私は普段、CS放送を見ることが多いが、そこでも22日は猫に関連した番組が多かった。たとえば、TBSチャンネルは『猫弁』という猫好き弁護士が主人公のドラマを放送していたし、ムービープラスでは『山猫は眠らない』シリーズの一挙放送があった。ちなみに『山猫は眠らない』に猫は出てこないらしい……(私はどちらも番組表で確認しただけで、実際には見ていない)
いちばん気合が入っていたチャンネルが、アニマルプラネットだろう。「ねこ祭り!」と称して猫の番組を延々と放送していた。私もいくつかの番組を見た。
『かわいい!』という番組があった。これは数匹の子猫たちの生後すぐから数週間までの暮らしぶりに密着した番組で、出てくる子猫たちが、かわいい。ぶさいくな子猫でも、かわいい。とにかくかわいい。かわいい、かわいい、かわいい……
猫好きな人間の弱点に、猫を目の前にすると「かわいい」としか言えなくなってしまうというのがある。私も猫好きなのだ。
とにかく「かわいい」しかでてこない。あらゆる形容を「かわいい」で済ませてしまう。いや、済ませてしまうのではなく、その言葉しか頭に浮かんでこないのだ。重症になってくると「この子猫はぶさいくだけどかわいい」と表現するのではなく、「この子猫はぶさいくだからかわいい」と表現するようになってしまう。接続詞さえ歪めてしまう。
小説家の上林暁の作品に、『猫ぎらひ』や『野良猫』といった猫を扱った随筆がいくつかあって、最近それらを読む機会があった。「猫、この畜生が!」といった調子で、近所の猫たちの悪童ぶり傍若無人ぶり、そしてその猫たちに対する怒りや憎しみが見事に描かれていたと思う。そこにはなぜか、ほのかな愛くるしささえも見えた。
ある対象の信奉者よりも、それを嫌っている者の方が、対象をよく観察できる、色あざやかに(過剰になることもあるが)表現できる。そういうことが往々にしてある。対象に寄り添いすぎて客観視できないということが、信奉者の情けなさだ。
猫好きの小説家も多いが、そういった人たちが描く猫と猫の周辺は、さすがにうまい。しかし描写の精彩がより際立つのは、その日常を書いたときよりも、消息がわからなくなったり病気やケガに遭ったりするような危機的状況を書いたときではないか、とも思う。小説や随筆が悲劇性に親和しやすいということはあるだろう。それでも、平生の猫と寄り添いすぎているということが少なからず影響を与えているのではないか、とも思うのだ。
――……「消息がわからなくなったり病気やケガに遭ったりするような」?……「消息がわからなくなったり」?……――
「かわいい」という感想に終始しつつあった『かわいい!』のラストで、「かわいい」ではない、ちょっと妙な感覚に遭遇した。飲み込んだものが食道のところで少しばかりの塊として滞って(もしくはそのように感じられて)、水を飲んでも姿勢を工夫しても塊らしきものは動く気配がない。もはや自分ではどうにもできないそれを歯がゆく思い、やがて途方に暮れるとまではいかないが、わずかにぐったりとなってしまう。そういった感覚だった。
ラストで子猫たちのその後が語られた。新しい飼い主のもとで過ごしている猫、以前からの住み慣れた家で暮らしている猫……すると、その後について触れられない猫(たち)がいた。消息がわからない! 胸に塊がつかえた。
同じような胸のつかえを、以前にも感じたことがあった。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のミケや、映画『ロング・グッドバイ』でフィリップ・マーロウが飼っていた猫(原作には出てこないらしい)がいなくなったときだ。第60巻あたりで登場し、まもなくレギュラーの座を射止めたかと思ったら両津勘吉に怒鳴られて派出所を飛び出したミケや、マーロウがカレー印のキャットフードと偽って出した餌に腹を立てて姿を消した猫の消息を、私は知らない。
『ティファニーで朝食を』という作品はその点において健全だ。たしかに猫はいなくなる。だけど、見つかる。小説でも、映画でも。ホリー・ゴライトリーは、飼っていた「猫ちゃん」(名前は無い)を自らの手によって逃がす。しかし、猫を逃がしたことを後悔しだしたホリーは、映画では大雨が降る街角を、小説では雨のあがった街角を、「猫ちゃん」と叫びながらさがし回る。――猫は見つかる。
『コネコノキモチ』という映画がある。私は主演をつとめた遠藤舞さんのファンだったので、その映画を見た。『ティファニーで朝食を』と比べると、不器用で危なっかしいことばかりする子猫のような映画かもしれない。でも、そんな子猫ほど愛おしく思えて、その面影はいつまでも忘れられない。私にとって『コネコノキモチ』は忘れがたい映画だ。ここでも猫はいなくなるが、ちゃんと見つかる。健全だ。
遠藤舞演じる桜井遥は母と二人暮らしだった。二年前に父親を亡くしていた。母は夫の死を受け入れられずにいて、食事のときに三人分の料理を用意することをやめない。そんな母の姿を彼女は快く思っていなかった。ある日、遥は一匹の子猫と出会う。ミューという名前を付けた。母に飼いたいと相談するが反対される。部屋にミューをかくまい、遥は通っている専門学校へ向かった。帰ってくるとミューがいない。逃がしたのではないかと母に詰め寄る。
遥はミューをさがしに出る。一風変わった人物たちと出会いながら、彼女は街の中をさがし続ける。似ている猫がいるという話が飛び込んでくる。駆けつけると、猫が木に登って降りられずにいた。全く別の猫だった。それでも遥は猫を助けようとする。しかし、彼女は木に立てかけた脚立から転落してしまう。地面に倒れたままの遥は意識が遠のいていく。ちょうどその頃、ミューは母のもとにいた。警官に保護されたミューを、交番から連れて帰っていたのだった。
――薄曇りなかに月が見えていた。遥は橋に横たわっていた。目を覚まし立ち上がった彼女は、「お父さん」と呼ぶように声を発した。チンドン屋が橋のまんなかを通ってやってくる。チンドン屋は彼女にチラシを手渡した。夜公演『ミュー』と書いてある。遥は『ミュー』を見に行った。人間のかたちをしたミュー(アイドリング!!!6号の外岡えりかさんが演じていた)がいた。「お母さんが心配してるよ」ミューがいった――
目を覚ました。自分の部屋だった。傍らには母がいた。猫の姿をしたミューもいた。
ある朝、遥はバスに乗り遅れそうだと朝食を食べないままにいそいで玄関から駆けていく。そんな娘を見送りながら、母は朝食の支度を終えた。食卓には娘と母の朝食だけがあった。その食卓のそばにミューもいた。ハッピーエンドだ。
映画『ティファニーで朝食を』のラストもハッピーエンドだった。ホリーはずぶ濡れになりながら猫をさがす。ずぶ濡れの猫ちゃんを路地裏で見つける。抱きかかえる。作家のポールは、そんな彼女の姿を見守る。彼もまたずぶ濡れでいる。ホリーはポールのもとへ歩み寄る。二人は抱き合い口づけを交わす。猫ちゃんが二人に挟まれて、ちょっと押しつぶされそうになっている。そんな猫ちゃんにもホリーはキスをする。ハッピーエンドを迎える。しかし――
小説『ティファニーで朝食を』で猫を見つけたのは、物語の語り手である男性作家だった。あのとき街角で、小説のホリーは猫を見つけることができなかったのだ。
ホリーはブラジルへ行こうとしていた。ハイヤーに乗って飛行場を目指していた。飛行場まで語り手の男性作家にもついてきてもらった。その途上で車からいったん降りて、一緒に連れてきていた猫を逃がした。再びハイヤーに乗り込んだ。一ブロック進んだ。そして赤信号で止まった。彼女は堪らなくなった。降りてさがした。見つからなかった。男性作家は自分が必ず見つけるとホリーに約束した。
幾月かが経った。男性作家のもとに彼女から葉書が届いた。ブエノスアイレスにいるという。そして住むところを探しているという。住所が決まったら知らせる、と書いていた。住所が届いたら彼女に知らせたいことがあった。猫の消息だった。彼は約束を守ったのだった。それを知らせようにも、彼女の消息がそれきり途絶えた。
あの朝、遥の母は、遥が玄関を出たあとに、二人分のベーコンエッグを食卓に置いた。なぜ母は、彼女を見送ってなお、一人しか席に着かないであろう食卓に、それ置いたのか。もしかして――
CSで見かけた猫たちだけではなくて、派出所から飛び出したミケやカレー印が大好きな猫、それに小説のなかのホリーや桜井遥はどこでどうしているのだろう。急いて朝食を食べた時みたいに、やっぱり私は胸のあたりに何かを詰まらせている。
“「死んだか、精神病院に入れられたか。それもと結婚したか。あるいは身を固めて、この街のどこかに暮らしているかもしれないよ」”
トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』(村上春樹訳・新潮社)
※本当は2月22日に書き上げたかったものの到底果たせず、それならせめて2月中にでもと思っていたのですが、書こうとしていることが胸ではなくて頭につかえてしまって、なかなか筆を進めるというかキーボードを叩くことができませんでした。そうこうするうちに3月でした。