村上春樹が、河合隼雄さんに、「僕は夢をほとんど見ないんです」と言ったところ「小説家だから、当然のことですわ」と言われて、そして、何が当然なのか訊かないまま河合隼雄さんは亡くなってしまわれたことは本でも読みました。
でも最近たまたま見た、「アフリカの森の小道でワニに追いかけられて、ベッドから落ちた」ってのは相当な夢らしさのある夢ですよね!?小説書くことから遠ざかっている証かも。
私自身は、「予知夢」に頼ってます。情ではなくて理性の脳内整理整頓、と思っていて。
一昨日の夢に久しぶりにねむパパが来ました。
~ * ~ * ~
私としらべは、実家(今の家の前身)の二階をリフォームして住んでいる(実際にはリノベ画策するも果たせなかった)。
部屋はなんということもないけど、階段が段違いに洒落てる(実際には階段問題がネックでリノベ潰えた)
しらべはまだ子供で、私も含めた親主導で子供会みたいなグループ運営を行っている。一階の実家に知らない親子も含め大勢人が集まっている。
私とママ友は、しらべたちに有用な活動をさせたくて、それはスポーツなのかなんなのか分からないが何か能動的なことをさせたくて誘導しようとしている。
でも、親たちの思ったようには行動してくれなくて、子供たち俯き加減。
「あ~、そうか、ぬり絵がしたかったんだね。二人共」それはそれで良いじゃないとママ友の顔見て同意迫るも…あれっ、そう思えない?…
実は二階の私たちの部屋にずっと子供の会とは無関係なお客さんを待たせている。
昼過ぎまで寝ていた私は、今日が面談の予定日だと聞かされていなくてそれでなくても面倒で、何やかや階下で支度しながらグズグズして、子供会だって別にそこに居続ける必要はなかったのだけど。
あまりに段取り悪くて何の心構えも出来ぬまま時間ばかり経ってしまった感じ。
これ以上お客さんを待たせるわけに行かなくなって、お洒落な階段を私は登って行く。
新しい階段は外階段ではないが内階段とも言えない。実家の玄関の広い土間、その奥の壁際に新しい階段は取り付けられている。
白い素材で出来た奥行きのある段々がゆるやかに繋がっていて、段ごとに奥行きの長さが異なるのが珍しい。
金属の手摺りが、壁に一筆書きのように丸みを帯びてうねうねと取り付けられアクセントになっている。
でも、段々の幅が狭過ぎ。せっかく素敵なのだから幅を持たせれば安全なのに、と考える。段々の右手壁には手摺りがあるけど左側は切り落としたように何もないので、幅もないようでは眩暈でもしたら落ちかねない。
階段の途中で、二階の私たちの部屋の玄関先からねむパパの声がした。ねむパパが来てる!早く行かなくちゃ。
ねむパパは、私が待たせているお客さんを知っていて、
玄関先で、「ゴールデンウィークで混雑して一便遅くなって(早まってか?)時間が合わなかったんですよ」などと明るく話している。
ほんとにねむパパの声だ!ねむパパは話声がとても良くて電話で褒められたりした。
「ねむパパが来たんだ!GW楽しくなるわ、良かった!早く上に行こうよ、しらべ」
~ * ~ * ~
対話こそなかったけれどとても気分よくねむパパを思い出した夢だった。
だが二日後だったか、ねむパパとは似ても似つかぬ、無関係なイヤな事件が夢で知らされていたことにTVニュースで気づいた。
それは文字に起こさないわ。
私いつも思う。予知夢をちっとは有効活用しろよ、milafill!なんかに役立てられないのかいって。
村上RADIOの「Beautiful Dreamer」は和訳が(も)とても良いんですね。
夢路より
夢見るは、我が君
聴かずや我が調べを
なりわいの憂いは
跡もなく消えゆけば
夢路より帰り来よ