この項、舌足らずだったので何度も書き直しました。

この項の掲載の前に、「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読み終わり、憤慨したものですから向きになって完成度を高めたつもりです。

 

村上の名で商売している村上小説解釈本の中には馬鹿にしたようなものも見られ、私は、何故それを放置するのかと思ったりしました。

それに引き換え拙blogでは村上の名で商売しているのではない自負がありました。アフィリエイト0円ですし。

ところが村上自身は村上解釈本には関知しないながら、村上インダストリアルの一環であると位置づけています。村上インダストリアルの中では、村上自身さえ金の卵を産むガチョウに過ぎないそうです。

その道から逸脱した存在である拙blogのような、「趣味で書いてる評論」には「労多くして益なし」と決めつけてありました。一刀両断にされたmilafill

    

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<世界の終わり>で僕が影と共にたまりに飛び込まなかった結末に私は怒りさえ覚えたのですが、よく読み込むと若かった作者の真意が見えて来ます。

 

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 39) 求道 で、

↓のようにと紐解いたのです。

「世界の終り」で僕は自分の心をしっかり仕舞い直しひた向きに’夢読みアシスタント’の心を取り戻させようと彼女をつれて東の森に入り行くことを、作者は自身の小説への取り組み、執筆の姿勢と重ね合わせて記したものと解釈し、私(mila)は、それに求道と名づけました。

その延長にある現在の村上春樹は成功者で、求道者の未来とはずいぶん掛け離れてしまったと思うのです。

一つ、村上春樹は教祖化した存在に立ち至っていること、

一つ、求道者は成功者であって良いのかということ。

求道者≠教祖だと考える私にとって、上記二つの観点が物語結末への共振を妨げるのです。

もっとも村上春樹が世間から求められない小説家なら、この結末が生きるのかと問われればそれも違うのですが。

 

もう一度、僕が雪を軋ませて戻っていく先にいる、’夢読みアシスタント’に意識を向けてみます。

 

’夢読みアシスタント’は、’リファレンス係’が’私’と対等に渡り合っていたようには僕と対峙出来ませんでした。’夢読みアシスタント’は影(=心)を剥ぎ取られたから、彼女に主体性がないのは心を失ったせいだとされました。

’夢読みアシスタント’は僕が導くべき存在であるからこそ、’リファレンス係’以上に僕には愛おしく感じられるのです。

僕がついていなくては彼女はやっていけない・・・’夢読みアシスタント’が小説の中でも固定された小説内人物であるなら、僕がいなくては彼女がやっていけないのは道理です。

’夢読みアシスタント’とは登場人物の中にあってさらに古典小説内の人物である。では、’リファレンス係’は?

’リファレンス係’も登場人物には違いないのですが、その欲望からして、それに’私’と頭骨に浮かぶ光を見つめた読書と見紛う情景から鑑み、’リファレンス係’は私たち読者の投影に違いありません。どうしてだか’夢読みアシスタント’に比べて’リファレンス係’の分は悪かったわけですが。

それでも村上は、読者たちに対する責任に於いて求道を選んだと言いたいのかも。

 

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たまりに飛び込もうとする影に向かって、「〈世界の終わり〉への責任を果たすために留まるのだ」と’僕’が説明するのはそういう意味です。

登場人物のためばかりでなく自分の作り出した世界全てに対する責任感から努力し続けるのは、登場人物の再生及び、そこから手引きされる読者それぞれの成長への祈りを込めたものです。

 

僕が意識化の世界に留まったことは、そういった積極的な意志があるにせよ、〈引きこもり〉のように見えてしまったものですから、

最初私(mila)は、その〈引きこもり〉の臆病さに怒りが湧いたようです。

 

しかし、この作品が上梓された1985年とは、登校拒否の〈引きこもり〉が社会現象になり始めた頃と軌を一にしています。

村上春樹が社会問題を作品に取り込んだというより、むしろ予言、つまり「記憶の逆流が認められる」と思った方が良いでしょうか。

 

キムチにいわれたユングの論を借りれば(未読だけれどたぶんそう)、

それを作品と社会とのシンクロニシティーと推察することは可能です。

僕が世界の終りに留まることは、一般的な〈引きこもり〉が内包する、〈頑なであり臆病である状態〉に似ていますから。

 

現実の村上春樹が本作執筆後、海外に飛びたったことを、現実逃避のように自ら度々語っています。

それは、恐らく多くの’夢読みアシスタント’とその後に続く’リファレンス係’に心を込めた’手風琴’の演奏を聴かせ続けるためだったのでしょう。

村上自身が、「〈引きこもり〉の場を海外に求めた」からには一般的な〈引きこもり〉とは様相異なり、その志の高さからして正反対であるように考えられます。けれどそこにはいわゆる〈引きこもり〉に内包されるものと重なる部分もあったのです。

 

現在ただいまの村上春樹にはそういった部分が消失してしまったように見えます。

村上RADIOなどで賑々しく華やいだ生活を楽しんでいるようです。

サークル活動といおうか、音楽芸術に優れた人々を取り込んだ一種コンミューンのような、民衆たちがその両腕で支える天井板の上で、JAMセッションは開かれます。

子年ではなくて丑年だと言い張る村上の、ネズミの片割れはいなくなってしまったのかも。小説のように。