宇多田ヒカルが、作詞作曲の創作エピソードをふんだんに語った「EIGHT‐JAM」を見ました。

「デビュー当時と今とでは、誰のために書くかが違って来たかどうか?」を問われ、

誰かのために書いたことはないです。自分のために発散するように書く。それが他の方に分かって頂けるのは嬉しい。きっと、自分を突き詰めていくと、『地下の貯水?』かなにかで人間は皆繋がっていて通じるものがあるから(意訳)

きっと「地下水脈」と言いたかったのでしょうね。

 

村上春樹がいつも書いていた読者周知の「地下の繋がり」と同様のことを、

宇多田はご自分の言葉で語りました。

村上は、「2階建ての家に地下室がある。一階には家族や友人など人がいて、二階は自我の個室。地下室は全ての人と繋がる場だ」(意訳)と書いています。

 

宇多田は、「小説を読むことから始まった」と自身の内面との対峙(?)について話していたので、「読了した村上エッセイ」が、頭のどこかに残っていたのかも。

あるいは、クリエーターの道はどこか(それこそ地下回廊で)通じていて同じ心境に至ったのか。

 

「EIGHT‐JAM」スタジオでVTRを見ていた司会のEIGHT・村上、他のコメンテーター(「ツキヨミ」作詞家・いしわたり淳治も居ました)その誰もが感銘を受けたようです。

その誰もが、「村上春樹の言葉を思い出した。通底している」と言及しなかったのは何故でしょう?

「村上春樹さえ読まずに(好き嫌いは別として)創作のプロとして活躍出来る時代」が到来しているのかも。

村上春樹の創作活動は、総体として文学史上のある到達点に至ったというのが私見ですが。

それを凌駕するのではなく、スルーしてしまうのか?

それは、村上の成し遂げた仕事が世間から忘れられている査証でしょうか?

若い世代の文学離れが言われて久しいことを思い起こせば、さもありなん。ですか?

 

宇多田ヒカルが、藤圭子さん(宇多田のお母さま)の才能を受け継ぎ凌駕した、と思われる方も多いでしょう。

ここで、村上春樹がエッセイに書きラジオでも話した、

藤圭子さんとのエピソードを紹介したいと思います。

 

 

 

 

70年代初頭、藤圭子デビューのころ、村上春樹は新宿のレコード店でアルバイトしていた。藤圭子さんが夜遅くに一人でふらりとレコード店カウンターにやって来て、「私のレコード、売れてます?」って訊くんですって。

素直、率直!更にご自分の人気を把握しかねる戸惑いも感じます。

そのエピソードを聴くと必ず私が思い出すのは、「ベストテン」に出演した藤圭子さんの様子。

 

 

「もう慣れましたか?」と黒柳徹子に訊かれて、

「歌っているときライトの加減で横顔の口の周りの産毛が髭みたいに写るらしいんです。『剃ったら?』ってマネージャーから言われてT字剃刀買って自分で剃ったら、ほんとのヒゲみたいにバリバリってすごい音!したんです」って可笑しそうに。

顔剃りなんてしたことなかったんでしょうね。TV出演するのに無防備。

ざっくばらんで感じがいい、美貌の女の子でした。

 

唐突ですが、小澤征爾さんの人懐っこさと通底するものがそこにあったように思い返されます。

素直な自己開示と、自己顕示は違う。自己アピールの気持ちは分かるけど所詮顕示。

飾らず率直に自己を表現する。それが自己主張であり、私たちは、今その表現の基本に立ち返るべきではないかと考えたことでした。

 

 

私ね、Number_iには、その点でもとても期待していて、

そういう三人だと思うの。変わらないで欲しいです。