お客様無効 | 群衆コラム

群衆コラム

耳目を惹きつけて止まない話題の数々。
僭越ながらお届けいたします。

「お客様」という言葉は、お客が自分でいう言葉ではない。



落語を聞きに、とあるホールに出かけた。

ラジオでは公演の直前まで宣伝が流れていたので、

さては閑古鳥ではないかと心配していたが、

来てみればなんのことはない。

ホールの入り口は長蛇の列で、トイレにも人が長々と並んでいた。

男性のほうはまだおとなしいものだったが、

こういうとき女性は大変だと思う。

女子トイレの行列は、

開演してもまだトイレに入れないんじゃないかと思うほど長く、

進んでいかなかった。

当日券もあったようだが、とにかくほとんど満員と言ってよい。

大盛況であった。



公演も大変よかった。

笑わせていただいた。

最前列に近いところにいたので、

ちょくちょく後ろを振り返って会場を見ていたが、いい雰囲気だった。

公演としては大成功だったと思う。



その公演の後である。

ホールを出ていく人がこれまた出口から長蛇の列を作った。

ホールからの出口はふたつ、一番奥の扉が開いている。

そこを目指して人がざわめきながら

観客席の間にある階段をゆっくりとのぼっていく。

が、出ていく人の数よりも列に加わる人の数が多かったようで、

最後尾はステージの近くにまで達していた。

収容人数のわりに出口が少ないな、と思った。

見た目はずいぶん近代的な建物だけれど、じつは古い建物だったのだろうか。

そんなことを考えていたが、他の人は解釈が違ったらしい。



公演の余韻にひたるざわめきをかき乱す怒りのこもった声だった。

「横もあけろ!」

もう定年を迎えたと思われる白髪の男性が、係の人に声をあげた。

係の人の後ろにはホール横の扉があった。

係の人はぎょっとしたことだろう。

近くにいただけのわたしでさえぎょっとした。



白髪の男性は執拗に「あけろ!」と言い続けた。

係の人は安全上の理由でとかなんとか理由を説明した。

声は弱々しかったが、開けるつもりはないらしいとわかった。

男性は収まらない。

「応用が利かない!」

「こんなに並ばせて!」

「お客様に対する扱いじゃない!」

文句がボンボンと係の人に投げつけられる。

男性の隣りには同行の人と思われる同年代の女性が二人いて、

「本当にそうよねえ」などと言いあっている。



とうとう係の人は扉から出ていってしまった。

うん、それがいい、逃げるが勝ちと思いながら見ているとすぐ扉が開いて、

「ちょっと聞いてきます」と係の人が言った。

たまらなくなっていなくなったわけではなかった。



係の人がいなくなっても、白髪男性の勢いは止まらない。

まわりの人に構うことなく言いたいことを言い続けた。

こんなにお客が並んでいるのだから、開けるのが当然であると。

男性は、観客を代表していいことをしていると思っていたのかもしれない。

しかし、文句を聞かされるほうはたまったものではない。

怒っている人の声は、たとえそれが自分に向けられたものでなくても、

穏やかならざる気持ちにさせられる。

もはや落語の余韻はどこかへ行ってしまった。



この振る舞いにたまりかねた人がいた。

突然「おっさん、だまれ」と若い男の声が無機質に響いて、悪態が止まった。

ここから二人の男性による言い合いがはじまるかと思いきや、

係の人が戻ってきて横の扉を開けたため、ひどいことにはならなかった。



白髪の男性がしたことにも、若い男性したことにも、正当性があったと思う。

でも、やり方がまずかった。

若い男性は腹を立てていたと思うが、「おっさんだまれ」はないだろう。

だがそれよりも、白髪の男性が自分のことを「お客様」と言ったことが、嫌だった。

どんなに正しいことを言ったとしても、それを言っちゃあおしまいよ。

ホールの人たちだって、お客様のためにといろいろと考えてくれていたはずだけれど、

自分のことを「お客様」という人を快くもてなすのは難しいだろう。



偉い人が「わしを誰だと思っている!」と凄んだら、偉さが消し飛ぶ。

ただの小さな人間になる。

「お客様」なんて、自分で言うことじゃない。

まして、要求を通すために使う言葉ではない。

もてなしてくれる人がいてはじめてそう呼んでもらえるのを、

立場が上と勘違いしてはいけない。



と言えなかったので、しかたなし、この場で書いている。

タイ旅行シリーズ その3