今日は4月13日。
去年の今日、下の娘は入学式の翌日。
初めての小学校。

黄色い帽子を被り
小さな体はランドセルに埋もれてるみたいに見えた。

4月に出来たばかりの学校。
姉妹は並んで登校していった。

初日だから私は外に出て見送った。
日常は日常で
当たり前に続くと思っていた。

2016年4月14日 21時。
私は娘たちに
「9時だから二階に寝に上がりなさいよ」と言った。
「お母さんは今から本局(郵便局)に納品に行くからね」と。

はーい、と娘たちは二階に寝に上がる。

私はオーダーいただいたペンダントトップをもって、
熊本北郵便局(24時間やってる本局)に向かうため、車に乗り込んだ。

郵便局から帰ってくるのは多分30分後。
家に有るものがそのままの状態であるのが当たり前と思っていた。

自宅を出たのは、たぶん、21時20分ぐらい。
平和な時間はあと6分しかないとは
思いもしなかった。

21時26分。
私は北バイパスを右折し
楠の一車線の道に入ったカーブの辺りで
急にハンドルが効かなくなった。

「え?なに?」
意味がわからなかった。
タイヤがパンクしたのか?と思った。

一車線の道なのに
前を走っていた車が
ハザード出して止まった。

私は地震とわからず
「私はハンドルが効かないのに止まるなよ!事故るやん!」
と思った。

鞄の中のスマホがなにやら聞きなれない警報音を出してたが
運転していたからさわらなかった。

とりあえず車を止めたいな
一車線だから、止めれないな
と思っていたら

他の車も道を塞ぐような形でハザード出して止まっていた。

やっと気づいた。
スマホが「地震です!地震です!」と言ってるな、と。
パンクしたわけじゃなかったのか、と。

私は逆車線にあるコインランドリーの駐車場に車をいれて
道を引き返した。

なんかよくわからんけど
家に戻った方がいいなと。

まだ気づいてなかった。
そんなに大きな地震とは・・

北バイパスに戻るところで
比較的長い赤信号に引っ掛かり
私は待ち時間に鞄からスマホを出してみた。

【震度7】の表示が目に飛び込んだ。
心臓が飛び出しそうになった。

信号が青になったから北バイパスを突っ走った。
スマホのラインが鳴り響いてる。
メール受信音も鳴り響いてる。
電話もなっていた。

悪いけど、そんなの触ってる場合じゃなかった。
【娘たちを自宅に残してる】

北バイパスにも車はたくさんハザード出して止まっていたし
家から飛び出してきてる人たちも見た。

私は止まってる場合じゃない!
左車線にハザード車がいるから
右車線を突っ走った。
生きた心地がしなかった。

自宅が見えた。
家の前にパジャマのままの娘たちがいて泣きじゃくっていた。
向かいのご一家も外に出ていて
娘たちを抱き締めて下さっていた。

「すいませんでした!!」と向かいの家の方に謝り
娘たちを抱き締める。

「お母さんの大切な石が落ちて割れてるよ~」と娘は泣いた。

子供らを抱き抱えながら家にはいる。

セッションルームの棚が落ちてた。

台所の食器棚からも食器が落ちて床に散乱し割れていた。

片付ける暇もなく
またもやスマホが
「地震です!地震です!」と鳴り
地響きのゴー!と言う音と共に
めっためたに揺れる。

「机のしたに潜りなさい!」
私も頭だけを机の下にいれた。

スマホがパンクするのでは?と言うぐらいに鳴り響いてる。
家の電話も鳴っている。

命を心配してくださってるのだろうから、と
とりあえず無事だと何とか返信したら
そこにまた質問系で返信が来る。

打つ暇もなく
ゴーっとまた揺れる。

怪我するものを片付ける暇もなく。
水を確保する暇もなく。

「無事です。しかし個々に状況説明をラリーでやり取りは無理です!
私は今、机の下に潜ってます
タイムラインなどに一括であげますから

また、落ち着いたら」
と言う文章をコピペして送信

なのに電話してくる人がいる(;_;)

拒否にしたら心配するだろう
だから、とったら
「お水とかある~?」とか言うから
「余震の合間にその水を確保したい!私は今、机の下です!
すいませんが切ります!」とぶちぎりしてしまった😅

電話、キャッチホン、電話
ライン
メール

スマホが破裂するかと思った。

気持ちはありがたいけど
今は安否報告どころじゃないから
邪魔しないで!

と思った。

今一度、伝えたい。

大きな災害の時は
リアルな状況を聞こうと連絡するのは
身内だけ、です。
遠方の、身内ではない方々は
48時間は静観してあげてほしいm(__)m

震災直後の余震が相次ぐなか
10年ぶりに久しぶり~とか電話してきたら、気持ちはありがたいけど、思わず殺意が芽生えてしまいます(笑)

東京で単身赴任してた旦那ともまだ連絡取れてなかった時に。

実親も、
「靴出しときや」とか
何回も電話してきたから
いい加減にして!と怒鳴り付けてしまった。

電話に出てる暇なんかないのです。
避難準備、水、割れたものの始末、
「だるまさんが転んだ」をしてるみたいに、やってる途中で余震が来て机に潜る。

一睡も出来ずに何度も大きな揺れを経て夜が明ける。

それが私の4/14【前震】でした。
翌日昼には断水になりました。

これらが【今までの経験で最悪の時間】だと思っていた。

いま振り返れば
序章でしかなかった(笑)

4/16 夜中の1時25分に
本当の地獄が訪れます(;_;)

前震の日の恐ろしさを100と表現するなら【本震】の破壊力、恐ろしさは10000だった。

そうとは知らずに
給水に二時間並んだり(後に本震で食器棚の下敷きになり全て床に散らばってしまうことになる)
乾パン貰ったり(後に本震で食器棚の下敷きになる)
食器棚の扉をガムテープで塞いで
余震で食器が飛び出してくるのをおさえたり(後に食器棚ごと飛ぶw)

懐中電灯の電池をセットし
机の上においたり(後に本震でぶっ飛んで行き、どこにあるかわからなくなる)

カップラーメンを買い込んだり
(後に停電&断水になるw)

そんなことに明け暮れました。

けど、前震があったから
命が助かりました。

1年過ぎて思う。
地震のあと、私、変わった。

包装だけが立派で
うちっかわが薄っぺらいものを
口先だけ、とか
良い顔をしてるだけ、みたいなのを
すっぱりと相手にしなくなった。

地震で視えるようになったもの、たくさんあったよね?
私だけじゃないよね・・?

逆に「ありがとう」では軽すぎるぐらいの人の暖かさも知った。
私だけじゃないよね・・?

地も揺れた。
私の脳みそもかき回された感じ。

あれから1年、か。

命があることに
日常があることに
本当に感謝です。

あの頃、助けてくださった方々
涙が出るようなお心こもったご支援を
くださった方々
本当にありがとうございますm(__)m

壊れたものを捨てる作業を終えて、疲れはてて避難所の体育館に戻るといつも「おかえりなさい、お腹すいてないですか?」と聞いてくれた京都から来てくださっていた方々
会いたいな~お元気ですか?

一ヶ月はんの体育館での寝泊まりを経て
大規模半壊の自宅ですが
暮らしてみます、と
避難所を退去手続きすると行ったとき
「いつかは・・決断しなくちゃならない時が来ますもんね」
と、背中を押してくださった係りのかた、ありがとう!

私は母子3人暮らしだったので
やっぱ怖かった。
「自宅に戻ってみてどうしてもダメならまたご相談くださいね。
必ずどうにかして場所を探しますから」とおっしゃってくださったm(__)m

退去手続きしたら
二度とスペースがなくなるな
内壁外壁、崩れたままで
玄関の柱が折れてジャッキアップしていた我が家。
耐震調査の人が来て
二回のベランダが玄関に向かって傾いてる、と。
次にもし大きいのが来たら
玄関のドアは開かなくなるかも
避難経路がなくなる可能性が高い
って、言われていたから
怖かったんだよね。

だから、そのお言葉が本当にありがたかったm(__)m

あれから1年。
たった1年?と思う。

私はいま
壁が普通にまっすぐな壁で
ドアは普通に開閉するドア
そんな家に住んでるんですよ❤️
ありがとう!
(みなし仮設のアパートは
壁もドアも正常でした。
しかしベランダの策が大きく外に傾いてて3月に修繕工事が入った。
若干の震災の爪痕は残っていた)

被災された全ての皆さまが
1日も早く
【安心】を取り戻されますように。

大きな被害を受けた益城のまち。
そして熊本の宝物である
熊本城、阿蘇大橋、阿蘇神社・・
瓦の1枚にもならんかもですが
微力ながら私は今後も
売上の一部を義援金箱にいれていきますからね❤️

あれから、地球が一周したそうです。
私は、本震があったあの時間を
荒立神社でおこもりし
熊本の復興を神様にお願いしますからねm(__)m