小学生たちはとある遊びに興じているのだが、Aがやにわに関心を失ってしまい、思い出したように叫んだ。
「一抜けイチゴ!」
それを聞いたBが間髪を容れずに声を上げる。
「二抜けニンジン!」
Cは取り残されまいと慌てて「三抜けサンマ!」と言おうとするのだが、AとBがそれを許さない。Cの声をスパっと遮って声を合わせるのだ。
「三番最後まで抜けられない!!!」
彼らが遊びを通じて形成していたコミュニティにおいて、民主主義の原理を採用するならば、A・Bは多数派であるから少数派のCはこの決定に従わなければならない。つまり、Cは最後まで抜けてはならないという条件付きの不作為義務を負うのである。
ここでひとつ、哲学的な疑問が生じる。「最後」とは果たしていつのことなのだろうか?
コンテクストに照らし合わせてみると答えは実に簡単だ。「遊びをやめる順番の最後」もしくは、「遊びそのもののルール上の終了時」ということになる。しかし、実際に即してロジックを展開してみると答えはどうもそう単純ではないようだ。なぜならば、AとBが抜けた時点でCは既に「遊びをやめる順番の最後」を迎えているのであり、これを前提とした上でAとBが「最後まで抜けられない」と言っていることから考えて、「最後」が前者の意味を持つことは否定されてしまう。また、後者についても同様である。AとBが遊びから抜け、Cだけが遊びを行なっている状態において、A・BがCの一人遊びに口を挟むことは野暮とも言うべきであり、実質的にCが遊びの支配権を握っていることになるため、Cは自由にルールを設定できる。現に、Cは「自らが抜けることで遊びを終わらせる」というルールをその内心において設定し、怠りなく意思を明示することによって諸人に通知する主旨で、その終了を宣言しようとしている。この前提をもってして、なおAとBは「最後まで抜けられない」と言うのであり、したがって後者も「最後」の意味には相応しくないと考えられる。
では、「最後」とは一体いつなのか。人生の最期か、はたまたこの世の終わりを指しているのか。いずれにせよ、Cは未だに遊びを止めることが出来ておらず、そのルールに縛られている。AとBが遊びの抜け際に放った一言がCの人生から自由を奪ってしまった。
これが僕にかけられた呪いの全容である。