つくられる人 | 群衆コラム

群衆コラム

耳目を惹きつけて止まない話題の数々。
僭越ながらお届けいたします。

よくないことは直すようにいうのが、当然と思っていた。

あまり言い過ぎると言われるほうも言うほうも

嫌になってしまうので、

がまんしてがまんして、

それでも言わなくてはならんと思ったときに、

言うようにしていた。

が、それは正しくなかったのではないか。

むしろ「困った人」を作り出してはいなかったか。



職場の後輩に、「声が小さい」ことについて

何度か小言を言ってきた。

比較的出ているときには褒めることもした。

いま、小言を言われた後輩たちはそこそこに声を出す。

そこそことはつまり、

20人いたら最低限20人に聞こえる声は

出せるようになったということである。

前はまるで独り言を言うかのように

人前で話していたから、これは進歩である。



でも、声を出すようになったのは、

おそらく小言を言われたからではない。

「安心感」だと思う。

職場に入ったころ、まわりは自分より上の人たちばかりで

萎縮していただろう。

数年が経ち、自分の下にも後輩が入り、

いままで人に言われて動いていたのが、

ときに人を引っぱらなければならなくなって、

それがきっかけでより職場になじんだというか、

できることの範囲が広がったのかもしれない。

それにつられるように、

人前でも声が出るようになった、と想像する。



「もっと大きい声で話しなさい」というのは、

「おまえ、声が小さい」と言っているのと同じである。

これを受け手がどう受け取るか。

それは、誰からどんなふうに言われるかによるけれど、

少なからず「ああ、わたしのことそんなふうに見てたのね」

と思うだろう。

落胆する。

パワーが下がる。

「直せというなら直しますよ、仕事ですから」

くらいには思うかもしれないが、

「おっしゃるとおり、がんばります!」とはならないだろう。

心を鬼にしていった言葉が心の中で反発を生む。

そして、本当に「声の小さい人」ができあがってしまう。



最近、声が出せるようになった後輩がいる。

まだまだ声は小さいけれど、

職場の朝礼で一番端っこにいる人にも

ちゃんと届く声で話せていた。

そのことを上司から褒められているところに

わたしが通りかかった。

「よく声が出てると思うでしょう」と水を向けられて、

「決して大きな声ではないけれど、ちゃんと相手に向かって

話しているからよく聞こえるんじゃないかな」と言った。

後輩は「そうですかあ~」とうれしそうだった。

それを見て、あ、と思った。

いま自分の言った言葉が

「声がちゃんと出せる人」を作ったかもしれない。

いま言った言葉なら「次もやるぞ」という気が芽生えるかもしれない。

後輩の表情は次につながっているように見えた。



困った人も、素晴らしい人も、作り出されるものと思う。

作るのはまわりにいる人である。

その中に自分がいる。

わざわざ自分で「困った人」をつくることはない。