猟犬 我と共に、カモシカ狩り Kalbii Ma”iyy  

                        アラブ狩猟詩(6)

 

 

キーワード:

アラブ狩猟詩・犬   作者は詩人アブー・ヌワース   猟犬カモシカを狩る  

11詩行長詩カスィーダ詩形      qaafiyah(脚韻技法)al-Baa'iyyah、「B脚韻詩」

岩がちのところが猟場     獲物はカモシカ         「我が犬」を放つ

岩だらけ難じて逃げられる    臭覚で追跡     離れた茂みの中のカモシカ群

それに目掛けて突進  一頭が敢然と犬に挑戦。  我が犬は術心得、深手を負わせる

技巧みに仕留める      讃嘆で終わる最終行

 

 

今回のアラブ狩猟詩は猟犬(恐らくサルーキー)が岩地を超えて逃げてゆくカモシカを狩る、しかもそのカモシカは追ってくる猟犬に対して挑戦してくるのである。そのカモシカに対して、狩りに手慣れた犬は急所どころを心得ていて、順次そのステップを踏み、見事な技で仕留める。

作者は前回と同じくアッバース朝全盛期の9世紀初頭、首都バグダードで活躍した詩人アブー・ヌワース Abuu Nuwaas。

この詩一篇は『アブー・ヌワース詩集』Diiwaan Abii Nuwaas のTard (狩猟)の部、632頁に収められている。

 

ここで紹介する一篇の詩題は Kalbii Ma”ii であり、直訳は「我が犬 我と共に」であるが、邦題はカモシカを狩るので「猟犬 我と共に、カモシカ狩り」とした。我が犬とは、詩人が愛犬としたズンブールZunbuur(「大スズメ蜂」の義)のいう名の猟犬のことと思われる。この犬については、『詩集』の次ページに謳われており、具体描写が続く。この詩一篇については、筆者は既に他の狩猟詩と共に訳出紹介している。(「アラブの狩りと犬たち」『月刊百科』平凡社、205号,1979年10月号、34-40頁)。

 

本詩は11詩行であり、今回はラジャズ詩形をとっておらず、長詩カスィーダ詩形を採っている。

1詩行は前半と後半に分かれて、詩行末=後半詩行末のみに脚韻を置く。但しマトゥラウmatra"(冒頭行)のみには前半詩行末にも脚韻を置くのが常道。本詩も、それに則っている。

 

qaafiyah(脚韻技法)を述べれば、ラウィー(脚韻子音)は/b/であり、バーイッヤal-Baa'iyyah、すなわち「B脚韻詩」。ラウィーに掛かる母音は/i/であるが、多くは行末の効果を活かすために長母音化させて/ii/とされる。インシャード(詩吟)詠みの場合は、もっと長引かせて、奥行きと余韻を共有する場・空間の中に響かせる。

ラウィーに前接するのは母音を採らない子音である。したがって脚韻は/子音+b+i/の構成となる。

 

内容の方は、猟犬を連れて、狩場である岩がちのところに登って行く。やがてカモシカの群れを見つけ、猟になれた「我が犬」を放つ。しかし岩だらけなので、逃げられてしまう。しかし、優れた臭覚で、離れた茂みの中に休んでいるカモシカ群を見つけ、襲いかかる。

が、ボスであろう一頭の雄が敢然と犬に挑みかかってきた。応じた我が犬は要領を得ていて、横から攻め相手に深手を負わせ、順次攻撃の巧みさ見せながら仕留めに入る。その戦いぶりの見事さを讃嘆して終わる最終行もしっかりしている。

 

なお、原文通りではなく、詩行の順序を変えたところがある。第9詩行はまだ戦う場面である。そのため、仕留める段階にはいる前の、8詩行に差し入れた。第8詩行の方は仕留め方の天晴を謳う内容なので10詩行に差し替えた。それ故。第8詩行以下は順序が原典とは異なる。この詩行のずれについては、注釈でも理(ことわり)をいれておいた、。

 

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         第1詩行 

前半詩行:

  何とあまた度(たび)犬と共に早朝出かけたことか!

                     rubba-maa aghduu ma”iyy kalbiyy

 

後半詩行:

  猟師仲間と連れ立ち 共に絶好なる獲物求めて

                               taaliban l-s-saydi fii sahbiyy

 

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第1詩行の注釈:

マトゥラウ  matla” =冒頭詩行。早朝の出発。詩人も猟犬を連れてどれほど狩りに多く出かけ

たことか。馴染みの猟師たちと一緒に、さて獲物は?と。

 

 前半詩行:何とあまた度 犬と共に早朝出かけたことか!

「何とあまた度」の原語rubba-maa。rubbaは数量の多さを表す感嘆詞である。そのあとには、名詞単数属格の非限定詞を従える。ここでは「何とあまた度」であるから、rebba marratinと言い換えることができる。単語ではなく、文章を従える場合,rubbaの後に文節を従える、英語のwhatに当たる接続詞(ここではmaa)を従えることによって、後述する文章内容の多量性、多数性を感嘆する表現となる。

数量の感嘆詞は前回のブログ「ユウユウ鷹を連れ出す」の第3詩行前半詩行で「多くの猟師」でも用いられており、同じく単数形を用いて複数表現する技法である。wa-qaanisinは/wa-/という接続詞と、名詞単数形(ここではqaanis) 、その非限定属格(ここではqaanisin)との組み合わせで、「多くの猟師」の複数表現となる。ちょうど英語でもここで言うhuntersという代わりにmany a hunterという表現があるのと同様である。

 

「私は早朝出かける」の原語は aghduu が用いられている。普通はaghtadii(私は早朝出かけた),ightadaa(彼は早朝出かけた)が狩り出の冒頭句の決まり文句であるが、これら派生動詞を選ばず、原型動詞aghduuを用いている。

 

 

後半詩行:  猟師仲間と連れ立ち 共に絶好なる獲物求めて

「猟師仲間」の原語sahbiyyは直訳は「わが友たち」である。sahbiyy<sahbは複数形で、単数形はsaahib。このsaahibにはsahbも他にいくつかの複数形があり、そのうちの一つにサハーバsahaabahがある。と同じ「友」でも、特殊な宗教用語「預言者の教友たち」の意味となり、イスラム草創期には重要な役割を果たした。イスラームの信仰共同体の確立、聖典クルアーンの解釈、預言者の言行録をオリジナルで伝えるのもサハーバであった。

「獲物」の原語はここではサイドsaydになっている。サイドsayd はごく一般的に「狩り、狩猟、漁猟」の他に、このようにその対象である「獲物」自体の意味も外延している。同語根の派生語受動分詞でマスィードmasiid(<masyuud)「狩られたもの」も当然「獲物」になる。

 

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猟犬二態。左図は本詩と似た状況。岩がちな狩り場を猟師が犬を連れて登ってゆく。サルーキーが勇ましくはなく、愛らしく描かれている。中世の細密画の一部を拡大。

右図はウサギに追いつきまさに捉えんとしている一瞬。インターネット画像より。

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         第2詩行 

前半詩行:

  足場悪しき岩山を犬と共に登りて

                      fa-samawnaa li-l-haziizi bi-hi

 

後半詩行:

  カモシカたち見出し 犬を追わしめる

                              fa-dafa”naa-hu “alaa azbii

 

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第2詩行の注釈:

砂漠や平地ではない。荒れた坂の山登りをしてゆく。目指すのは岩山でも平気な、いやそうした岩地を得意としてカモシカ。見出したカモシカを我が犬で追わせる。

 

前半詩行:足場悪しき岩山を犬と共に登りて

「足場悪しき岩山」haziizi <haziizとは語源ハッズhazz「切れ目、刻み目」から由来し「切れ目、刻み目が多い土地、平たんではなく岩石で凸凹とした大地、岩の多い地」であり、人間に当てはめると「積極的で大柄な人」になるとされる。

「登りて」の原語samawnaa <samaa<samawa は「上る、登る、上に行く」であり、語源はサマーウsamaa‘「天、高み」に行き着くので、それの動詞化されたもの。

 

後半詩行:カモシカたち見出し 犬を追わしめる

「カモシカたち」の原語azbii は複数形で、単数形はzabiyyであり、カモシカとガゼル鹿の両義がある。親しい動物なので、複数形がazbiiの他に幾つもある。UAEを構成する首長国の中のアブダビの正式名称はアブー・ザビーAbuu Zabiyy、すなわち「カモシカの父、ガゼル鹿の父」の意味を持つ。

「追わしめる」の原語dafa”naa<dafa”a は「押す、押し出す、放つ、追わす、払う」である。

 

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         第3詩行 

前半詩行:

  折しもカモシカたち授乳の時 仔たちに乳与えており

                    fa-stadarrat-hu fa-darra la-haa

 

後半詩行:

  瞬時に立ち上がる 両肘を乳泥まみれにしつつ

                            ya’timu l-rifqaini bi-t-turbi

 

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第3詩行の注釈:

獲物とされたのは、岩がちのところに住むカモシカ。まだ危険な相手に気づかず安心して草を食んだり、授乳をしていた。そこへ敵の猟犬が突如が現れ、慌てふためく。授乳の中の母親は素早く立ち上がったため乳を垂れ流し土と入りまじった泥をくっつけて仔を率いて連れて逃げる。

 

前半詩行:折しもカモシカたち授乳の時 仔たちに乳与えており

「授乳」の原語stadarrat<istadarraは後出する「乳与える」darraの派生動詞であるので、darraの方を先に説明しておく。語根語は名詞darr「多量の乳、豊富な乳」である。そして語根動詞が√darra<dararaであり「乳が豊かにある、多量の乳を出す」であり、動作主はラクダとされるが、人間にも他の家畜類にも言われる。

搾乳して人間の食料に当てることができる動物の乳は一個体が多量の乳を出してくれるほど、遊牧民などには有難がれた。多量に乳を出す雌ラクダは選別され「乳ラクダ」 haluub として、選別してその系統を作っていった。それ故その持ち主に大なる恩恵を与えた。諺に「彼の(乳ラクダの)多量の乳はアッラーの賜物」li-llaahi darru-huがある。「彼はなんと素晴らしい人物だ、彼の属性(例えば気前良さ、寛大ぶり)は見上げたものだ」と、そのラクダの所有者をほめたたえる誦句となっている。

砂漠の中では、ラクダの乳は乞われれば、そこで絞って与えることが遊牧民の美風であった。「彼の多くの乳量が出なくなりますように!」laa darrun darru-hu との文句は上とは逆に「彼は性悪だ、ケチだ、悪人だ」との意味の言い方。その由来は砂漠民の美風を体現しようとせず、自分の利益だけのことしか考えない人物、乳いっぱい出すラクダがおり、その乳を乞うても拒む人物がいたゆえに生まれた。

「授乳」の原語stadarrat<istadarraはこの原型動詞darraから派生した動詞で、単に「乳を与える」のではなく、厳密にいえば「乳をたくさん授乳させる、与える」ということになる。

 

後半詩行:瞬時に立ち上がる 両肘を乳泥まみれにしつつ

両肘」の原語rafaqaini <rafaqaaniは双数形であり、単数形はrafaq「肘」。語根動詞√rafaqaは「肘を動かす、肘で押す、肘で叩く」であり、場所を表す接頭辞ma-を付してmarfaqahとすると「肘置き、肘掛け、脇息」の意味を派生させる。何か行動を起こすとき、反応する時、先ず手の方が動き出す。肘も同時に動く。転倒する時、杖を使う時、まず「庇(かば)い手、肘出し」がとっさに出る。ここでは敵の襲撃なので、もっと慌てふためいた行動になり、乳がこぼれ土まみれになる。

「泥まみれにしつつ」の原語ya'timu。未完了の形で、完了の形は 'atama。直義は「波がうねる、炎が燃え上がる」であるが、ここでは両肘の描写なので、授乳の状態から、その急激の立つ動作に転じて謳っている。

 

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       第4詩行 

前半詩行:

  追う犬をはぐらかせ 岩地飛び翔り去りて一安心 

                   fa-ddaraa-haa wa-hya laahiyatun

 

後半詩行:

  ハーズとガルブの茂みの中に逃れ行きて

                        fii jamiimi l-haadhi wa-l-gharbi

 

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第4詩行の注釈:

普通の駆けりではサルーキー犬も負けないが、大きくジャンプするカモシカはしかも岩場

を得意とするのでは叶わない。犬をはぐらかせ、遠く離れた茂みの中で潜んでまずは様子見。

 

前半詩行:追う犬をはぐらかせて 岩地飛び翔り去りて一安心 

はぐらかせて」の原語iddaraa<idtaraaの意味は「はぐらかす、欺く、惑わせる」である。岩地なので勝手知ったるところ。ピョンピョン跳ね飛び、追っ手を混乱させ、追跡困難に追い込む。

「一安心」の原語laahiyatun<laahiyah<laahiyyの語根動詞√lahaa<lahawaの意味は「気を紛らす、気を晴らす」である。起伏があり岩地の多いところでは、犬よりは大型で足が丈夫で飛躍力があるカモシカが有利で、より有利な遠くに逃げ去る。

 

後半詩行:ハーズとガルブの茂みの中の逃れ行きて

「ハーズ」haadhi< haadhとはアカシアに似た「Stylax(エゴの木)科の仲間」とされる。複数形はaahaadh。なお同語根の派生語にハウザーンhawdhaanの語があり「スイレン」である。

「ガルブ」gharbi <gharbとは「タマリスクtarfaa'の1種」とされる。レクシコンのLisaan al-“Arab によれば「アラビア半島西岸ヒジャーズ地方に産する、大きく太くなる木で、緑の葉が茂り、刺を持つ。別名アブハルabhalと呼ばれる。この木からクハイルKuhaylと呼ばれる樹脂が取れ、この樹脂はタール状(qatiraan)になり、人間やラクダなどの家畜の疥癬の塗り薬として用いられる」、とある。Lisaan al-“Arab、(Daar al-Saadir版)第1巻644頁。

 

 

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ネゲブ砂漠の砂丘近くのタマリスクTarfaa'。砂漠の植物としては頑丈さも刺もなく、なよなよとしており、我が国ではギョリュウと命名されている。 1984年9月筆者撮影。この実がマナの一つとされているが…。  右図はタマリスクの詳細、図巻 Plants of Dhufar pp.282-83より。

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          第5詩行 

前半詩行:

  されど我が犬 その群れに追いつき猛然と突進せり

                      fa-faraa jummaa”a-hunna kamaa

 

後半詩行:

  恰もターバンの結び目切り裂くが如くに

                             qudda makhuluulaani min “asbi

 

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第5詩行の注釈:

犬は岩場ではカモシカに敵(かな)わないから取り逃がす。だが犬には敏感な臭覚がある。この武器で、後れを取ったとしても、追跡能力は抜群。やがてカモシカの潜み場所を見つけ、その群れに向かって襲撃する。群れの塊は四散する、ターバンの結び目が解かれて広がってゆくように。

 

 

前半詩行:されど我が犬 その群れに追いつき猛然と突進せり

「群れ」の原語ジュンマーウjummaa”a <jummaa” は「集まり、集団」であるが、より具体的には個々の部分が寄り集まって、寄り集めて成り立つ集合体の意味。アラブ民族には、「複数」概念が発達しており、疑似複数、少数複数、多数複数、複数の複数などの標識の集合体がある。これがjummaa”として成り立つ複数概念である。

また牡牛座の昴(スバル)にまつわる関連で「スバルのジュッマーウ(=昴の集まり)」Jummaa” al-Thurayyaaとの逸話がある。見る人によって普通には六つ星であったり、視力の良い人には七つ星である小さな星の集団であるスバル。スバルは秋の到来に備えて、その時に降る最初の雨ワスミーal-Wasmii(大地に雨粒跡を残す刻印)を生じさせる星たちjummaa”と言われている。大地にワスミーの雨の粒跡(wasm刻印)を残すと、それが明瞭であるほど来るべき秋から始まる雨期に大いなる降雨と豊穣が約束されると信じられている。スバルの誕生譚がアラブにはあり、神に命じられて天使が個々に「雨降り星」と呼ばれる小さな星たちを、広大な天空を放牧地のように探しながら、情報を得て探し当て丁寧に寄り集めた。そしてその位置を今の雄牛の肩の部分に囲って配した、といわれている。それ故スバルの星たちは小さいながらも個々に「雨降り星」なのであり、そのjummaa”(集まり)なのだから、もっとその威力が増していると信じられているわけである。

 

 

後半詩行:恰もターバンの結び目切り裂くが如くに

「ターバン」にはアラブ世界で代表語に2語ある。一つはイマーマ"imaamahであり、この方が知られている。が、もう一語はアスブ “asb という。敢えて区別すれば後者の方が小さ目、前者の方が大き目とされている。ここでは後者が用いられているので、少し説明をしておこう。

アスブ“asbの語は「ターバン」が語根であり、それゆえ語根動詞√“asabaは「ターバンを巻く、着ける、縛る、締める」の義となる。(より原義的には「布地を巻く、捩る、折り畳む」である) その派生名詞イサーバ“isaabahも同じ「ターバン」の意義を持つ。この語形態はイマーマ "imaamahと同じである。

普通は一人ではターバンの着用が、我が国の女性の和服の腰帯を締めると同様、手間暇と時間がかかる。他人の助けを借りることが多い。それを派生動詞で他動詞となるアッサバassaba「ターバンを巻かせてやる、ターバンを着用させる」が表している。このアッサバには「ターバンを被せる」の他に「冠を被せる]の意味もあり。国や地域の王や首長などのターバン=冠を表し、「戴冠式を行う」までの意味を持つ。「戴冠式」のことは、この動詞の動名詞タアスィーブta“asiibといっている。それも伝統的に赤色のターバンが巻かれる伝統があった。

さらにその派生形に再帰形があり、タアッサバta“assabaと言い、お互いに助け合い「お互いターバンを着用させ、着用に及ぶ」ことを言っている。

家庭ならば寝室には、帽子掛けならぬターバン台が設けられており、きつく巻かれたターバンをしたまま頭からスッポリ外し、その台の上に置いて身を横たえる。翌朝起き上がる時はその台からターバンを取り上げ、頭にしっかりと被ることが日常であった。

ターバンを巻くのにもいろいろな形や巻き方はあり、イスバ“isbahとの語はその「ターバンの巻き方」との用語である。特に正面の見せ方、両端の垂らし方や上げ方など、貴賤での、時代での、地域での、生地での、それぞれ違いがあった。イスラム世界でアラブ民族がヘゲモニーを握っていた頃はターバンの着用はアラブ民族にのみ許されていた。「ターバンを巻いている人」とのムアッスィブ mu“assibとはその時代の特権的意味合いを持っていた。アッバース朝時代のペルシャ人やその後のセルジューク朝時代のトルコ系人など、時代を経るにしたがって一般着用が普及していった。

 

「結び目」の原語makhluulaani<makhluulといい、語根動詞√khalla<khalalaには対義的意味があり、「突き刺す、切り裂く」と「両端を合わせる、結ぶ」があり、ここでは後者で「衣の裾、端を結ぶ、ピンで留める」の義。その受動分詞なので「結び目」と訳した。

「切り裂く」の原語はqudda、qaddaの受動形で「切り裂かれる」の意味で対象はカモシカある。が、動作主を犬に統一したために能動形に訳出。「切る、切り裂く」の一般語はカッタqattaであるが、qaddaの方が「長めに、深めに切り裂く」の意味が強い。

 

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         第6詩行 

前半詩行:

   されど褐色カモシカの一頭 犬へと挑みかかる

                          ghayra ya”fuurin ahaaba bi-hii

 

後半詩行:

  しかるに犬組み易しとみて 心臓近くの脇腹をえぐりたり

                             jaaba daffay-hi “ani l-qalbi

 

   ***      ***      ***

第6詩行の注釈:

カモシカは逃げるはずが、雄で強いボス風なのが犬ぐらいと侮って、逆に挑戦してきた。角を低く接近するために敵が良く見えない。犬は狩りを心得ており、正面を避け、わき腹に一撃を喰らわせた。

 

前半詩行:されど褐色カモシカの一頭 犬へと挑みかかる

「褐色カモシカ」の原語はヤアフールya”fuurin <ya”fuur、複数形はヤアーフィールya”aafiir。「カモシカ」の中でも赤みがかったカモシカ。しかし語根名詞アフル ”afr、またはアファル ”afarは「埃ほこり、埃色」であるので「埃色カモシカ」の方が適訳かもしれない。

埃色の中には「赤みがかった、褐色っぽい」色も含意されているのであろう。ヤアフールya”fuurには「ガゼル(一般語はghazaal)、ガゼルの幼獣=khishf」の意味もあるが、カモシカが妥当しよう。状況的に、内容的に見て猟犬に挑戦するほどのガゼルはいないだろうし、ここではカモシカが妥当しよう。カモシカの描写がもう少し欲しいところ。

 

 

後半詩行:しかるに犬組み易しとみて 心臓近くの脇腹をえぐりたり

「脇腹」の原語は daffay<daffayni、この形は双数形であり、単数形はダッフdaff。「脇、側、横腹」である。一般語はジャンブjanbであるが、ダッフの方は、動物・家畜の「腹」を指して言われることが多い。カモシカの角の攻撃を避けるには横からの攻めが必要で、わき腹に嚙みつきえぐった。

「えぐりたり」の原語は jaaba。この語根はjawbahであり、「穴、窪み」であり、語根動詞√jaaba<jawabaは「穴をあける、横断する」である。カモシカの脇腹に一撃を加えた。その一撃は牙が横腹に穴をあけ切り裂いたのである。

 

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         第7詩行 

前半詩行:

   さらに獲物の鼻先を髭ある顎で噛みつきたり

                        dammu lihyai-hi bi-makhtami-hi

 

後半詩行:

  切り離された両端を結びつけるが如くに見ゆ

                              dammu-ka l-kasrayni b-l-sha”bi

 

   ***      ***      ***da

第7詩行の注釈:

さらに致命的な深手を負わすために、カモシカの頭または首を狙ったのだが、犬の顎は相手

の鼻口部の根元に食い込んだ。その深い食い込み方は、相手の鼻口部を切断しているようにも、顎が結び付けているようにも見えた。

 

前半詩行:さらに獲物の鼻先を髭ある顎で噛みつきたり

「鼻先」の原語はmakhtam。語根語はハタムkhatam「鼻口部、吻、嘴」であり、語根動詞√khatamaは「鼻口部を打つ、叩く、乗用動物などに口輪をつける」である。ラクダや牛などの鼻に付ける「鼻輪」のことはヒタームkhitaamと言っている。獲物を仕留めるとき、頭部・首部への攻撃が致命的となる。

「髭ある顎」の原語はlihyai< lihyaini 、双数形で単数はlihyah。「顎髭」の意味であり、直訳は「両の顎髭で噛みつきたり」となり、直訳すると奇態な内容となる。「顎髭」の部分で全体の「顎」を比喩化、換喩化して表示している。

「噛みつきたり」の原語はdammu<dammは「丸め込むこと」であるから。両顎の中に相手の鼻口部が全部入ってしまったことになる。

 

後半詩行:切り離された両端を結びつけるが如くに見ゆ

「切り離された」の原語 sha”bi <sha”b は「分離、分技」であり、ここではカモシカの鼻口部を指している。

「両端」kasrayni <kasraani。双数形で単数はkasr。「断片、壊されたもの、切断されたもの、切り離されたもの」。その双数形であるから、犬がカモシカの口先に顎を入れたので、一方の断片kasrが口先の方、他方の断片kasrが頭部に通ずる口元ということになる。

「結びつける」の原語damma<damm であり。前半詩行のdammと全く同一語であるが、「丸め込む」から「結ぶ、結び合わす」と意味が微妙に変わる。カモシカの長い鼻口部に犬の顎が入り込む。その顎によって切り離された二つの断片とも採れるし、反対に顎によって分離されていたものが結び合わされたようにも受け取れる。犬の噛みつきがそれほど横に深く鼻口部に入ったのである。

 

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         第8詩行 

前半詩行:

  カモシカうつ伏せにドーと倒れ、動き封じられたり

                   fa-ta”aayaa l-taysu hiyna kabaa

 

後半詩行:

  その頭哀れかな 後ろの方に仰(の)け反(ぞ)らされる

                           wa-danaa fuu-hu mina l-“ajbi

 

   ***      ***      ***

第8詩行の注釈:

優勢な犬に、頭部を噛みつかれたカモシカは立って抗してはいられず、倒されてしまう。そして動きを封じられ、頭を尻尾の方に仰け反らされる。原典では第9詩行。

 

前半詩行:カモシカうつ伏せにドーと倒れ、動き封じられたり

「カモシカ」の原語がここではtaysになっている。taysは普通は「子ヤギ」の意味として一般に用いられるが、韻律の関係で類語が選ばれたのであろう。

「うつ伏せにドーと倒れ」の原語 kabaa は「うつ伏せに倒れる、躓く、よろめく」である。頭部から背中にかけて犬が比重をかけたので、カモシカは倒れ、ひっくり返った。。

「動き封じられたり」の原語 ta”aayaa の意味は「実行できない、無能である、疲れさせる」

であり、自分の有利な態勢に持ち込もうとしても最早叶わぬ不能の状態。

 

後半詩行:その頭哀れかな 後ろの方に仰け反らされたり

「その頭」の原語はfuu-hu。fuuはfamm(口)の変化形で、後接語があると子音Mが消去され長母音化される・主格はfuu、属格はfii、対格はfaaとなる特殊名詞である。それ故直訳は「その口」となる。頭の中でも先端にある口であるが、こうした描写としては<頭>の方が相応しかろう。

「後ろの方」の原語 “ujbi<“ujb は「尾(dhanb,dhanab)の付け根」をいう。したがって上半詩行の表記と合わせる「その口は尾の根元の方へ」が直訳。

「仰け反らされたり」の原語はdanaaaであり、「近づく、近づける、接近する、させる」であり。「頭が尾・腰の方に近づく、近づけさせられる」、すなわち仰け反らさせられる。獲物にとっては、抵抗できない瀕死の状態である。

 

 

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         第9詩行 

前半詩行:

  犬仕留める動きいまだ止まず砂上で続く

                 zalla bi-l-wa”saa’i yunghidu-hu

 

後半詩行:

  噛みついたまま 相手の背骨に重心を落として

                           azaman min-hu “alaa l-salbi

 

   ***      ***      ***

第9詩行の注釈:

カモシカの自由を奪い、重心を落とし、今その命を奪う最後の仕留めに入る。幸い岩場では

なく砂地。息の根を止めるため喉元深く嚙みついたまま。原典では10詩行目。

 

前半詩行:犬仕留める動きいまだ止まず砂上で続く

「仕留める動き」の原語 yunghiduは、動詞anghadaの完了形で、「振り回す、引きずり回す、揺すり回す」の意味である。この語根動詞√naghadaは「振る、引きずる、揺する」でありその違いは派生動詞anghadaは二重目的語を採れる他動詞の意味になることである。

「砂上」の原語 wa”saa’ は「草が生える砂丘」である。「柔らかい砂地」のことはwa”sといい、それから派生している。挑戦してきたカモシカは岩場の茂みから出てきて、平地の砂上で犬と戦ったわけである。

 

後半詩行:噛みついたまま 相手の背骨に重心を落として

「噛みついたまま」の原語azaman<azam。これは動名詞形で、その動詞は原型動詞であり、√azima「噛む、噛みつく」である。一般には「噛む」の代表語は”addaがよく知られているが、より強度が激しい。 というのもこの動詞から派生した名詞に「犬歯」aazim、aazimahがある。語根義にも「犬歯で噛む」が含意していよう。それは牙が深く食い入っていることも想定される。「噛みつくもの」azuumは猛獣類がその典型で、定冠詞が付きal-azuumというと、その代表である「ライオン」の意味になる。「噛む回数・度数」の用語もあり、アズマazumahという。同時にアズマは「一度噛み」を表し、二度噛みは双数表現azumataani、三度以上の「複数の噛み」は複数形azmまたはizamという。

「背骨」の原語salbは「背骨、髄」の意味であり、同じ派生名詞にサリーブsaliibがあり、「十字架」の意味である。

 

 

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         第10詩行 

前半詩行:

   遂には仕留めるがその手際の見事なこと そは恰も

                        wa-ntahaa li-l-baahiyaati kamaa

 

後半詩行:

  狭い峡谷を大きな鷲 自在に縫い舞うが如くに

                              kasarat fatkhaa’u min lahabi

 

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第10詩行の注釈:

獲物の仕留め方。その手際の良さに感嘆。大きな鷲が峡谷を縫うように飛ぶ見事さに喩えて

いる。原典では第8詩行。

 

前半詩行:遂には仕留めるがその手際の見事なこと そは恰も

「遂には仕留める」の原語はntahaa <intahaa。一語「終わる」。wa-ntahaaで「そして終わる」。

「その手際の見事なこと」の原語baahiyaati<baahiyaatは複数形であり、単数はbaahiyah。 バーヒヤbaahiyahとは「手際の見事さ」であるから、その複数形は「様々な手際、手腕の見事さ、その数々」。ここでは狩り技術、狩りざまを言っているが、語源はバハーウ bahaa’ であり、抽象的な「優美、上品、華麗、立派」を表し、その派生名詞である。

 

後半詩行:狭い峡谷を大きな鷲 自在に縫い舞うが如くに

「狭い峡谷」の原語は注釈家ガッザーリーはlahbと読ませているが、辞書類では母音を異ならせてlihbと読ませている。「山の狭い道、狭い峡谷」の意味はlahbには無い。狭い崖っぷちでも縫うように飛奔する鷲。狭き峡谷も大きな鷲が自在に縫い舞う。

「鷲」の原語fatkhaa’u< fatkhaa’。普通「鷲」はウカーブ "uqaabという。fatkhaa’というのは鷲の属性の一つを言っている。ファタフfatakh「足、踝、翼羽の柔らかさ、柔軟さ」の比較形容詞アフタフaftakhの女性形がこのファトゥファーウfatkhaa’である。ここでは翼羽の柔軟性を言い、狭い峡谷でも大きな鷲が自在に飛べるのは、その属性を持つから、それは鷲」"uqaab(女性扱い)の特性とされている。したがって鷲は「翼羽しなやかな鷲」al-"uqaab al-fatkhaa’u とも形容される。

 

 

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          第11詩行 

前半詩行

   これぞ我が趣味なりしぞ まだ若かりし時の

                      tilka ladhdhaatii wa-kuntu fatan

 

後半詩行:

  趣味とてこれほどのものもあるまい、堪能するも十分な

                             lam aqul min ladhdhatin hasbii

 

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第11詩行の注釈:

最終詩行。犬でカモシカを獲る。狩りそのものが、繊細な詩人であっても、興趣そそる野外行であった。時に若気あふれる時は体力に任せて、猟犬を連れ、また鷹を手にして思う存分堪能できた。その喜びで終わる。

 

前半詩行:これぞ我が趣味なりしぞ まだ若かりし時の

「我が趣味」の原語ladhdhaatii、「趣味」ladhdhaatは複数形であり、単数形はladhdhah。「楽しみ、趣味、娯楽、快楽、甘美」の義で、抽象的でいて、個々にも勘定もできる「趣味」の訳がここではあっていよう。作者の狩猟の趣味に限っても、犬での狩り、鷹類での狩り、チーター(豹)での狩り、石弓(弓矢)での狩りなど多様で、同時に狩りの対象も羚羊類や鳥類であったりと多様である。今回で観たように狩りの場が困難を極めたであろう山登りや岩場でも、若さに任せて追い求め、詩に結晶させていった。

 

後半詩行:趣味とてこれほどのものもあるまい、堪能するも十分な

「堪能するも十分な」の原語はhasbii 。hasb自体は名詞で「(計算づくでも)満足、十分」の意味であるが、ここでのhasbiiの直訳は「私にとって十分!、満足!」であり、hasbは口語で言うkifaayah、感嘆詞、感嘆文を構成する。「お前にはこれで十分!」hasbu-ka haadhaaあるいはbi- hasbi-ka haadhaaと言うように。

 

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  1984年9月、ネゲブ砂漠のベドウィンとサルーキー。

画像が古く見分け難いがサルーキーは三頭いる、手前に白いサルーキーが横たわる。この所有者はこの辺りのシャイフ。服装も伝統に則っており、その誇りと気品が感じられた。現代の若者はわが国と同じく手軽な洋装である。テント生活もままならず、イスラエルの圧力で定住生活を余儀なくされ、今固定した家を建築中、世を嘆いておられた。サルーキーと戯れるのは、同行した我が妻。

1982年から86年までの5年間、海外調査はエジプトとイスラエルとで行った。イスラエル(パレスチナ)へはネゲブ砂漠とベドウィンの現状を調査する目的であった。飛行機で入国すれば、パスポートに別紙が張られるだけであった。イスラエルの存在を認めない他のアラブ・イスラム諸国に行くには、その別紙を取り去りさえすれば、不問である。

筆者は1982年、地域事情や生活ぶりを具に知りたいため、近い目線で、地方や彼らの日常を知るために、敢えてカイロからの陸路バスを選んでイスラエルに入った。ガザの国境検問所で、パスポートが一括して集められ全員にイスラエルの入国スタンプがパスポートの中へ押されてしまった。別に個人として入国手続きをしたいと頼んだが、聞いてはもらえなかった。それ故このパスポート期限が切れ、新たなのを入手できるまでの86年までは、他のアラブ諸国には入国できずにエジプトとイスラエル(パレスチナ)だけであった。アラブ諸国ではない他のイスラム諸国にはパキスタン、トルコ、キプロスには取材できたが。

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