本作「街とその不確かな壁」は、1985年刊行の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と、1980年雑誌に掲載され刊行はしなかった、「街と、その不確かな壁」の二作を書き直したものだと作者は予め明かしている。

 

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の最終場面。

雪のたまりに飛びこむ’影’と引き返す’僕’。

1985年においてそれは「引き籠り」の予兆だった。村上が時代を嗅ぎ取る感覚は鋭い。しかも、村上自身、数年後にギリシャの人里離れたスぺッチェス島で蟄居生活に入ったという。あたかもを村上の執筆姿勢を見せるがごとき「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド終幕」ではあった。

その姿勢を私は批判し、「影を一人で帰らせ、僕が内向きに留まる弱腰で終わらせるべきではなかった」と拙blogに書いた。

漠然と本作はその改訂版なのかしらと思って読み始めた。

 

「街とその不確かな壁」には、「衰え」がある。

もしかすると、「僕の衰え」を書こうと企図されたものかも。

あるいは、「社会の衰え」を。

 

第1章の初めから私は推敲モードに。5行に一つ削りたい文章が来る。

村上春樹に提言出来る編集者は今やいないんじゃないかしら?

 

さて、村上作品「国境の南、太陽の西」の主人公ハジメは30代の既婚男性で、小学校時代の同級生(シマッタ!元高校同級生なんて書いてた)・島本さんと旅に出て川べりを散歩する。そして、「今が高校生で日曜にこんなふうに手を繋いで川べりを歩いているならどんなに良かったろう」と詠嘆する。

それを、作者は本作第1章で具体化してみせた。

17歳の僕は、一歳年下の「ノルウェイの森」の直子を思わせる女の子と、夏休みに冷たい川の中を遡って歩く

また、第2章では、45歳独身の私が30代の女性カフェ・オーナーと川べりの道でデートする。不倫ではなく。

それらのデートシーンは、だが、「国境の南、太陽の西」や「ノルウェイの森」を凌ぐに至らない。

 

第1章の直子を思わせる女の子こそ、「街」の存在を教えてくれた張本人で、その後、いなくなって消息が知れない。実在した高校同窓生へのオマージュだったりして。つまり「世界の終り」のアイディアの「出所開示」?

 

第2章でデートするようになる、ブルーベリー・マフィン(自作でないのが残念)を提供するカフェの女性は魅力に乏しい。ちょっとは色彩を持たせて頂きたかった。

 

そして、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終り」で抒情豊かに描写された一角獣は、本作ではみすぼらしい姿に。

無い無い尽くしである。

鋭いエッジも強い吸引力もなく、ゆるやか穏やかな語り口はそれこそ「衰え」でなくて何だろう?

 

衰えていくのは自然の習いと村上は言いたいのかも。

元図書館長の子易さんという衰えの渦中の人の方がむしろ活写されている。

まるで村上自身の立ち位置だと言わんばかりに。

 

子易さんはスカートを穿いてベレー帽を被った男性なので、現代のLGBTと関連づける読者も多いだろう。だが、帽子にスカートってスコットランドのキルト。むしろ古典的かも。事程左様に見方によって様変わり?

 

「世界の終りとハードボイルド・ワンダー」では社会に適合し難い資質の行き場所として、「引き籠り」(刊行当時まだそういう名付けはなかった)状態を表現した。

それが、「街とその不確かな壁」では、アスペルガーの少年」の社会に適合し難い資質として提示されている。

「イエローサブマリン柄のパーカー」を着ているその少年は、「世界の終り」の僕に取って代わって、図書館でユメヨミを行うアスペルガーの少年は、ユメヨミの場を得て精気を帯びる。

 

そこで私は、「小説家としての存在」と社会に適合し難い資質を同一視して良いのかどうかを考えた。同一線上にあるわけではないのではないか。

少年の立ち位置を見据えるにつけ、小説家こそ、社会のput on rightに尽力すべきではないかと思ったことだった。

 

「世界の終り」で図書館の少女は、僕の愛の象徴として清らかなイノセントを漂わせていたものだったが、ユメヨミを手伝う図書館の少女の様子は少し変化した。効率を歓迎する側面。私はがっかりさせられた。

 

 

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と、「街と、その不確かな壁」がなくても本作「街とその不確かな壁」は成立する。

前作をなぞっているだけに前二作読了の読者にとっては新味がない。

しかし、前二作との対比で見えて来るものもあるから、自立した作品ではなく前二作に寄りかかって立つ作品といえる。それについて予防線としての、著者あとがきか。

「世界の終り」は衰え、汚れたような。その自覚?

 

平明な文章で淀みなく初村上にも入り易いと思う。

文庫化まで待つ人以外、村上ファンならもう読んでいるでしょう。

 

ところで、子易さんの若くして亡くなった妻は「子易観理(コヤスミリ)」という名である。本作にはほぼ登場しない

この感想文の筆者はmilafillだが、20年前には、smila(スミラ)として掲示板「テニス観戦」及び「歯とその治療」(「街とその不確かな壁」と言葉の類似あり)カテゴリで長く書き込みを行っていた。

当時テニス選手にスミリという女性が現れ、スミラはスミリにシンパシーを感じた。それを知ってる誰かが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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