よろこびの書 変わりゆく世界のなかで幸せに生きるということ ‥ 1 | inca rose*のブログ

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◆苦しみと逆境 ー困難を乗り切る

苦しみや逆境のときでも、喜びを経験できるようにするにはどうすればいいのかという私の質問に答えて、ダライ・ラマは、「“逆境は好機になりうる”というチベットの言い伝えがあります」と応じた。「悲劇的状況ですら好機になりうるのです。幸福のありがたさをクローズアップさせるのは、実は痛ましい経験であるという別の言い伝えもあります。喜びのすばらしさを浮き彫りにするからです。大主教、あなたのように大きな困難を経験してきた世代全体にそれは言えることです」とダライ・ラマは話を大主教に振った。

「自由を獲得したとき、あなたは実際に喜びを感じました。その後生まれた新しい世代は、自由の本当の喜びを知らずに、不平ばかり言います」
「ヨーロッパでも」とダライ・ラマは続けた。「古い世代の人々は実際に大きな苦難を経験しました。それらのつらい経験によって彼らは鍛えられ、強くなったのです。これはチベットの言い伝えが正しいことを示しています。苦しみは、喜びのありがたさを思い出させるものなのです」

「多くの人が苦しみを問題だと考えています」とダライ・ラマが言った。「苦しい経験は、実は、運命がその人に与えてくれたチャンスなのです。人は混乱や苦しみにもかかわらず、しっかりと冷静さを保っていることができます」
私はダライ・ラマが言っていることを理解したが、実際にどのようにして苦しみを受け入れ、苦しみの渦中でそれをチャンスとみなせばいいのだろう? いうは易く行なうは難し、である。セブンポイント・マインド・トレーニング(心の訓練の七つの要点)として知られるチベットの霊的な教えの中では、特別な注目に値する人間が三種類いるとされている。

当人の家族、先生、そして敵である。なぜ注目に値するかというと、一筋縄ではいかないからだ。彼らは三つの対象、三つの毒、三つの美徳のルーツです」とジンパは謎めいたことを言った。
「大半の苦しみの核にある執着、怒り、妄想という三毒を生み出すのは、以上の三種類の人間(三つの対象)との日々の相互作用です。
私たちは霊的な鍛錬を通して、家族や教師や敵との相互作用を、美徳の三つのルーツである無執着、思いやり、知恵を発達させる力に変容させることができます」

「多くのチベット人は」とダライ・ラマがまた語り出した。「中国の強制労働収容所で何年間も過ごし、拷問され、つらい労働を課せられました。それは真の人間性とも言うべき自分の内的強さを試す絶好のチャンスだったと何人かが語ってくれました。希望を失った人もいましたし、生き続け人もいました。誰が生き残るかに教育は関係がありませんでした。本当の違いを生み出したのは、最終的に、内的なスピリット、すなわち心の暖かさでした」

強制収容所で違いを生み出したのは、凄まじい決意と判断力だったと私は思っていたので、ダライ・ラマがスピリットの大切さを強調するのを聞いて、意外に思った。
「問題は、心の底から喜びたいと思っている人々や、世界が今より良い場所になるのを見たいと思っている人々を、どうやったら助けられるかということです。今の世界には、恐ろしい問題が山積しています。人々はさまざまな逆境の中で生きています。問題を目の当たりにし、大きな試練に直面しているときに、どうしてあなたは喜んでいられるのでしょう? この世界には、もっと良くなりたい、もっと楽しみたい、あなたのようになりたいと思っている人たちが真にたくさんいます。つまり、問題の渦中でどうやったら心の平静さを保つことができるかということです。あなたは大変な雄弁家です。けれども、読者は今、あなたがおっしゃったことを、自分たちが理解できる言語に翻訳してもらいたがっています」

待っていられないと言わんばかりに、大主教は話し出した。「私たちが言いたいのはこういうことです。利己的であるのをやめれば、すぐに人は喜びに満たされるようになり、驚かされるということです。もちろん多少は利己的である必要があります。なぜなら、私が従っている神は、“汝の隣人を愛しなさい”(聖書の一節)と言ったからです」

「汝自身を愛するように」とダライ・ラマが付け加え、聖書のフレーズを完成させた。
「いかにも」と大主教が言った。「自分自身を愛するように、他人を愛せと言っているのです」
「おっしゃるとおりです」とダライ・ラマが相槌を打った。

大主教は聖書の言葉を現代風にアレンジし、「あなたは自分にとって最善のことを欲するように、他者にとって最善のことを願わなければならない」と言い足した。
「いちいちごもっともです」とダライ・ラマが言った。
「人々はあなたを見て、素晴らしいグル、あるいは教師とみなします。ただの教師ではありません。教えの体現者として見ているのです。彼らはあなたと同じように何度挫折を繰り返しても、同じ冷静さと喜びを持ち続けたいと思っているのです」

「そのことに関しては議論する価値があると思います」とダライ・ラマが賛同した。
「もし、何の苦労もなく、いつもリラックスしていたら、不平を言うことがどんどん増えていきます。皮肉なことに、一見、楽で平穏無事に思えるときよりも、大きな逆境に直面しているときのほうが、より大きな喜びを経験できるんです」とダライ・ラマは言って笑った。

大主教も笑っている。喜びは、精神の力の不思議な錬金術のようだった。喜びに至る道は、悲しみの場合と同様、苦しみや逆境から遠ざけてはくれない。だが、苦しみや逆境を乗り越える力を与えてくれる。大主教が先に述べたように、ある程度の苦しみがなければ美しいものはやってこない。ダライ・ラマが自分の亡命生活をどのように好機とみなしたかを、ジンパが代わって話してくれた。
「難民になると真の人生に近づく、とダライ・ラマはよく言います」とジンパは言った。自分自身の経験からもそう言える、とジンパが思っているのは間違いなかった。「なぜなら、見栄を張る余裕がないからです。それゆえ、人は真実により近づきます」

「大主教」と私は言った。「ちょっとあなたにお伺いしたいんですが、抵抗にあってそれを乗り越えた後のほうが、実際により多くの喜びを感じる、とダライ・ラマは語っています」。大主教がびっくりした様子でダライ・ラマを見つめたので、私はそこで話を止めた。
「法王がおっしゃっていることを聞くと、私は実に謙虚な気持ちにさせられます」と大主教が言った。

「というのも、あなたが冷静で落ち着き払い、喜びに満ち溢れているという事実を、私はしょっちゅう人々に語ってきたからです。たぶん、私たちは“逆境にもかかわらず”と言ったと思います。ところが、あなたは“逆境ゆえに”と語っているように思えます。一歩、前進したわけです」。大主教はダライ・ラマの手を取り、軽く叩くと、愛情込めて撫で回した。
「あなたに対する私自身の個人的な賞賛の気持ちが強くなりました。ひねくれていると思われるかもしれませんが、中国がチベットに侵攻したことに感謝したいくらいです。なぜなら、あの出来事がなかったら、今のような接触の仕方はしていなかったと思うからです。今のような友情も育たなかったでしょう」

その後、歴史が招いた皮肉な結果に、大主教は笑い出した。「あなたはおそらくノーベル平和賞も、もらわなかったでしょう」。ダライ・ラマも今や、尊敬されている賞を茶化して笑っていた。まるで、私たちの苦しみや逆境から最終的に何が生まれるのか、なにが善でなにが悪なのか、私たちには決してわからないと言わんばかりに。

もちろん、ダライ・ラマは、中国の侵攻がもたらした何百万人もの苦しみを、平和賞や友情が正当化するとは言わなかった。けれども、大主教が述べたように、もし彼が回廊付きの王国から追放されなかったら、グローバルな霊的指導者には決してならなかっただろう。

私は、「さまざまな困難をくぐり抜ける」というダライ・ラマの言葉に強く惹かれた。私たちは、ともすれば苦しみに呑み込まれそうだとか苦しみは終わらないだろうと思いがちだ。けれども、苦しみもまた通り過ぎること、仏教徒が言うように、一過性のものであることに気づくことができれば、もっと楽に困難を乗り切ることができるだろう。また、困難から学ばなければならないことを評価し、困難に意味を見出すこともできよう。そうすれば、気高い気持ちを持って生まれ変わる道も開ける。苦しみの深さが喜びの高さを決めることもあるのだ。


◆謙虚さ ー私は控えめに見られるよう努めた

「謙虚さ(humility)」という言葉は、土や土壌を表すラテン語「humus」からきている。謙虚さは、文字どおり私たちを土に連れ戻すのだ。大主教が反アパルトヘイト闘争の最中に、ダーバンからヨハネスブルクまで飛行したときのこと。乗客の一人が本にサインを求めていますと客室乗務員が言った。彼は、「謙虚で控えめに見えるよう努めたが、内心、喜んでいた」ことを思い出した。しかし、彼女はその本を手渡し、彼がペンを取り出すのを見ると、「あなたはムゾレア司教ですよね?」と念を押したのだった。

プライドやエゴといったあまりにも人間的な性質から逃れられる者はいないが、真の傲慢さは不安から生じる。自分が他人よりも大きいと感じたいという欲求は、他人よりも小さいのではないかという、付きまとって離れない恐れから生まれる。ダライ・ラマはそのような不安を感じそうになると、いつも南京虫やその他の生き物を見て、それらの生き物が無垢で悪意を持たないゆえに私たちよりも優れていることを思い出す。

「私たちがすべて神の子供であることを認識すれば」と大主教が言った。「そして、平等で固有の価値を持っていることに気づけば、他の人よりも優れているとか劣っていると感じる必要はありません」。大主教は、「神のしくじりである者はいません」と断固主張する。私たちは特別ではないかもしれないが、かけがえのない存在である。神の計画によって私たちに課せられた役割(カルマ)を果たせるのは、自分しかいない。

「ときどき、私たちは臆病と謙虚さを混同します」と大主教は言う。「これは私たちに天賦の才能を与えてくださった神にとって好ましいことではありません。謙虚さとは、あなたの天賦の才能が神から贈られたものであるという認識です。認識することで、あなたはそれらの贈りものを安心して享受できます。謙虚な人は、他人の才能を祝福することができますが、だからと言って、自分の才能を否定したり、使うのを控えたりする必要はありません。神は私たちひとりひとりを独自の方法で使います。たとえ、あなたがなにかに秀でていなくても、あなたという存在を必要としている人たちがいるのです」













『よろこびの書     変わりゆく世界のなかで幸せに生きるということ』
著 . ダライ・ラマ. デズモンド・ツツ. ダグラス・エイブラムス

から抜粋。