94 微笑みをたたえた青年の顔はやはり仏に見えた | 群衆コラム

群衆コラム

耳目を惹きつけて止まない話題の数々。
僭越ながらお届けいたします。

Chisapaniというところは、

ヒマラヤの山々を一望できるビューポイントである。

山が見える、たったそれだけ。

ほかにはプールもエステもなにもない。

しかもここは山の中だから、1日は歩かないとたどり着けない。

歩くのがいやなら、へりかロバにでも乗らないとダメでしょうね。

そんな人は見なかったけれど。

やっとたどり着いても、霧がかかっていたらアウト。

ここを訪れる人にとって唯一の楽しみであろう

山の景色が見られるかどうかは、これまた山のご機嫌にかかっている。



そんな場所に地震の前には12軒もホテルがあった。

ここは街ではない。

村でもない。

おそらく人が来るから、徐々にホテルができたのだろう。

ホテルだけが集まる集落とでも言えばいいだろうか。

12軒のホテルは、地元の人の話によると

すべて地震で全壊した。

全部を見たわけではないが、

見たホテルはすべて廃墟と化していた。



ここにたどり着いたときには

崩れたホテルしか見つけられなかったので、

ああ今日は野宿だこの廃墟で、と濃い霧のなかで呆然とした。

そしたら霧の中から二人の欧米人が現れて、

この向こうにホテルがあると教えてくれた。

そこにしかないよ、とも言った。

1日山を登り続け、疲労と空腹で早く横になりたかった。

重い足取りでたどり着いた小屋のドアを開けると、

中からワハハハハと酔っぱらいの馬鹿笑いが聞こえてきた。

てっきりそこにホテルの受付(のようなもの)があると思っていたのに、

中はバーのようになっており、

皆ふつうにビールを飲み、談笑している。

ここは1日かけて歩いてこないとたどり着けない場所のはずなのに、

なんでビールがあるんだ、

なんでふつうに飲み食いしているんだ、と訳が分からない。

ちょうど西部劇で

胸の高さの観音開きの扉をばーんと開いて

酒場に入ったような格好で、

わたしは入り口でぼーっと立ったままだった。

どうしたらいいかわからなかった。

もう考える余力がない。



不審に思ったおっさんが「ホテルか」と声をかけてくれた。

地獄で仏に会った気持ちで「そうです」と言ったら、

「部屋はねえ、あっちへ行きな」と即断られてしまった。

せっかくつかんだ糸はぷつんと切れて、

再び地獄にまっさかさまである。

わたしは「ありがと」と力なく言って、霧の中に戻った。



せめて霧が晴れていたなら、

次のホテルはすぐに見つけられただろう。

しかしこのときは、八方霧に閉ざされて

何がどこにあるのかわからなかった。

崩れたホテルが霧の中で影のように立っていた。

とぼとぼと来た道を引き返すと、

今来たのと逆の方向に小さな小屋が見えた。

あの小屋で訊いてみようと近づくと、

入り口に「Hotel」と書かれた看板がある。

こんな小屋がホテル!? などと怪しむ余裕はなく、

小屋に入るなり「ハロー」と人を呼んだ。

出てきたのは人のよさそうな青年で、

さっき「あっちへ行きな」とわたしを追い払ったおっさんと比べるまでもなく、

こちらが仏にちがいないと瞬間的に思った。



「部屋はありますか」と訊いたら、彼は「ありますよ」と言った。

さらに「なにか食べるものはありますか」と訊いた。

青年は、なんでそんなこと訊くの? となかば笑ったような顔で

「もちろんありますよ」と言った。

こんなこと、ふつうホテルのチェックインで訊いたりはしない。

でもこのときは、訊かずにいられなかった。

もうくたくただった。

部屋があるときいて心底「よかった」と思った。

食べものがあって超ラッキーとも思った。



さて、部屋はどこにあったのかというと、

小屋から少し山の斜面を下ったところにいくつか別の小屋があった。

これが「部屋」だった。

ベニヤ板でつくったような小屋だったが、ベッドがふたつもついていた。

毛布もある。

申し分ない。



ここに泊まりますと言ってから、値段をきいた。

いくらでも泊まるつもりだったからどうでもよかったのだが、

いちおう訊いてみた。

青年は「500ルピー」と言った。

日本円に換算すると600円弱。

わが耳を疑った。

微笑みをたたえた青年の顔は、やはり仏に見えた。