普段から冗談や駄洒落が大好きだった私の母。2011年の大震災以降
ちょっと様相がおかしくなってきた。ペットを飼っていないのに
猫や犬の缶詰を買って来る、洗剤で肉を炒める、連日物損の事故を
起こす。一緒に買い物に出て、手づかみで鮭の切り身をカゴに
入れる・・・もう目を逸らせなくなってきた。齢79歳の2013年
病院にて認知症と診断、左脳が3割程度委縮している
私が小学校の時におばぁちゃんが寝たきりになった。おかぁちゃんが介護しながら、私はアシストとして汚れものを(当時は介護用品が充実していなかったので、さらしやふんどしに女性用のケア用品を敷き詰めて排尿を手当てしていた)処理したり洗濯したり、身体を拭く際に手足を固定したりそのまま学校に行っては「うんこ臭い」といじめられたのも、今となっては良い想い出
平成7年におばぁちゃんが土に還り、少し時間が出来たのもつかの間、おじいちゃんが介護状態になる。同じ様におかぁちゃんが介護し、私はアシストと、おかぁちゃんが買い物やら趣味の時間やらに出る間の見張り番と糞尿の処理。平成14年におじいちゃんも土に還る
そしてしばらくしておとうちゃんが脳梗塞で倒れる。二人で在宅介護しながらも、おかぁちゃんがパニック障害と鬱、メニエールを発症して、その都度二人分の介護となる。おとうちゃんの食事を用意しながら、横で寝ているおかぁちゃんが吐瀉するのをバケツを持ってきて拭き処理する。ある時、血だらけのおとうちゃんの脇で泣きじゃくるおかぁちゃん。「もうだめだ、こ〇してくれ」そう懇願された。台所から包丁を持ち出し、足元に突き立てる。「今すぐ楽になるなら、遠く離れた海外に居る姉が全部の業を背負い込み、僕らはあの世で凄まじく恨まれる事になるが、いいのか?」おかぁちゃんは首を横に振る。心筋梗塞と脳梗塞が再発し、最期は急性心筋梗塞で平成21年、おとうちゃんが土に還った
おとうちゃんを見送った日に、私はなんとなく「これ、もしかしたらおかぁちゃんも介護で見送る事になるんじゃなかろうか」と、半ば自分の人生を諦観していた。予感は当たった。前の僕は一体、どんな事をしでかしてこんな有様になってるのか、しばしば自分の前世を鑑みた
2013年に診断が下った日「車の運転は止めて下さい」と言われた
断腸の思いでキーを取り上げ、それからしばらくは用事もないのに
ただおかぁちゃんを助手席に乗せ、ドライブスルーや神社・お寺
回りに連れ出した。小学6年からの書き取りドリルを買って自宅で
おかぁちゃんにやってもらい、そこから小学3年、ようちえんと
ランクを下げ、そして字を書けなくなり、鉛筆をかじるようになり
鉛筆を私に投げつけるに至る
部屋の鏡を延々と血が出るまで殴りつけたりカーテンを引きちぎったり
深夜の3時ぐらいに眠っている私を靴で殴って「わたしは家に帰る」
と言ったり。もうこんなものだろうと完全に諦めて一緒に早朝になるまで
外を徘徊し、職質を受けた事も有ったっけ
ボヤ2回・水道を詰まらせる・トイレを壊して汚物で一階が水浸しになる
家族のアルバムや私が描いた絵や通信簿、賞状を貰った作品一切もいつの
まにか、捨てられてた。様々な場所で糞便をするようになり、冷蔵庫に
丸まった便があったり、漆喰の壁に便を塗りたくったり
一日2時間程度しか眠らないので、横に寝かしつけて、眠ったのを確認
して仮眠を取ろうとしたら動体センサーがけたたましく鳴り、モニタを
確認したらベッドの上に立ち上がっていた、なんてホラーな出来事も
奇声を上げで口汚い言葉で罵られる、殴る蹴る、着替えの時に頭を
齧られる、噛みつかれる、目を突かれる・・・ 僕の腕には、夏場でも
長シャツを着なければならない程度には、痣や傷が付いていた
バドミントンのマスターズで地区入賞するぐらいには腕っぷしも体力も
あったのが、思わぬ方向で十二分に発揮された
でも、不思議と全く腹は立たず、むしろ「自分が愛情を持って育てた
息子にこんな仕打ちを無自覚に与えなければならないなんて、どんな
業を過去世に背負ったのか、その晩節がとても哀れでならない」
そういった憐憫の念が強くなった
或る日、排便のアシストで横になったおかぁちゃんのおなかをさすって
いた時、「あぁ、私は50年以上前にここで愛情と感謝をいっぱい貰って
この経験を積む機会を得ている」事を心がクリアに理解して号泣、それ
以降、すべてのお手当が、すべての時間が、すべての過去の出来事すら
とてつもない財産に変わってゆくのを感じる
仙骨の上に出来た10㎝の褥瘡を毎日うっすらと血が出るまで洗浄して
フィブラストスプレーを噴霧し、バルーンを挿入して排尿パックを
取り付け、アイソカル・MTCゼリーをあげて拘縮した身体を拭く
髪の毛を調えて剃毛し、爪を調えて、櫛を入れて、ちょっとお化粧も
したっけね
その日常の触れ合いどれもが煌めく宝石のような想い出として
私に還元される
令和4年7月20日、下顎呼吸を認めもう当日の話になると理解し
お手伝いのケアマネも「旅立たれたら、電話して下さい」と一言
それから半日ほど二人きり、ありったけの感謝を捧げて「出来れば僕も
一緒に連れてって欲しい」と懇願したものの、最期に「あ(恐らく
ありがとうと言ってくれていた)・・・」と声を漏らし召される
ケアマネと診断の主治医が訪れ、スライド式に葬儀社を斡旋される
あれから4年、もう4年。おかぁちゃん、ありがとう
うんでくれて、あいしてくれて、一緒にいてくれて
遠い巡りを経て、またいつか、ぼくをうんでください
ぼくのゆりかごは、だいちのゆりかごに
かえっていきました
・食い千切ったおもちゃやピコハン
・召される直前まで食事や排便・尿量を記入した確認票
4列目(7月21日)から空白になっています
・召された後に取り出した採尿パックとバルーン。いつか私が
土に還る時、一緒の棺桶に入れてくれ、と友人に頼んでます
これらは、今でもぼくの、何物にも代えがたいたからもの


