先ず、こちらをご覧になってなければ、読んで下さい
お詫び(大した内容ではありませんが)(^^;
さて、では再開はじめの記事はこちらにしたいと思います(^^♪
(顔文字機能がなくなったので、変換でやってます)(^_^;)
小山市の東にあります延喜式内社、高椅(たかはし)神社です
実はこちら、現在は栃木県に属しますが、江戸期以前は、下総国結城郷になります
ですから、本来の下野十一社ではないのですが、現栃木県にある延喜式内社として
テーマでは下野十一社に加えておきます(^_^;)
さて、神社ですが、参道の赤い灯篭が印象的な神社です(^^♪
参道横のトイレですが、いつの間にか改修されていて、真新しいウォシュレットタイプになってました(゚д゚)
(”ウォ”の変換、初めてで、中々できませんでした)(^_^;)
こちらは、参道にある巨木の欅たちも印象的です(^^♪
さて、こちら、立派な楼門ですが
つい先日ごろまで、ずっと工事中でネットに覆われていましたが、改修作業が終わったようで、やっと全容が見られる様になりました(^^♪
僕的には、ほぼ地元の神社ですが、今まで書かなかったのは、この事情の為です(^_^;)
楼門の解説ですが、結城城主「水野氏」の寄進とあるので、江戸期までは結城領に属していたと思われます
水野氏は、結城氏の転封後に結城を治めた殿様で、あの水野忠邦と同族の家系になります
余談ですが、忠邦の水野氏は江戸期初頭、結城郷の南、山川地区を治めていた時期があり
その関係で、忠邦を含む水野氏累代の墓が山川地区にあります
さて、楼門に戻りますが、改修されて、彫刻の色彩が鮮やかに蘇りました(^^♪
楼門の先、左手に神楽殿
赤灯篭の先に拝殿
この赤灯篭、木製かと思っていたら、金属製でした(゚Д゚)ノ
右手側
泡魂の碑
こちらは、料理の神様と言われる磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が御祭神になります
「社伝によると、景行天皇41年、日本武尊が東征の際に当地で国常立尊・天鏡尊・天萬尊を勧請し、戦勝を祈願したのが起源である。景行天皇が、日本武尊の東征の戦跡を巡視された際、膳臣であった磐鹿六雁命は老齢のため帝の許しを得てこの地に留まった。 天武天皇12年(西暦684年)、当地を支配した磐鹿六雁命の末裔高橋氏が高橋朝臣の姓を授けられ、その年、当社に祖神・磐鹿六雁命を合祀して高椅神社と称した。
長元2年(1029年)、境内に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たので、これを都に報告したところ、時の後一条天皇は誠に霊異なことであるとして「日本一社禁鯉宮」の勅額を授けた。以来、当社氏子は鯉を食べず、鯉の絵が描かれた器は使わず、5月にこいのぼりも立てない。このことから当社には鯉の明神の別名がある。」
(wikipediaより)
狛犬
年代物かと思ったら昭和製の物でした
拝殿奥の間は照明で明るくなっていました(^^♪
鯉の明神らしく、絵馬にも鯉のデザインがあります(^^♪
拝殿左手
神輿庫
境内社
本殿は飾り気はありませんが、中々立派な雰囲気です(^^♪
本殿裏手の石碑と境内社
大黒社かと思ったら「木○神社」(読めない(^^;)とあります
右手の境内社
こちらの祠は「日光神社」とあります
石碑
神楽殿、意外に新しいんですね(゚д゚)!
さて、鳥居と道を挟んだ南側には、千年の池があります
200mとありますが、実際は100m位でした(^^♪
こちらに、鯉が放流されています
「千年の池」とありますが、比較的新しい物の様で
神社創建千年を記念して、造られた物かも知れません
池に向かう途中にあった石仏