「今、ここ」を一生懸命生きる・淡々と生きるのが人生 ‥ 2 | inca rose*のブログ

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◆白か黒かだけで、決められないこともある
• 一方に偏らない、“中道”のすすめ

戦後、急速に入ってきたのが、アメリカ的な見方、考え方です。端的にいえば、合理主義、個人主義です。日本は諸手をあげてそれを歓迎してきたかにも見えますが、じつはほんとうは日本には馴染まない、とわたしは思っています。

ものごとの白黒をはっきりつける。それが、合理主義、個人主義を基盤としたアメリカ的な見方、考え方の典型といってもいいでしょう。小学生の時代からディベートがカリキュラムに組み込まれ、相手を徹底的に言い負かす訓練をするのがアメリカの教育。多民族国家である同国では、あくまで自己主義を通すことが、生きるうえでの基本ということなのかもしれません。

宗教の影響もあるのでしょう。一神教であるキリスト教は他宗教を認めません。キリスト教が正しく、他宗教は間違っている。ここでも白か黒かがはっきりしているわけです。それが、現在も続いているイスラム国家との紛争の根っこにあることはいうまでもありません。

これに対して、白黒をはっきりつけないのが仏教です。仏教は白にも黒にも偏らない「中道」を説きます。お釈迦様にこんな言葉があります。
「比丘たちよ、わたしはそれら(愛欲快楽を求めることとみずからの肉体消耗を求めること)両極端を避けた中道を悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである」

お釈迦様は当初、苦行を積まれましたが、そこには悟りに至る道はないと気づかれ、苦行から離れた修行によって、仏陀(覚醒者)となられました。どちらか極端な一方に偏ってものごとを見ることを、仏教では厳に戒めているのです。

日本人に馴染んでいるのは、この仏教的な考え方でしょう。欧米からみれば、曖昧とも映るようですが、白黒をはっきりつけるのではなく、話し合いによって何とか双方が並び立つ落としどころを探る、というのが日本的なものごとの見方、考え方といえるのではないでしょうか。

惻隠の情、武士の情けという言葉もあるように、相手を完膚なきまでにたたきのめすのではなく、少しは認めていくのが伝統的な日本流です。ものごとは一方が100%正しく、他方が100%間違っているということはないはずです。自分を主張しながらも、相手の正当性にも想いを馳せる。そこに調和も生まれると思うのです。もちろん、弊害もあるでしょう。とくにビジネスの世界では、日本流はしばしば批判の対象になります。

「その件に関してましては、前向きに検討します」
「善処いたします」
こうした言い方は欧米のビジネスパーソンを苛立たせる。前向きというのは、やるということか、やらないということか、どちらなのだ? 善処とは「OK」か「NO」か?

確かに、ビジネスの場面では日本流に分はないかもしれません。それがビジネスを停滞させたり、誤解を生んだりすることはあるでしょう。技術論としては修正が必要でしょうし、事実、グローバル化が進む今、それはすでにおこなわれているのだと思います。
しかし、その一方で日本流も心の奥にとめておく。そこにこれからの時代を日本人として矜持を持って生きるヒントが隠されているという気がするのですが…。


◆孤独はいいけど、孤立はダメ
•  心と向き合う“孤独の時間”を持つ

人間関係の悩みとして、意外に多くの人が口にするのが「孤独である」ということです。独りぼっちというニュアンスが強いため、真っ先に寂しさということに思いが向かうからでしょう。
しかし、禅僧はじつは孤独を好みます。禅僧のいちばん理想とする生き方は、いわゆる隠遁生活なのです。自然のなかに小さな庵を結び、小鳥の声や川のせせらぎを聞き、光や風を感じる。一人座禅をし、本をひもとき、田畑で鍬、鋤をふるう。そんな暮らしがもっとも充実感のある究極の禅的生活です。

良寛さんも孤独を愛した禅僧でした。山中の五合庵という庵に暮らし、簡素のなかに生き、一人静かな時間をとても大切にしていたのです。しかし、周囲との接触を拒絶したわけではありません。子どもたちがやってくれば、一緒に手鞠をつき、せがまれれば鬼ごっこの鬼にもなる。どこまでも懐の深い自然体です。そこが孤立とは違います。周囲との接触を拒み、周囲からも相手にされないのが孤立でしょう。これはダメです。はっきり言って、寂しい生き方だと思うからです。

孤独は怖れるものではありません。常に大勢の人とかかわっている現代人は、むしろ、積極的に孤独を求めるべきだ、とわたしは思っています。禅の修行中には「夜坐」といって、眠る前に坐禅を組みます。一人静かに坐っている時間は孤独そのもの。それが、心を穏やかにもしてくれるのです。

みなさんも坐禅をすれば申し分なしなのですが、それができなくても、孤独になる方法は見つけられます。たとえば、禅寺の枯山水の庭の前に座って、しばらく静かな時間を過ごす。苔むした石や白砂を見つめていると、心からしがらみやわだかまりなど、余計なものが溶け出していって、スーッと気持ちが落ち着いてくるのを感じることができるでしょう。
それも、自分の心とだけ向き合う孤独な時間です。あるいは、沈みゆく夕日や月を眺めたりするひとときを持つのもいい。これなら、都会のマンションに暮らしていてもできます。ぜひ、それぞれが工夫をして、孤独になる時間を生活に取り入れてみてください。生活がにわかに、潤ったものになります。













『悩まない練習』
著 . 枡野 俊明

から抜粋。