco columbarius aesalonとの種小名が付されている。「赤首輪鷹」al-Baazii al-Ahmar al-Tawqの意味で、下に図示するものがそれである。

 

アラブ世界の解釈ではサクルSaqr(セーカーハヤブサ)の属するスクールSuquur科で、その小型種Saqayriyyaat属、すなわちチョウゲンボウ属Baashqiyyaatの一種とされている。

但しタガ狩りの歴史も長く、アラブ世界でもマシュリク(東アラブ)とマグリブ(アンダルシア・スペインを含む西アラブ)とがあり、それぞれ鷹狩りも盛んであって、長い推移の中で、名称が入れ替わってしまっていることも十分ある。現在ではオマーンの事例を見るように、

「赤首輪鷹」al-Baazii al-Ahmar al-Tawqがコチョウゲンボウとして名が通っている。

 

チョウゲンボウが学名 Falco tinnunculus 英名 Kestrel 、アラビア名Baashaq、“Awsaq、Saqr al-Jaraad(バッタダカ)というのに対して、

コチョウゲンボウの方は、繰り返すが学名 Falco columbarius  英名 Merlin、Pigeon Hawkとされ、またアラビア種はFalco columbarius aesalonとされて、「赤首輪鷹」al-Baazii al-Ahmar al-Tawqとの特色名となっている。

 

古来から鷹狩りにも用いられていたコチョウゲンボウの名称は三種あり、①ユウユウ Yu’yu‘、②ジャラムJalam 、③アブー・リヤーフ  Abuu Riyaahと称されている。

 

① ユウユウYu’yu‘、この複数形はヤアーイーウya’aayii’とされている。Yu’yu‘のこの変わった名称の方は、畳語でもわかる如く、擬声語から由来する。小チョウゲンボウの鳴き声は「ヤウヤウ」ya’uya‘u、あるいは「ユウユウ」yu’uyu‘uと聞きなしされている。それ故小チョウゲンボウのこうして鳴く声そのものは「ヤウヤーウ」ya’uyaa‘という名詞になっている。

本稿でもユウユウ鷹として、鷹狩りの主題となり叙景される。「小チョウゲンボウ」と理解して、論を進める。

 

② のジャラムJalam とは原型動詞√Jalama摘み取る、刈り取るの意味で、jalamも第一義は(羊毛などの毛を刈り取る)「剪毛具、剪定ばさみ」であった。それが「小チョウゲンボウ」の意味を獲得したのは、その属性の獲物を素早い動きで、追い回し、捕まえる特性が<摘み取る、刈り取る>と連想されたのであろう。

 

③ アブー・リヤーフAbuu Riyaahは小チョウゲンボウに付された愛称のようなもので、「風(複数,riihが単数)の父」の意味であるが、風の向きや動きを巧みに捉えて、飛行動作も変幻に変え、ホバーリングも出来、そのスピードを最大限に生かすところから由来している。

 

視野を広げると、コチョウゲンボウ類は、現在では北アメリカ大陸北部、ユーラシア恐らく部で繁殖し、冬季はアフリカ北部、インド、中国東南部、北アメリカ大陸中部から南部、西インド諸島に渡り越冬する。

日本へは冬鳥として、北海道から九州まで各地に渡来するが、数はそれほど多くない。

アラビ半島には春秋の二期に、渡りが見られる。夏季には生息するものもあるが、多くはさらに南のアフリカへ渡り通過する。

 

形態については、全長はチョウゲンボウほど派手ではないが、それより一回り小さく、オスは27cm、メスは31cm平均である。頭部及び背翼部は暗褐色であり、頸部にはアラブ種特有な黄赤色が明瞭であり首周りにあり、それが、「赤首輪鷹」al-Baazii al-Ahmar al-Tawqの名前の由来になっている。尻から脚部にかけても鮮やかな同色が見える。胸には褐色の縦斑がある。

雌には黄赤色も淡く、また胸には雄以上に褐色の縦斑がある。

尾羽は長く、明るい褐色と黒に近い暗褐色の縞模様の連続が見られる。。

 

生態については、海岸や草原、畑地・農耕地、丘陵地、ワジの高い土手や茂みなど様々な環境に生息する。

ハイタカ類より飛行速度は速いし、空中でのホバーリングもできる。

 

食性は動物食で小型鳥類、小型哺乳類、昆虫類等を食べる。地面に近くても捕食でき、小型の鳥類が主食となる。また空中での方向転換もスムーズで、飛翔中の獲物を素早く追い回し捕らえる。またハヤブサ同様に、獲物の背後に回って蹴落とすこともある。

調教次第では、自分より大きいハト類やカラスの大きさの鳥までも猟をすることが可能である。

 

営巣であるが、岩場の上、崖の中程などを足場として、木の枝などを組み合わせた皿状の巣を作る。森林地帯で繁殖する個体は、カラス類の古巣を流用することもある。

習性として越冬地では、数羽から十数羽の群れでねぐらをとる。

繁殖形態は卵生。5-6月に平均4卵を産む。雌雄共に抱卵を行うが、主に抱卵はメスが行う。

 

体質においては、4体液に関しては「冷」にして「湿」とされ、チョウゲンボウと同じであるが、より忍耐力がある。獲物を狙うにも慎重に見極め、一旦狙う獲物を定めたら執拗に追い回し、捕食するまでは諦めない。

 

“Azziyy 66,148,251、Damiirii Ⅱ407-08、Kushaajim83、Oman 104-05、UAE81、Watching193,

 

上図はアラブ世界の小ショウゲンボウ三態。上が雄、首に太く黄赤の帯が首輪のように巻かれているのが特徴。尻から脚にかけての羽色も派手気味。下が雌で雄より一回り大きい。黄赤の羽毛色も目立たない。飛行を見せるのは幼鳥。オマーンでは現代も、この種をユウユウ al-Yu‘yu‘ と称している。Tuyuur al-“Umaan p.105

 

 

   ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る 

以下に訳出する狩猟詩「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」は原題がユウユウ al-Yu‘yu‘とあるだけである。作者はアッバース朝黄金期、首都バグダードでカリフ・ハールーンや宰相ジャアファルと親交のあったアブー・ヌワースAbuu Nuwas(810年没)である。アブー・ヌワースにはもう一篇同名のユウユウ al-Yu‘yu‘がある。これについては次回訳出紹介する予定である。資料はAhmad al-Ghazaalii編の『アブー・ヌワース詩集』Diiwaan  Abii  Nuwaas中の654頁に載せられているものである。

 

この「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」の一篇は8詩行からなる。ラジャズ調のため、一詩行を前後の半詩行に分け後半詩行のみに脚韻を置くカスィーダ(長詩)と異なり、半詩行には分けず詩行末にはすべて押韻を取る詩形である、それが紙幅の関係もあろう、一詩行に恰もカスィーダ詩型の体裁で、前後半詩行の如く配している。それ故事実上は16詩行なのである。

 

内容はまず定型の早朝の狩り行を述べて、次にユウユウ-Yu‘yu‘ 鷹のことを叙す。如何に名鷹であるか、いかに鷹匠が細心の注意と愛情をもって鷹の調教に当たっているか、第5詩行目から実際の狩りの描写に入る。眼光鋭き視線はブルクワ(眼套)を取り外され、二三の瞬きのあとすでに獲物を捕らえている。獲物に向かって飛び立つ。その速さ、即応の機敏さ。獲物の腹部を鉤爪で一閃。見事な狩りぶり。鷹の備わった天賦の才、それを人間に利用させてくれた神に感謝して終わる。

鷹の叙景があるが、ユウユウ-Yu‘yu‘の最大の特徴である「赤首輪」の記述がない。恐らく「赤首輪鷹」al-Baazii al-Ahmar al-Tawqではなく、他の小チョウゲンボウの可能性がある。バーシャクBaashaq(チョウゲンボウ)の一種であることは確かである。

 

形式については、qaafiyah(脚韻形式)について述べると、脚韻子音rawiiは本来ならば長母音の代理作用をしているalifであるべきであるが、長母音は子音ではないので、例外としてラウィーの後に付加(silah)されている代名詞の/h/が充てられる。それゆえこの一篇はハーイッヤ(al-Haa’iyyah)、すなわちハー脚韻詩とされる。そしてラウィーにかかる形が/-aa-hu/で、母音二つが相乗り(radiif)しているのでムルダファal-Murdafah形式ということになる。

 

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第1詩行 (matla"=詩の冒頭行、うちに出発。「春はまだ夜が明けない曙、やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて」を想起させる出だし。詩人は上天の闇を黒、下の地平線の明るくなってゆく部分、地平の際(きわ)は白みに黄味や赤味がかかる。その様は羽織る黒外套ブルダの裾の白や黄色の縁飾りに似る)

 

前半詩行:

  早朝に狩行に出かける 曙辺りを染める

                                        Qad ightadaa wa-s-subhu fii dujaa-hu

 

後半詩行:

  その様、恰も黒外套の裾飾る刺繡のごとし

                                            Ka-turrati l-burdi “alaamataa-hu

 

*            *        *

第1詩行の訳注:

前半詩行: 早朝に狩行に出かける 曙辺りを染める

「早朝に狩行に出かける」の原文qad ightadaa か狩り行に出かけるときの常套句。

「曙辺りを染める」の原文subhu fii dujaa-hu「朝の明るさが闇となっている上空の黒さの中にある」。「闇」の原語dujaaは「暗黒、暗闇、星の出ない夜」など一日の夜の時間帯指している。dujaaは複数形で、単数はdujyahといい、闇が一層一層と重なっているイメージである。

「春は曙、やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて」を想起させる出だし。詩人は上天の闇を黒、下の地平線の明るくなってゆく部分、地平の際(きわ)は白みに黄味や赤味がかかる。後半詩行では、その様は羽織る黒外套ブルダの裾の白や黄色の縁飾りに似る、とアラブ風である。

 

後半詩行:恰も黒外套の裾飾る刺繡のごとし

「外套」のことをブルダburdahという。多くは黒毛種の羊の毛皮を縫い合わせた外套で、ある。上等なものは襟や裾に刺繍が施されている。ここでは白色地の刺繍が縁に施されており、上の黒と下の裾の白との対照の妙を言っている。

ブルダといえば「預言者のブルダ詩」が知られており、以下の詩行末にその紹介を記しておいた。下図の英訳本の表紙では毛皮ではなく、皮製になっているが、寒い折に着用するのであるから毛皮製が普通であったはず。

「裾」の原語turrati <turrahは「縁、縞、筋」の義であり、衣類では「裾」を意味する。

「刺繡」の原語 “alaamataa< “alaamataaniは「印、紋章、刺繍」の意味であり、単数形は“alaamahであり、ここでは双数形が用いられているのは前開きとなり、「両裾の刺繍」として用いられているからであろう。

 

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    ブースィーリー作詩「預言者のブルダ(外套)」

「預言者のブルダ詩」の左は英訳本の表紙、MECCA BOOKS(Kindle book www.meccabooks.com)、右は原文の冒頭部。

作詩者ブースィーリーAl-Buusiirii(Abu 'Abdallāh Muhammad ibn Sa’íd ul-Busiri Ash Shadhili) (1211–1294) はエジプトで活躍したスーフィー詩人であった。もともとはモロッコのベルベル族sanhaji支族の出であった。シャージリー派スーフィー(神秘主義者)として修業を積むとともに試作に専念した。

しかし痛風麻痺にかかり身体が不随意になってしまった。

そうした折ブースィーリーは一夜預言者の夢を見た。預言者が現れ、自ら着用していた外套ブルダを脱いで、彼の身体に打ちかけてくれた夢であった。

朝目覚めてみると、何ら麻痺がおこらず、治癒していたのだ。この霊験のあらたかさから、詩人は感謝の意を全身全霊を籠めて長詩カスィーダを編んで、預言者に献じた。これが「預言者のブルダ詩」Qasiidah Burdah al-Nabiyyと題されて世に広まった。

ブルダ詩は、作者ブースィーリーの生存中から奇跡呼ぶものとして崇められ、後世さらに預言者信仰と重なり、広く知れ渡った。現在でもモスクや宗教建築の梁の部分には、この詩から引用された語句が多く飾られているのが見られる。また護符やお守りにも書き込まれ、死者を弔うときにも唱えられている。現在ではYouTubeなどでも詠唱されるものがあり、簡単に見聞き出来る。

 

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第2詩行 (視点が己の手に据えた鷹に移る、鷹はショウゲンボウ―の一種ヨウヨウ鷹、見 

                  るも美しく、しかも名鷹である)

 

前半詩行:  

  ユウユウ鷹を手に据えて されどこの鷹観るものを驚異( おどろ)かす

                                                      Bi-yu’yu’in yu”jibu man ra’aa-hu

 

後半詩行:

  ユウユウ鷹の数あれど (たぐい)稀なる逸物ぞ

                                                 Maa fi l-ya’aa’iyy yu’yu’un sharwaa-hu

 

*            *         *

第2詩行の訳注:

前半詩行:ユウユウ鷹を手に据えて されどこの鷹観るものを驚異(おどろ)かす

「ユウユウyu’yu’鷹を手に据えて」。徒歩でも、馬上でも、また駝上でも、1kgほどの重さの鷹なので、左手に手甲をしてその上に乗せて行を共にするのが常識。

「されどこの鷹観るものを驚異かす」とあるから、クロート好みの鷹目利きにも、うならせるものが外見からも内から発せられているのであろう。

 

後半詩行:ユウユウ鷹の数あれど (たぐい)稀なる逸物ぞ

アラビア詞においては、同一語は原則禁止。用いても少なくとも数行は空けることになっている。しかしこの詩行でははユウユウ鷹yu’yu’に引っかけて、原語表記を見れば分かるように、縁語や類語を用いる技法を見せている。単数でも限定詞の有無で内容をうまく言いあらわしている。

「ユウユウ鷹の数あれど」の表現をyu’yu’の複数形ya’aa’iyyを用いることで、数あるユウユウ、並のユウユウ達の意味が伝わる。さらにyu’yu’nと続けてその類の並みのものではない「類稀なる逸物ぞ」との意味合いで技法化している。yu’yu’の関連語がこの第2詩行だけで三回登場している。

 

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第3詩行 (名鷹ぶりを叙していく。頭部から、あの頬に流れるハヤブサ髭、そして大きな眼

                       球、黒目だがこの鷹には灰褐色が入る)

 

前半詩行:

   まずは頬 その黒毛筋両の頬を隈取り

                                                  Min saf”atin turra bi-haa khaddaa-hu

  

後半詩行:

   次は眼 青黒色にして 見るひとの心眼裏切ることなし

                                                      Azraqu laa takdhibu-hu “aynaa-hu

 

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第3詩行の訳注:

前半詩行:まずは頬 その黒毛筋両の頬を隈取り

「頬」の原語 khaddaa<khaddaani は双数形であり、単数形はハッドkhadd。両の頬にはハヤブサ、チョウゲンボウに見られる黒い大きな「八」の文字、いわゆる「ハヤブサ髭」が見られる。「隈取り」の原語 saf”atin <saf”ahは「頬にある黒色、斑点、ほくろ、シミ」であり、ここでは大きな「八」文字となって項へと続く。「黒毛筋の」の原語turra <turr は「筋、縞、縁」の意味で、色は指定していないが明らかに黒である。

 

後半詩行:次は眼 青黒色にして 見るひとの心眼裏切ることなし

「青黒色」の原語azraqは「青」の意味が基本であるが、我が国でも「カラスの濡れ羽色」とか、「緑の黒髪」とか「黒馬」を「アオ」という如くに、黒色には条件によって、青色、緑色が見られることがある。ここでは「漆黒の眼の中に青色が反映している様。

「見るひとの心眼裏切ることなし」、鷹匠や専門家は、人間も同じであるが、相手の眼を観察して、鑑定を行う。特にタカ類の眼は大きいので、様々な情報を読み取ってしまう。

名鷹ぶりを叙していくのであるが、ここでは頭部の特徴として、あの頬に流れるハヤブサ髭、歌舞伎の隈取りほどにはっきりしている。そして大きな眼球、黒目だがこの鷹は青みが見られる。それは他のyu’yu’とは異なるところで、鷹に詳しい者の着眼点でもある。ちょうど、我が国の「鷹の観相」の中に「鷹の目形」があるように。

 

 

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第4詩行 (この鷹の逸物ぶりの叙。鷹のことを知る者ほど、思わず賛嘆し、その鷹の血

                      筋、父鷹および母鷹のことに思いが及んで、思いの丈を訴えることになる)

 

前半詩行:

   熟練の猟師 他ならぬこの鷹を一目観さえすれば

                                                   Fa-law yaraa l-qaanisu maa yaraa-hu

 

後半詩行:                                                                                                            

  その父親にまた母親に思い及んで 我が身を捧げることであろう

                                              Faddaa-hu bi-l-ammi wa-qad faddaa=hu

 

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第4詩行の訳注:

前半詩行:熟練の猟師 他ならぬこの鷹を一目観さえすれば

「猟師」の原語はqaanisが用いられている。一般にはサーイドsaa'idが、そして鷹の猟師、鷹匠にはバージヤールbaajiyaarが用いられる。ここでの「猟師」の語qaanisもまた、サーイド同様、<狩り、狩猟>が意味の主体を担っている。

語根動詞√qanasaは「狩りをする、獲物を捕らえる」である。派生動詞iqtanasa は語根動詞に速度を強調して「急いで狩りをする、急いで獲物を捕らえる、一連の流れでスムーズに獲物を捕る」となる。「狩猟」はこの派生名詞qans、iqtinaasとされる。「狩りの獲物」はqanas、qaniis、maqnuusある。「猟師」の語はqaanisの他にqannaas、qaniisも用いら、その複数形はqawaanis、qunnaasとされている。

「カニースがカニースを連れてきた」Jaa’a al-qaanisu bi-l-qaanisi との言い回しがあり、「猟師」の語qaanisと「狩りの獲物」の語qaanisが同形異義語としての駄洒落となっている。

また「火焔は彼らの上に己の猟師たちとして送り込んだ」tukhraju an-naaru “alay-him qawaanisa とは地獄での火獄の様を言い、地獄に落ちた人間たちは火責めに遇う。焼かれては蘇生され、また焼かれては蘇生する。火責めの火焔はあたかも猟師たちのように炎の礫を蘇生した死人に投げて襲い焼死させてしまう。地獄草子の一コマのような絵画的描写である。

 

後半詩行:その父親にまた母親に思い及んで 我が身を捧げることであろう

「身を捧げる」の原語 faddaaは派生動詞であり、語根語は「身代わり、代償」を意味するフィダー、fidaaである。語根動詞√fadaa<fadayaは「捕虜や奴隷の身代金を払う、払って自由にする」である。喜怒哀楽において相手を思いやる、その身代わりになってやりたい、との言い回しがある。例えば「この私自身があなたの身代わりになってあげたい!」との表現は fidaa-ka nafsii !と言いあらわす。

 

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第5詩行 (実際の猟の場面に移る。狩場での鷹の目つきは一(またた)ごとに威力を増す。眼光

                      鋭き一閃は既に獲物が視野に入っている)

 

前半詩行:

    一旦閉じた目蓋かっと開き見渡せば 

                                           Min ba”di maa yadhhhabu humlaaqaa-hu

 

 

後半詩行:

   その虎視ならぬ鷹視眈々 獲物見逃す能わず

                                               Laa yuw’ilu l-makkaa’a minkibaa-hu

 

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第5詩行の訳注:

前半詩行:一旦閉じた目蓋かっと開き見渡せば 

「目蓋」の原語  humlaaqaa<humlaaqaani は目蓋の内側にある「瞬膜」フムラークhumlaaqのこと。フムルークhumluuqとも言い、その複数形はhamaaliiqである。ここでは双数表現されており、「両目の瞬膜」になる。原型動詞√hamlaqaは動作主は鷹である。「目を大きく開いて見つめる」の義。時々鳥が目を瞬つかせるときに見えるあの白膜である。

狩場までは、鷹はわが国では「ハヤブサ頭巾」、現地ではブルクワBurquwah(目套)を被せられており(下図参照)、狩場に着き、獲物のいそうな場に来ると、ブルクワが外される。鷹はニ三瞬きをする。鷹の目つきは一瞬きごとに威力を増す。速度の速い鳥、水中を及びまわる鳥には、眼を保護するために薄い白い膜がある。大きな眼の白い瞬膜を下に降ろすや、眼光鋭き黒目が辺りを見回す。

 

      ハヤブサ類に被せるブルクワBurquwah(ハヤブサ頭巾)4態

我が国でも「ハヤブサ頭巾」という如く、オオタカ・ハイタカ類には装備せず、ハヤブサ類には着用させる。オオタカ類の方は野性味が強いため、人馴れはあまりしない。が、ハヤブサ類の方は、見慣れてしまうと人馴れを起こしてしまうので、多くの場合この「頭巾」を被せる。アラビア語ではブルクワBurquwah との名称で、ブルカとして知られる女性の頭部を覆うベールと同一語である。図は筆者の資料より。

 

 

 

後半詩行:その虎視ならぬ鷹視耽耽 獲物見逃す能わず

「獲物」と訳した原語mukkaa’a<mukkaa’ は 「鳴く鳥、囀る鳥]の意味であり、これから獲物が鳥、小鳥であることが分かる。ムッカーウの複数形はmakaakiyyとされる。また「鳥」の一般語  tayr pl. tuyuur が用いられておらず、<鳴く>という属性が反映された「鳥」である。この語根動詞√makaa<makawaは「鳥が鳴く、囀る」であるところから、どんな鳥かが分かろう。さらに「鳥の鳴き声」はこの派生名詞mukaa’、またmukaaが担っている。

「鷹視耽耽と」の原語mankibaa<mankibaaniは「両肩」の意味で、単数はmankab。ここでは肩翼を指し、鷹視眈々と眼で狙いをつけ、肩翼を動かし、飛び立つ動作に入る前の動さ。鷹匠も鷹がこの仕草を見せると、いつでも飛び立てるように腕を伸ばしたり、上に上げて補助する。

「見逃す能わず」の原語はlaa yuw’ilu。否定詞laaの後接語 yuw’ilu <waa'ala<wa’alaの意味は「逃る、避ける、避難する」である。

 

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第6詩行 (獲物目掛けて飛び立つ。その羽ばたき、その速度。逃げる獲物もとても逃げ

           おおせない程の追跡能力)

 

前半詩行:

  そしてあの翼 その羽ばたきの速力の威力

                          Wa-laa junaahaani takannafaa-hu

 

後半詩行;

  追跡に移れば 逃れきる能わず

                         Min-hu idhaa taara wa-qad talaa-hu

 

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第6詩行の訳注

前半詩行:そしてあの翼 その羽ばたきの速力の威力

「翼」の原語 junaahaani は「翼」 junaahの双数形「両翼」。その体に比して大きな翼羽ははばたくほど速度を増す。たちまちにして獲物に追いついてしまう。そして尾翼と共に方向転換も滑らか。

「速力の威力」の原語takannafaa<takannafaは動詞「追いつく、取り囲む」。双数形であるから、動作主は両翼。鷹は獲物に追いついて、その両翼で囲んで、脚と鉤爪で鷲掴みにする。そうしてから獲物の首を嘴でへし折る。同語根の派生名詞kanaf (pl.aknaaf) にも「鳥の翼」の意味がある。

 

後半詩行;追跡に移れば 逃れきる能わず

「追跡に移れば」野原語 idhaa taara はもし取り逃がしたとしても、翼の速度と尾翼のしなやかな連携から方向転換もスムーズ。「逃れきる能わず」 qad talaa-hu 確実に彼(獲物)を追跡し、仕留める。獲物は逃れきることはできない。

 

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第7詩行 (獲物に接近して、先ず脚と鋭い鉤爪でひと蹴り。 獲物どれほどの能力があろ  

          うとも、逃れようがない)

 

前半詩行:

  瞬時にして一閃 獲物の腹部切り裂く

                          Duuna ntizaa”i s-sahri min hashaa-hu

 

後半詩行:

  獲物速さと機敏さあろうとも それ超えるものなれば逃れる術も無し

                          Law akthara t-tasbiiha maa najjaa-hu

 

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第7詩行の訳注:

前半詩行:瞬時にして一閃獲物の腹部切り裂く

獲物を鷲掴みにするか、鉤爪でその体を切り裂くか、一瞬の判断で決める。ここでは切り裂く方を選んだ。

「獲物の腹部」の原語 s-sahri min hashaa-huの直義は「彼(=獲物)の内臓・腸から肺」。鋭い鉤爪は腹部のその部分を切り裂いたのである。

「切り裂く」の原語 ntizaa”i <intizaa” は「もぎ取る、取り出す」ことの義。切り裂いた後の腹部の臓物が裂かれて飛び落ちている。

 

後半詩行:駿足と機敏さ長けていようとも 超えるものなれば逃れる術も無し

「速さと機敏さ長けていよう」の原語law akthara t-tasbiiha は「もしタスビーフがより多くとも」の義。タスビーフtasbiihとは誦句スブハーナッラーSubhaana Llaah(神の崇高性を讃えまつる!)を唱えること。 タスビーフは神のその崇高性によって、難事や危機を逃れたいときに唱える。小罪を犯した者はタスビーフを百回唱えれば許されるとされる。ここでは、速さと機敏さが勝ることによって、鷹から逃れたいために唱えられる。ムスリムの習慣を擬人化して鳥の唱えさせる。いかにもイスラム的。

 

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第8詩行 (最終詩行。ユウユウ鷹の持つこの能力は、鷹狩りに向き、我ら人間のために神

          が鷹に与えた才能、と神を讃えて終わる)

 

前半詩行:

  これらの才能こそ我らのため、彼に授けしもの

                         Dhaalika lladhii khawwalanaa-hu Llaahu

 

後半詩行:

  天賦の才 彼に与えたもう神に讃えあれ

                            Tabaaraka Llaahu lladhii hadaa-hu

 

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第8詩行の訳注

前半詩行:これらの才能こそ我らのため、彼に授けしもの

「彼に授けしもの」の原語 khawwalanaa< khawwalaは「与える、許す」で義である。この語形は二重目的語を採り、動作主アッラーが「我々に(=人間に)彼を(=鷹を)与えたもう)となる。鷹の獲るものは人間にも食利用や他の衣食住の便宜となり、有効利用される。人間のために生まれてきた、神が創造された、そうした一面も持っている。

 

後半詩行:天賦の才 彼に与えたもう神に讃えあれ

「天賦の才彼に与えたもう」の原語  hadaa-hu は「彼(=鷹)を正しい道に導いた」の意味である。鷹が天空を飛翔する、飛翔能力、展開能力、捕食動物を人間に分与する、見た目の美しさ、凛々しさ、そうしたものは神が鷹に与えた天賦の才であり、そうした能力を付与した神にも感謝tabaaraka Llaahuしなければならない。

 

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                            ——了 ——

 

1994年3月、アブダビの鷹匠を夜間訪れる。囲いの内側に大きな庭があり、その一部は砂漠に連なる砂場で、そこは鷹の調教場として用いられていた。左端が案内して頂いたジャパン石油の後藤公隆さん(アズハル大学出)、右端が鷹匠。中央で笑いながらメモを取るのが筆者。その横にブルクワ(頭巾)を被って後ろ向きなのがサクル(Saqr セーカーハヤブサ)。翌朝、狩りに同行するのを許可してくれた。