求道とは、

宗教的悟りや真理の道を求めて修行すること。 「 -心」 「 -者」 → ぐどう(求道)

とのことです。

 

「世界の終り」で僕は自分の心をしっかり仕舞い直しひた向きに’夢読みアシスタント’の心を取り戻させようと彼女をつれて東の森に入り行くことを、作者は自身の小説執筆の姿勢と重ね合わせ「求道」として記したのだと私(mila)は解釈して来ました。

「世界の終り」に描かれた質素で原初的な街は、単純社会と呼ばれるような世界であろうと身に沁みました。

 

心を希求するため求道の旅をひた走った村上春樹ですが、しかし現実の村上春樹は単純社会に生きる生き方とはあまりにも違う、高みに登り詰めた存在です。

 

2021.2.4ーーー「いわばカルト教祖のような存在」に・・・と前回、今年になってから追記しましたが、とはいえそれは糾弾ではありません。指摘でさえなく、「品川猿」のような嫉妬から言うのでもない。ただ、それはそうなのだとそのまま提示するだけです。

 

ただし、大震災前の熊本紀行に際し「橙書房に於けるクローズド(選別)朗読会」には、その在り方に厭らしさを感じました。

そういうクローズド会に混ぜて欲しいと思う少数の人々と、関心を毛ほども持ち合わせない大半の人々に分けられるでしょうが、私はどちらにも属さないということですね。

 

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「止めても無駄なことはよくわかった」「しかし、森の中の生活は君が考えているよりずっと大変なものだよ。森は街とは何から何までちがうんだ。生きのびるだけの労働は厳しいし、冬は長くつらい。一度森に入れば二度とそこを出ることは出来ない。永遠に君はその森の中にいなくてはならないんだよ」「しかし、心は変わらないんだね?」

僕は言った。

「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思い出していく。思いださなくちゃならないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな唄をね」

 

贅沢をしないで洗いざらしを身に着け一日一時間ほぼ毎日実際に道を走る・・・そんな村上春樹を見ても、誰も村上春樹が求道者であり原初的な生活をしていると思いません。

なぜなら村上春樹はトランプ氏と同じくらいの億万長者であることを誰もが知っているからです。

普通の暮らしをして体を鍛える。

それは、普通のフリをしているだけだと読者の皆が知っています。

毎日一時間走る余裕のある労働者など現実には一人もいやしません。

それはとても贅沢な暮らしです。

 

村上春樹は求道者でした。

求道と贅沢が先に行って一致するとはご本人も思っていなかったかもしれないけれど、実際にそうなったのです。

奥さんとして写真に写っている女性たちが一様に皆不幸そうな顔をしているのもその一つの査証でしょう。(私にはどれも違う女性に見えました。ただ独特のヘヤスタイルが一緒なだけで)

 

村上春樹が、〈世界の終り〉に実際に引き篭もった時期があったことを今では私はよく理解しているつもりです。しかし、〈世界の終り〉の森の中で思いがけなくも金脈を掘り当ててしまった村上春樹をもう求道者と呼ぶことは出来ません。

 

それは、短編集「女のいない男たち」の「木野」でいうところの、「悪いことはしなかったと胸を張って言える。けれども正しいことだけをしてきたといえるのか?」ということの意味でしょうか。