ONE OK ROCK Ambitions 博多 4/29 | とらんぬのブログ

とらんぬのブログ

肉を食え!!たまにエモ!人生はロックと快便!

*初めにいっておくと、ほとんどライブの感想になってません。曲順とかもないです。

自分の感覚の日記です。

 

あれほど狂うほどに熱狂していたワンオクに対し、

ものすごく冷静になってしまっている。

この数年間、ここがこうなればきっとさらに上に行くんだろう、と

ワンオクの素材の素晴らしさを楽しんできた部分がある。

しかし35以降、彼らの音の持つ意志と位置は完全に完成の領域に達していた。

他者の思いが音の中にすべり込める余地がもはやない。

彼らは、理想に向かって邁進する、等身大の男性であるにもかかわらず、あまりにも高い。

その高さをライブで実感して見えないほど高い位置にいる彼らの精神を見るたびに、

低い位置にいるはずなのにめまいがするのだ。

ライブ後の圧倒的な全能感を感じた後に自分自身の現実に向き合い、

若者であればあの全能感はワンオク自身のものである事実を無視して猛進できるところを

もはやどろどろに疲れ果てた社会人の精神は事実を一瞬で自覚してしまい、

現実の空しさにうちのめされたまま立ち上がれない。

ここ最近のワンオクのライブの後の何とも言えない感覚、それでもやはり彼らを目撃して

圧倒的な何かを全身で感じなければならない、と今回もチケットを取った。

札幌も行ったのだが、正面側から見ることのできた博多で感じたことを日記を残す。

 

毎回「ワンオクまじ神!TAKAまじ神!」という話ばかりしているが、本当に神の領域だった。

スタートした瞬間、闇の奥より登場する彼らの神々しさに思わず手を合わせてしまう。

天賦の才能のうちでも最も強いものを持っているばかりか、

そこから更に上昇するために完全に想像の向こう側っで努力を続ける現代の勇者。

古より誰も抜くことのできなかった、天の使いが岩に突き刺した伝説の剣を抜く勇者。

TAKAのイメージはもはやRPGゲームの主人公並みに非現実感を増している。

ただライブをしに来たのではなく、ここにいる1万人以上を相手にしに来た、

そして始まった瞬間に、自分の勝利を確信したから、お前らは我々にひれ伏せ、と。

ほぼ豆粒サイズにしか見えないTAKAの姿であるにもかかわらず、

得体のしれない何か強烈な力を帯びた何かを全身にまとっているのだ。

その目で人を操ることもできるし、その声で人を救い出すこともできる。

明らかに神だった。

そしてTAKA自身、自分が神として崇められていることも知っているし、

自分が神であることを絶対的に信じている。

ワンオクのライブにいつも来るたびに感じるのは、

彼らは観客を勇気づけるためにライブをしているのではなく、

自分たちを更に高め、それがどこに達しているのかを全力で表現し、確かめるためで、

観客が満たされているのは副次的な効果である、ということだが、

いまやその副次的効果も完全に理解している。

自分たちには圧倒的なエネルギーがある、他者をも動かすエネルギーがある、と。

 

これだ。彼らが圧倒的に高い位置にいる理由は、自分を信じる力の巨大さなのだ。

大人になると失ってしまう、自分を信じる力を成長させ続けた結果としての最上級がこれなのだ。

音ひとつを出すにも惑いがない。その音が自分たちの信じたすべてだと知っている。

観客は、その一切の妥協のなさから生み出された彼らの正しさに圧倒されるのだ。

圧倒的な正しさを自由に操りながら、軽やかに音を奏で、その音に合わせて神は踊る。

目の前で繰り広げられている世界がこの世のものではなければどれほど良いことか、とすら思う。

その何とも言えない一般人の空しさを飲み込むほどに、

透明感と暗黒、熱狂と冷静、本能と技巧を織り交ざったライブ空間は異次元かつ清らかで、

彼らの指示するとおりにコーラスをし、頭を振り、脳内が異様な興奮に満たされていくのだ。

 

ライブ終了後、若いファンはワンオクのライブから得たものを明日へのエネルギーとして

生かすことができるんだろうなあ、と、ライブ終了後の現実を思い出しながら、

自分の生きてきた年月を思うのだ。

果たして自分は活きてきたのだろうか、生きていただけなのだろうか、と。

おそらく自分がかつてニューヨークのワンオクライブで感じた圧倒的な絶望感、

そこから自分が成長しようともがくも、いまだに成長ができていないんだろうなあ、と。

間違いなくすばらしいライブだったが、果たして自分はこの高揚のエネルギーを

活きていくための力に変えることができるのだろうか、と、真面目に考えてしまうのだった。

人生を見つめ直させる力を持っている時点で、やはりワンオクは神なのだろうな。マジで。