ユウユウ鷹を連れ出す al-Yu‘yu‘ 

                                                    アラブ狩猟詩(5) 

    

キーワード:

アラブ狩猟詩 詩・ユウユウ鷹を連れ出す アブー・ヌワースAbuu Nuwaas作

ラジャズ調8詩行  al-Miimiyyah    ミーム脚韻詩

名鷹は血筋 鷹匠と鷹の関係  鷹匠の細心の注意と愛情  

鷹の調教、痩身と俊敏性を養う  鷹の飛行ぶり  鷹匠の指示への対応

    

 

 

 

作者の詩人アブー・ヌワースAbuu Nuwaas(810年没)には「ユウユウ鷹」al-Yu’yu’ と題する同一名の詩篇が二つある、いずれもアブー・ヌワース詩集Diiwaan Abii NuwaasのTard(狩猟)の部に収められている。前回訳出紹介した狩猟詩「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」も原題はユウユウ al-Yu‘yu‘とあり、今回の詩篇の表題も全く同一のal-Yu’yu’ とあるだけである。この点、詩集の編纂に当たったAhmad al-Ghazaaliiも何か付言があれば読者に供し得ようが、何の説明もない。一方の方がユウユウ鷹al-Yu’yu’ は654頁(前回のブログで紹介)、もう一方のal-Yu‘yu‘ の方が669頁(今回紹介するもの)の二篇である。

 

前回のブログに続いてユウユウ鷹al-Yu’yu’(チョウゲンボウの一種、小チョウゲンボウとされる)を主題にした一篇の狩猟詩。但し今回の内容には実猟の描写は無い。マトゥラウ(冒頭行)は狩り出の定型句で始まっているが、ユウユウ鷹を荒涼とした野外に連れ出し、鷹と鷹匠の親和関係、調教を行う叙景が扱われる。調教ならば早朝である必要はなく、また最末詩行のエンデングの形式も異なり、詩篇一篇を中途で終えた可能性も考えられる。あるいは前出の al-Yu‘yu‘ の自作を思い出しての結果か。

 

前回の「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」の一篇は8詩行からなり、今回の「ユウユウ鷹を連れ出す」も同じ8詩行からなる。詩の内容は狩りの劇的に描写される前回の方が変化もあって楽しめるが、今回は鷹の調教と、鷹匠との信愛関係が描かれていて、これはこれで興味深い。

 

詩形も同じラジャズ調、前回同様一詩行であるべきを、前後の半詩行に分ける。当然ながら両方に脚韻を置くことになり、前後半詩行の如く配している。それ故事実上は16詩行なのである。長詩同様な配列構成をとっており、したがって1詩行を前半詩行、後半詩行の構成として記してゆく。

 

内容はまず定型の早朝の狩り行を述べて、次にユウユウ-Yu‘yu‘ 鷹のことを叙す。如何に名鷹であるか、いかに鷹匠が細心の注意と愛情をもって鷹の調教に当たっているか、痩身と俊敏性を養うために、食の量を落とされ、寒さが身に染む。一旦放たれ時の鷹の飛行ぶり、鷹匠の指示への対応が述べられる。終末行の定型である鷹を人間に利用させてくれた神に感謝して終わる場面はない。

 

形式については、qaafiyah(脚韻形式)について述べると、脚韻子音rawiiは、前回の詩篇が子音/h/のハーイッヤ(al-Haa’iyyah)、すなわちハー脚韻詩であったのに対して、今回の詩篇は子音/m/のミーミッヤ(al-Miimiyyah)、すなわちミーム脚韻詩ということになる。そしてラウィーに前接する形が、前回の長母音、母音連続であったのに対して、今回のはラウィーに前節するのはすべて異なる/子音/となっている(例外は冒頭の前半詩行のみ)。一方ラウィーに後接するシラ(接尾辞)は/-i-hi/、すなわちラウィ含めると、/mi-hi/の脚韻形態となる。したがって全体の脚韻構成は/前接子音+mi-hi/で統一されている。

 

 

         Into the Desert Sky  by Lynn Maderich.

近年(2020年8月19日)物故した米国の女流画家Lynn Maderichの作品。 Lynn Maderich

は幼児より絵と馬が好きで、アラビア馬に異常なほど関心を持って作品化した。アラビア馬を保有するベドウィンの生活にも関心を惹かれ、現地には取材経験がないが、資料を収集して、また米国在住のアラブ出身者から民俗資料などを蒐集して、それをもとに多くの作品を残した。そのうちの一つが上に載せた Into the Desert Sky である。鷹匠がアラビア馬に乗り、手に据えた鷹を放ったばかりの瞬間をとらえている。鷹が羽ばたき、飛行体制を整える。サルーキーの動きも鷹の動きを追うものと、すでに飛んでゆく方角に走り出そうとしている。何よりも馬の描写は秀逸である。

鷹は左手に据えるもの、左手から放つもの。また鷹を据えていた手甲(マンカラ)は鷹を放つとき、物理的に言っても、上に向けるものではなく、というかそれは不可能であり、腕は水平に後ろから前に向けて放つ。鷹が飛ぶ方向に勢いをつけるのである。現実を見ていないための小さな欠陥が露呈している。

 

 

 

    詩 ユウユウ鷹を連れ出す al-Yu’yu’

======= ===== ======

第1詩行 (Matra“=冒頭詩行。「早朝狩り出する」の常套句で始まる。今回は夜明け前の

         全く闇の中での狩り出であった。後半詩行から手に据えたユウユウ鷹の描写

          に入ってゆく。yu’yu’と誰かが呼んだだけなのにその場の皆が奮い立つ) 

 

前半詩行:

  早朝狩り出する 夜の闇まだその幕のなかにあり

                          Qad ightadaa wa-l-laylu fii maktami-hi

 

後半詩行:

  隼髭も立派なユウユウ鷹を手に据えて かく呼ばれるだけでも意気揚々

                           Bi-yu’yu’in asfa”a yud”aa bi-smi-hi

 

   ***      ***      ***

第1詩行の注釈:

前半詩行:早朝狩り出する 夜の闇まだその幕のなかにあり

「早朝狩り出する」の原文Qad ightadaa は狩猟詩の冒頭の常套句。動物が活発に動き回る朝の時期が狩りの時期でもあるため、まだ暗いうちから出立する。「幕」の原語maktamは語根動詞√katama「隠す、隠蔽する、秘密にする」、の場所を表す接頭辞/ma-/が付された動名詞であって「隠すもの、隠れ場所。覆い」などの意となる。ここでは天地が真っ暗で、夜明けとともに明け行く天空もまだ闇に包まれたまま。

 

後半詩行:隼髭も立派なユウユウ鷹を手に据えて かく呼ばれるだけでも意気揚々

「隼髭」と訳した原語 asfa” は色の形容名詞「赤みががった黒、鷹、野牛」の意味である。この語の元の色彩名詞サファウsafa” は「頬にある黒っぽいしみ、ほくろ、斑点」であり、ここではタカのハヤブサ類が持つ「八の字形の髭」、いわゆる「ハヤブサ髭」を言っている。

「かく呼ばれるだけでも意気揚々」の原文 yud”aa bi-smi-hiの直訳は「彼の名が呼ばれる」である。「ユウユウyu’yu’」と声を出すだけで、他人が言っても、所有者が言っても、それ自体でその場を意気揚々とさせる威力がある。

 

======= ===== ======

第2詩行 (据える鷹の名鷹ぶり。父も母も血筋よく、またその兄弟・姉妹である鷹もおり、

          いずれも高貴さを湛えている。血筋だけ見れば類まれな鷹であり、それがお

          のずからおもてに顕われている)

 

前半詩行:

  高貴な鷹よ、父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ

                        Muqaabilun min khaali-hi wa-“ammi-hi

後半詩行:

  さればいかな血筋であれ彼ほどの例他にあるまい

                         Fa-ayyu “arqin saalihin lam yunmi-hi

 

   ***      ***      ***

第2詩行の注釈:

前半詩行:高貴な鷹よ、父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ

「高貴な鷹」の原語ムカービルMuqaabil とは、何ものにも対抗できる「対抗者、対峙者、高貴な者」の義。ここでは何ものにも対抗できる<血筋>のこと。タカ類が狩りに利用される場合、普通の狩猟鷹ならば、猟期の前に捕獲して、訓練して獲物を捕らせる。そして渡りの時期が終えると、飼育場から放ち自由にしてやる。しかし例外的に、狩猟の上手なもの、見栄えが良いものなどは、野に放たず鷹舎を立てそこで飼育する。一年を通して鷹舎で過ごす。美的鑑賞に当てると同時に、大物狙いなどの調教に当たる。また良い子孫を残すための繁殖もここで行われる。

「父方のまた母方の叔父から血を受け継ぐ」とは、こうして名鷹として鷹舎に保育されている他の雄や雌と番わせて、次世代の名鷹を作り出してゆく。そして当然なことながら、名高い鷹、血筋の良い鷹であっても、同族であると欠陥種が出来てしまうため、二世代に一度は血の繋がらない他の鷹匠が持つ名鷹とも交渉して、血筋がしっかりと維持された貴種を保つ。こうして姿形の立派さだけでなく、調教慣れして狩猟に長けた鷹を維持継承してゆく。

 

「叔父」であるが、ここではその字を当てたが、我が国では「おじ」として父方や母方に関係なく用いられている。が、中国では「叔父」は父母、いずれもの弟を指し。また「伯父」は父母いずれかの兄を指して用いられる。いっぽうアラブ社会では年齢差は関係なく、「父方おじ」をアンム “amm と言い、「母方おじ」をハールkhaalと明別している。鷹に対してもこの観念が反映されている。親族名称として考察の対象となれる事例である。ここでは鷹にもそれが当てはめられている点興味深い。

 

後半詩行:さればいかな血筋であれ彼ほどの例他にあるまい

「血筋」の原語 “irqin<“irqは「血管、動脈、静脈」を意味する。血筋というと抽象的であるが、もっと具体的な、まさに「血」の意味である。なおソコトラ島及びイエメン南部にのみ生育する竜血樹Gragon Blood Treeの樹液は赤い色を呈しているので、樹液はキリンケツ(麒麟血)として、アラビア名もイルク・ハムラ ”Irq al-Hamrah(赤い血)と呼ばれて、医薬品や染料として用いられている。

「彼ほどの例他にあるまい」の原文は lam yunmi-hi、直訳は「彼ほどの育てられ方はない」である。

 

 

======= ===== ======

第3詩行 (手に据えるユウユウ鷹は血筋よい名鷹。鷹匠誰しも一度は手にしたいと望む

          ほど。自分で仕込んで、己流に実猟に臨みたいと)

 

前半詩行:

  多くの猟師、かくなる名鷹なれば母子ともに歓迎しよう

                        Wa-qaanisin ahfaa bihi min ummi-hi

                             

後半詩行:

  例えまだ調教されずとも、実猟の経験なかろうとも

                        Law yastatii”u qaata-hu bi-lahmi-hi

 

   ***      ***      ***

第3詩行の注釈:

前半詩行:多くの猟師、かくなる名鷹なれば母子ともに歓迎しよう

「猟師」の原語qaanisin<qaanisは前回のブログ「ユウユウ鷹(小チョウゲンボウ) 鳥を狩る」の第4詩行の注釈で述べておいた。

「多くの猟師」の表現法は単数形を用いて複数表現する技法である。wa-qaanisinは/wa-/という接続詞と、名詞単数形(ここではqaanis) 、その非限定属格(ここではqaanisin)との組み合わせで、「多くの猟師」の複数表現となる。ちょうど英語でもここで言うhuntersという代わりにmany a hunterという表現があるのと同様である。

「歓迎しよう」の原語ahfaa は名詞「歓迎、歓待」のhafaawah及びhifaawahを語根とする派生動詞形である。

 

後半詩行:例えまだ調教されずとも、実猟の経験なかろうとも

「例えまだ調教されずとも」の原文はlaw yastatii”u qaata-hu であり、直訳すると「たとえ彼(=鷹匠)が彼(=鷹)の食料(の調整)が可能であったとしても」である。

「実猟の経験」bi-lahmi-hi の原句の直義は「彼(=鷹)の肉当ての調整でもって」。肉は生きた鳥(多くはウズラ類)を投げ与えて、捕らえさせて食べさせる。成長するにしたがってハト類、さらにカラス類を鷹舎内で投げ与えて獲らせる。実猟は長ずるにしたがって、野外で行い、鷹の足に経緒(へお、鷹が逃げないように足首に巻き付ける長紐)を装着させて捕食させる。様々な捕食体験をさせた後、いよいよ実猟に入るわけである。

 

 

======= ===== ======

第4詩行 (まだ調教中であり、一層肉を削ぎ痩身にせねばならず、また旺盛で食べ過ぎ

          る食欲もまだ十分には抑制が効いていない、主人の命令、掛け声にも即応で

           きなければ、調教を済ませたことにはならない)

 

前半詩行:

  未だなお肥肉落とし 食の欲求を減らす過程

                         Maa zaala fiiqdiihi-hi wa-nahmi-hi

 

後半詩行:

  その聡明さで人語もまだ その解し方なお一層の要

                           Yuuhii ilay-hi kalimaati “ilmi-hi

 

   ***      ***      ***

第4詩行の注釈:

前半詩行:未だなお肥肉落とし 食の欲求を減らす過程

「肥肉落とし」の原語taqdiihi<taqdiihは「痩せさせる。細らせる」qadddahaの動名詞形。競馬や狩猟獣は太っていては速度も機敏さも失われる。そのため、長ずるに従って調教によって瘦身の身体に仕上げる必要がある。この仕上げ方にもコツがあり、鷹匠の工夫どころである。

「食の欲求」の原語nahami<nahamは「過度の食欲、大食、暴食」で語根動詞√nahimaの動名詞形。

 

後半詩行:その聡明さで人語もまだ その解し方なお一層の要

「聡明さ」の原語 “ilmi<“ilmは「知識、学問」であるが、「彼の」が後接しているので、「鷹の知識、知恵」、すなわちや鷹匠から教わり、調教で学ぶ「知識経験」を会得する聡明さをいっている。

「人語」の原語はkalimaati <kalmaat。「語、言葉」の意味で、単数形はkalimah。鷹匠の言葉は主として鷹に掛ける言葉。もちろん「鷹言葉」、「鷹用語」として采配の身振り、餌箱を叩く音、猟友である犬との慣れ親しみ、なども理解せねばならない。

 

 

======= ===== ======

第5詩行 (鷹匠の気遣い。十分な食事も与えられず、痩身にさせられるため、鷹自身に

          は寒さが堪える。鷹匠はそれを弁えており、母が子を懐に入れて思いやるよ

          うにブルダ(外套)の長い袖の内側に入れてやる)

 

前半詩行: 

  露降りて寒気増す折りには己の袖に囲う

                   Yaqii-hu min bardi l-nidaa bi-kummi-hi

 

後半詩行:

  恰も母が子を思いて胸に抱く如くに

                    tawqiyata l-ummi ibna-haa fii dammi-hi

 

   ***      ***      ***

第5詩行の注釈:

前半詩行:露降りて寒気増す折りには己の袖に囲う

「露」の原語nidaa の語注については、前々回のブログ「犬、 狐を狩る」の第6詩行の語注で説明しておいた。

「袖」の原語kummi<kummは衣類の「袖、覆い」。「袖」が語根であり、その語根動詞√kamma<kamamaは袖の持つ縁語が散りばめられている。「物を隠す、器に蓋をする、人や動物、家畜に口枷をはめる」。すべて<袖>の縁語である。露降りて寒気増す折りには己の袖に囲ってやる。

「(己の袖に)囲う」の原語yaqii<waqaa<waqayaは「保つ、維持する、整える」の義。この語根を構成する3子音を見れば分かる如く、第1子音/w/、第3子音/y/が弱文字のため、命令形(本来ならば/iwqiy/<wqiy/においては、両方とも消去され、一子音一母音が残るだけで/qi/となる例として知られる。例えばqi nafsa-ka「自分自身を保て、気をつけろ」の如くに。

 

後半詩行:恰も母が子を思いて胸に抱く如くに

「思いて」の原語tawqiyata <tawqiyyahは前半詩行で語注したwaqaa「保つ、維持する、整える」の派生動詞tawaqqaa「(他を警戒して)守る」である。ここでは「母が子を守る」と同時に再帰の「母親自身も警戒して守る」の意味を持つ。

「胸」の原語dammi<dammの意味は「抱擁、胸に抱くこと」であり、この語に語尾をつけたダンマdammahという用語はアラビア語初心者でもご存じであろう。アラビア語では母音/u/を表す記号だが、その記号の形が抱擁した形であることから由来。

 

 

======= ===== ======

         an Algerian huntress with a falcon

画家オラース・ヴェルネ(Émile Jean-Horace Vernet, 1789- 1863)作と伝えられる。ヴェルネはフランスの画家で、戦争画、肖像画、動物画、アラブの情景を描いた作品で知られている。彼も異国情緒あふれるイスラム社会にあこがれるオリエンタリスト画家の一人であった。この作品はアルジェリアで1840年以前に描かれたものとされる。当時までは、まだアラブの君侯や上流社会では、男性に交じって女性でもこのような小鷹を用いて狩りにも同行していた。薄いベールを纏い、アラブ馬に女性用の乗り方で着座し、サルーキー犬を従え、そして手にチョウゲンボウのような小鷹を据えている。鷹には赤色のブルクア(眼套)がされている。右手ではなく左手で。また素手でなく手袋または手甲で鷹を据えるはず。素手で他かを据えれば、鉤爪でくいこまれ血だらけになってしまう。周辺描写はアラブ情緒たっぷりである。アラブ馬の特徴もよく捉えており、見事に描かれている。ルーブル博物館蔵。

 

======= ===== ======

 

第6詩行 (鷹匠と鷹との親密さ。鷹匠の思いやりに対して、鷹も素振りでそれに答える。

           鷹匠の行き届いた配慮は、鷹の息苦しさまで見分けて対処する)

 

前半詩行:

  心地良きかなと鼻で報せる 主人の匂いを嗅ぎ分けて

                       wa-maa yaludhdhu unfa-haa min shammi-hi

 

後半詩行:

  鷹息苦しくなると訴えるや 袖覆いから解放される

                           Yanaazilu l-makkaa’a “inda nahmi-hi

 

   ***      ***      ***

第6詩行の注釈:

前半詩行:心地良きかなと鼻で報せる 主人の匂いを嗅ぎ分けて

「心地良きかな」の原語maa yaludhdhu の直義は「何と甘きこと、心地良きこと!」。

yaludhdhuの同語根派生義で最も知られている語は「甘い、甘美な、素敵な」という形容詞ラジーズladhiidhであろう。わが国の「甘露、甘露」に相当しよう。

「鼻」の原語unufa<unufと言い、鷲鷹類では(鳥類全般にもいえるが)嘴の根元にあり、空気孔の部分は薄い膜で保護されている。眼を保護する「瞬膜」と同様、猛スピードで飛んだり、上昇・下降する時、水鳥ならば水中を泳ぐとき、この膜を閉じて空気や水の急な流入が体調に異常をきたさない様にする機能がある。これを「蝋膜」と言っている。そしてこの蝋膜への色の注視もまた品種の区別の指標となっている。アラブ世界ではシャーヒーン(ハヤブサ)類の蝋膜は黄色であるが、サクル(セーカーハヤブサ)類は青い色で目立つ。また蝋膜の色は裸出した脚の部分とも連動して同じ色になっている。

 

後半詩行:鷹息苦しくなると訴えるや 袖覆いから解放される

「鷹」の原語はここでは makkaa’aになっている。makkaa' は「鳥。小鳥」として前回のブログの第5詩行で出てきているが、その時は<獲物の対象>であったが、今回は獲物を<捕食する対象>になっている。

「息苦しくなる」nahmi <nahm「喘(あえ)ぐ、息苦しい」nahiimは「馬などの胸から聞こえてくる喘ぎ音」とされる。この変化形ナヒームnahiimが馬の鳴き声とされ、わが国の馬の鳴き声「ヒヒーン」に相当する。またガリバー旅行記に出て来るヤフー(原始人間)を支配下におく「馬の国」及びその言葉フウイヌムが出て来るが、どうやら/h・m・n/音は馬の擬音に関して 世界共通のようだ。

「解放される」の原語yanaazilu は「解放する」であり、主語は鷹匠となるが、前半詩行の流れから、鷹を主語にして受動態で訳出している。

 

 

 

======= ===== ======

第7詩行 (寒さは沁みるものの、一旦主人の手から解放されれば、自由になって誇りを

          取り戻す。飛行に移ればすぐに野性味が全開。。得意げに上ったり下りたり、 

           大地がどうであれ、すれすれに飛行したりと)

 

前半詩行:

  放たれれば自在なり 己の意志で(ほしいまま)に上に下にと飛ぶ

                           baalaghat aw yanzilu “inda hukmi-hi

 

後半詩行:

  荒涼たる大地なれども その端を縫うが如く(はし)(さき)伸ばして左右に飛び回る

                           yarkabu atraafa s-sawaa bi-khatmi-hi

 

   ***      ***      ***

第7詩行の注釈:

前半詩行:放たれれば自在なり 己の意志で恣に上に下にと飛ぶ

「放たれれば自在なり」の原語baalaghat < baalaghaは「努力する、全力を尽くす、誇張する」の意味。いままで拘束されていた状態なので、解放されるや、自由を得て思う存分羽を伸ばし、さまざまな飛行を試し、主人に誇示する。ここでは水平飛行であり、後続語が上下動になる。後接語 yanzilu は直義は「降下する、降りる、止まる」であるが、当然ながら上昇と下降がもまた飛行に含まれている。

「おのれの意志で」“inda hukmi-hi。hukmは意志よりも「知識・経験、知恵、叡智」など、より賢さが浮かび上がる語である。

 

後半詩行:荒涼たる大地 その端を縫う如く (はし)伸ばして飛び回る

「荒涼たる大地」の原語sawaa の意味は「枯渇、頑強」であるが、文脈的に大地の形状を言っており、ここでは「草木無く荒れて、起伏のある大地」。

「嘴先」の原語khatmi<khatm の意味は鳥獣類の頭部先端を言い、獣類ならば「鼻口、吻」を、鳥類ならば「嘴」を意味する。この部分が特に長い、獣類ならばサルーキー犬のような長く突き出た顎、吻を持つもの、鳥類ならば鷲鷹類のような湾曲して長く突き出たもの、これをkhatmから派生したアフタムakhtam「長く突き出た顎、吻を持つもの」、と言いあらわしている。

水平での左右の動き、上る下りるの上下動を終えて、嘴を伸ばして速度を上げ、でこぼこした大地をすれすれに、自在な動きを見せる。

 

======= ===== ======

第8詩行 (最終行。いったん飛び立てば、思う存分飛行したいのが本能。しかし鷹匠の静

          止にも従わねばならない。我慢して嫌々ながら差し出す手のマンカラ(手甲)の

          上に降りてこなければならない。鷹匠は鷹の匂いを嗅ぎ分けて、渇水状態で

          あるのを見極めて実猟に入る直前の「二度目の給水」を行う)

 

前半詩行:

  何と健気か 意に反しながらも手に止まる

                     wa-kam jamiilin hatta-hu bi-raghmi-hi

 

後半詩行:

  止まるを見れば渇きの匂いして二度目の水飲ます

                     wa-qad saqaa-hu “alalan min shammi-hi

 

   ***      ***      ***

第8詩行の注釈:

前半詩行:何と健気か 意に反しながらも手に止まる

「何と健気か」の原語 kam jamiilinの直義は「如何に美しいことか!」

「意に反しながらも」の原語 bi-raghmi-hiの直義は「彼の嫌い気をもって、彼の好まぬことを承知で」。raghmi<raghmは語根動詞√raghama「嫌う、好まぬ」の動名詞形である。

「意に反して、いやいやながら」という熟語はこのbi(with)という前置詞よりも"alaa(on)という前置詞を伴うことが多い。「彼の意に反して、嫌々ながら」との熟語は”alaa raghmi-hi

などと言う如くに。

 

後半詩行:止まるを見れば渇きの匂いして二度目の水飲ます

「二度目(の水飲ます)」の原語 “alalan <“alal の意味は「二度目を行う、飲む」であり、原形動詞√‟alla<‟alalaの意味は「もう一度行う、二度目を飲む、繰り返す」。飛行を思う存分、精力をかけて行った結果、水分を補う必要がある。それは鷹の吐く息の匂いで鷹匠が判断できる。

「二度目の給水」アラル“alal、この語はベドウィンにとっての遊牧生活の大事な用語となっている。家畜を放牧する時の給水用語で、アラル“alalは「二度目の給水」であり、最初の「一度目の給水」をナハルnahalと区別している。特に乾燥時や夏の猛暑日の放牧に出すときは、先ずナハルを済ませて置き、出かける直前にもう一度飲ませて、アラル(二度目の給水)を済ませてから放牧地に向かう。“alal ba”da nahal「(給水は)一度目の後二度目を忘れずに」というのが、出かけ間際の挨拶言葉であった。

 

 

======= ===== ======

       —— 了 —— 

 

     サクル(セーカーハヤブサ)を手に据える筆者。

UAEの最南端ラッス・ル・ハイマの砂漠の中にある鷹舎。当時の首長の弟が鷹匠で、この鷹舎を拠点として鷹の調教と鷹狩りをしている。夕方から夜間、この鷹舎には調教及び鷹狩りを終えた仲間が集まり、鷹や狩り、獲物などの新情報を交換したりしながら閑談する。筆者も聞き取りがてらお邪魔することが多かった。そうした折の一枚。

ブルクワ(頭巾)を脱がせて(筆者の右膝の手前の右端にある)、 マンカラ(手甲)を通して中指で端にある指入れ輪にさして安定させ鷹を手に据える。1994年3月撮影。