松田さん追悼試合 親友の安永氏「直樹が降りてきた」(スポニチ)

 昨年8月4日に急性心筋梗塞のため、34歳の若さで死去した元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合が22日、4万観衆で埋まった日産スタジアムで開催された。日本代表時代の同僚を中心とする「直樹フレンズ」と横浜OBが激突。FW三浦知良(44=J2横浜FC)、引退した中田英寿氏ら超豪華メンバーによる白熱プレーが、天国の松田さんにささげられた。

 “あっ、マツのいたずらだ”。そこにいた誰もがそう感じていた。昨年8月、急逝した松田さんの追悼試合にはカズ、中山、中田氏ら日本を代表する超豪華メンバーが集結した。松田さんがピッチに“帰ってきた”のは試合後だった。雲間から太陽の光が差し込み、スタジアムが幻想的な雰囲気に包まれた。そして、親友で追悼試合の発起人も務めた安永氏があいさつに立った時だった。

 「ザザーッ、ザザーッ」。突然、マイクの音声が乱れた。生前、闘志あふれるプレーが持ち味だった松田さんはイタズラ好きでも知られた。安永氏が「この辺をさまよってるのか、マツのイタズラです。こういうヤツなんすよ」と言葉を詰まらせた。中山も「ノイズがね。イタズラ好きな部分がそうさせたのか意味深だよねぇ」と話すと視線を天にさまよわせた。

 天国から松田さんを呼び寄せるにふさわしい白熱の追悼試合だった。前半34分、松田さんにとって憧れだったカズがバイシクルシュートを放つなど躍動すれば、親友の安永氏は美しいループシュートを決めた。その直後、横浜OBは松田さんが愛用していた黒のヘアバンドをつけ、人さし指を天にかざした。「マツが好きな得点シーン。鳥肌が立った」と横浜OBの水沼監督。そして安永氏は言った。「あの瞬間、直樹が降りてきた」と。

 02年W杯で日本代表を指揮したトルシエ監督も粋な采配を見せた。直樹フレンズの監督を務めたが、代名詞のフラット3は封印。「フラット3には直樹が不可欠。昔のイメージを台無しにしたくないので4バックにした。直樹へのいいオマージュになった」と話す。監督時代、血気盛んな松田さんと何度も衝突。W杯直前合宿ではホテルでケンカしてプールに落とされたこともある。それでも誰より松田さんを評価した1人だった。

 試合後、追悼試合に関わる選手、スタッフ全員が背番号3のTシャツを着て場内を1周。4万観衆からの松田コールは鳴りやまなかった。誰もが天国へ思いをはせ、ピッチ上に松田さんの存在を感じた1日。これからもマツの魂は生き続ける。


対決が楽しみな松田さんへ…カズ 豪快ボレーで盛り上げた(スポニチ)

 やはり千両役者だ。J2横浜FCのFWカズが、全力プレーで松田さんを追悼した。前半5分、左サイドでパスを受けると代名詞のシザース(またぎフェイント)を見せ、場内のボルテージを上げる。同12分には、DF田中裕の右クロスに体を投げ打ち、ジャンピングボレー。「もうちょっとゴールが大きければね」と悔しがる豪快な一撃となった。

 松田さんは、常に対決が楽しみなDFだった。V川崎時代の95年、優勝を争うチャンピオンシップで対戦すると完敗。「高卒ルーキーらしからぬクレバーなDFぶりを肌で感じた」と言う。逆に神戸時代の01年最終戦では1対1となった松田さんを突破して決めたゴールを今でも覚えている。「サポーターから愛され、残してきた足跡が、この日の声援となって表れていると思う」。カズは感慨深そうに話した。


ヒデ健在キラーパス!「キッカケ、それがマツ」としのぶ(スポニチ)

 中田氏が往年のプレーでスタンドを何度も沸かせた。前半で一度退いたが後半の終了間際にカズとともに再出場。得意のキラーパスを連発した。

 関係者によると、前園氏とともにこの試合に向けハードな練習を積んだという。松田氏とは各年代の日本代表で苦楽を共にした間柄。「裏表なく面と向かって言う人間だったし、それが心地よかった」と松田氏をしのび「このメンバーは何かしらのキッカケがないと集まらない。それがマツだった」と話していた。


戦友オールスター、4万超えサポーターが大集結!…松田直樹さん追悼試合(スポーツ報知)

 ◆追悼試合「松田直樹メモリアルゲーム」 Naoki Friends0─1横浜M OB(22日・日産スタジアム) 昨年8月に急逝した元日本代表DF松田直樹さん(享年34歳)の追悼試合が22日、日産スタジアムで行われ、一周忌にあたる今年8月にも第2回の追悼試合が開催される方向であることが分かった。4万475人の大観衆が詰めかけた試合は、大会実行委員長で松田さんと横浜Mに同期入団したFW安永聡太郎さん(35)の決勝ゴールで「横浜M・OB」が「Naoki Friends」を1―0で下した。

 不世出の名ディフェンダーをしのぶ豪華絢爛(けんらん)な手向けだった。横浜Mと日本代表で松田さんが戦い、愛した日産スタジアムで4万人を超える観衆が見守ったオールスター対決には、昨年8月4日に急性心筋梗塞で34歳の若さで急逝した故人のイズムが凝縮されていた。

 唯一の得点は、故人の一番の親友が決めた。前半17分。横浜M・OB混合組の中村俊のループパスを起点に、元日本代表FW城氏がヒールでポストプレー。それに続き、安永氏が肉離れした右足で芸術的なループシュートを決めた。

 安永氏は、群馬県など故人が育った地域に収益を還元する社団法人「松田直樹メモリアル」を設立し、代表理事も務める。「間違いなくマツが降りてきた。少し前に太陽が出た。お前やっと顔を出したな」と、同じ95年横浜M入団の盟友に語りかけた。雨上がりに輝いた華麗な連係。最終ラインから猪突(ちょとつ)猛進し、「オレはいつもループを狙っている」と豪語していた松田さんを思わせる一撃。中村俊も「あのゴールはマツさんが好きなプレー」と振り返った。

 ガチンコ勝負に徹した。チームは02年日韓共催W杯時のトレードマーク、3番の刺しゅう入りヘアバンドを全員で着用。水沼貴史監督(51)は「マツの好きだった勝手なオーバーラップは禁止」と厳命した。44歳でチーム最年長の井原氏も全力でタックル。手抜きを嫌い、全力疾走で短い生涯を駆け抜けた闘将イズムを体現した。

 「(松田さんに)届いたと思う。喜んでくれている」とカズも青空を見やった。これが最後ではない。「命日の8月に松本でやりたい」と安永氏。松田さんの最後のチームとなった松本の本拠地・アルウィンで、第2回の追悼試合を開催する意向を示した。横浜Mも全面協力の方針で、JFL長崎MFの佐藤由紀彦理事も「定期的に開いていきたい」と語った。一度きりでは終わらない。A代表40試合出場のカリスマの雄姿と偉業を忘れないために。

 ◆松田 直樹(まつだ・なおき)1977年3月14日、群馬・桐生市生まれ。すべての年代で日本代表に選出され、96年アトランタ五輪でブラジルに1―0で勝利する“マイアミの奇跡”を演出。95年に入団した横浜Mでは3度の優勝を経験し、11年からJFL(当時)の松本山雅に移籍。日本代表で02年日韓W杯の16強に貢献。昨年8月4日に急性心筋梗塞で死去した。J1通算385試合17得点、JFL通算15試合1得点、日本代表通算40試合1得点。


トルシエ氏フラット3“封印”「直樹がいなければ意味がない」…松田直樹さん追悼試合(スポーツ報知)

 ◆追悼試合「松田直樹メモリアルゲーム」 Naoki Friends0─1横浜M OB(22日・日産スタジアム) 昨年8月に急逝した元日本代表DF松田直樹さん(享年34歳)の追悼試合が22日、日産スタジアムで行われ、一周忌にあたる今年8月にも第2回の追悼試合が開催される方向であることが分かった。4万475人の大観衆が詰めかけた試合は、大会実行委員長で松田さんと横浜Mに同期入団したFW安永聡太郎さん(35)の決勝ゴールで「横浜M・OB」が「Naoki Friends」を1―0で下した。

 「Naoki Friends」を率いた元日本代表監督のフィリップ・トルシエ氏(56)が、代名詞のフラット3を“封印”した。3人のDFが横一線に並んでオフサイドトラップをかけるシステムで、02年日韓W杯で史上初の16強に導いた武器だが、終始4バックを採用。その理由を「(松田)直樹がいなければフラット3をする意味はない」と説明した。

 日本代表監督時代に何度も松田さんと衝突したが、その負けん気の強さを買ってフラット3の一角として起用し続けた。「フラット3を生かすには直樹が不可欠。きょうやってしまったら、昔のフラット3のイメージが台無しになってしまう」とまで言い切った。ゴールをささげることはできなかったが「直樹は今、我々と一緒にいると思う」と感慨深げに振り返った。


ヒデ「非常にいいコンビだった」思い出語る…松田直樹さん追悼試合(スポーツ報知)

 ◆追悼試合「松田直樹メモリアルゲーム」 Naoki Friends0─1横浜M OB(22日・日産スタジアム) 昨年8月4日に心筋梗塞のため34歳で亡くなったサッカー元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合が、日産スタジアムで4万475人の観衆を集めて行われた。代表で同僚だった中田英寿さんらゆかりの人々が参加してプレーした。

 松田さんがプロ生活の大半を過ごした横浜Mの現役選手やOB、最後に所属し今季J2の松本山雅の選手、宮本恒靖さんをはじめとする日本代表時代の仲間ら豪華メンバーが集結。試合前には参加選手が松田さんの代名詞の背番号「3」の人文字をつくり、黙とうをささげた。

 同い年で親交の深かった中田さんは「これだけのメンバーを集めるのは、よほどのきっかけがないと無理。いろいろ感慨深い」と言い「マツとは14歳で知り合ってから最後まで、距離感が変わらなかった。お互いはっきり物を言うが、裏表がなく言う人だったので、それが心地よくもあった。非常にいいコンビだったと思う」と思い出を述べた。


キング&ヒデが試合を沸かせた!…松田直樹さん追悼試合(スポーツ報知)

 ◆追悼試合「松田直樹メモリアルゲーム」 Naoki Friends0─1横浜M OB(22日・日産スタジアム) 昨年8月に急逝した元日本代表DF松田直樹さん(享年34歳)の追悼試合が22日、日産スタジアムで行われ、一周忌にあたる今年8月にも第2回の追悼試合が開催される方向であることが分かった。4万475人の大観衆が詰めかけた試合は、大会実行委員長で松田さんと横浜Mに同期入団したFW安永聡太郎さん(35)の決勝ゴールで「横浜M・OB」が「Naoki Friends」を1―0で下した。

 試合を最も沸かせたのはキング&ヒデの両巨頭だった。

 FW三浦知良(44)=横浜C=は前半6分に得意のまたぎフェイント、同34分にはオーバーヘッドシュートを披露した。ゴールはならなかったが、Fリーグ参戦などで既に万全のコンディション。両軍最多の3本のシュートを放ち「もうちょいゴールがデカかったら良かった」と笑った。

 U―15日本代表時代から苦楽を共にしてきた中田英寿さんも、現役時代と変わらぬ動きでゲームを作った。中田英さんは山梨、松田さんは群馬出身ということで「地方から出てきて、お互いの地元をバカにし合っていた」という。「14歳から去年まで話し方も変わらなかった。裏表なく面と向かって言えたところが心地よかった。遊んでいるときは困ったいたずら小僧で、僕がフォローする側。いいコンビだったと思う」と思い出を振り返った。

 先発した2人は前半終了で交代したが、後半39分に再び登場。尊敬するカズ、そして盟友のプレーに興奮したのは誰よりも松田さんだったはずだ


木島良「一緒にプレーしている気分」…松本(スポーツ報知)

 ◆追悼試合「松田直樹メモリアルゲーム」 松本1─0横浜M OB=30分1本=(22日・日産スタジアム) 松本は、開始18分にFW片山が頭で決勝ゴール。就任初勝利を挙げた反町康治新監督(47)は「これだけたくさんのお客さんが集まるのは松田の功績の大きさを感じる」と感慨深げ。先発した木島良は「一緒にプレーしている気分だった。引退しようと思っていたけど、マツのことを思って長く続けたい」と横浜M時代からの戦友の分まで戦うことを誓った。



親友安永が技あり決勝弾!/追悼試合(日刊スポーツ)

 昨年8月4日に急性心筋梗塞で亡くなった松田直樹氏(享年34)の追悼試合(松田直樹メモリアルゲーム)が22日、日産スタジアムで行われた。J2横浜FCのFW三浦知良(カズ=44)中田英寿氏(35)ら、松田氏が現役時代、日本代表や横浜、松本などでともにプレーした仲間が86人集まった。

 松田さんは親友のそばに寄り添っていた。発起人である元横浜FW安永聡太郎氏(35)が前半17分に技ありループを決めた。体勢を崩しながら右足でGKが届かないところへ。安永は「(松田さんが)おりてきました。現役でも決めたことがないようなゴール」と笑顔だった。直前に空を見上げると雲の間から太陽が見えた。雨の中始まった追悼試合。「ようやく顔を出したか」と松田さんが協力してくれたんだと力説した。1週間前から試合に備えたが、トレーニング中に左太ももを肉離れ。シュートはふらふらの状態で決めた。「足が万全だったら力が入ってだめだったと思う」。試合後のあいさつの途中で音声にノイズが入ると「直樹のいたずらです」と力を込めた。最後まで松田さんとの絆を強調していた。


カズとヒデと4万人…松田さん追悼試合(日刊スポーツ)

 昨年8月に急逝した元日本代表DF松田直樹さん(享年34)をしのんで22日、日産スタジアムで追悼試合が行われた。かつて松田さんが所属していた横浜、松本、元日本代表MFの中田英寿氏(35)や横浜FCのFWカズ(三浦知良=44)ら縁のある選手で構成された「NaokiFriends」の3チームが4万人を超える観衆を沸かせた。30分一本勝負の横浜・OBチームと松本の試合は松本が1-0で勝利。横浜・OBチームと「NaokiFriends」の試合は、発起人である元横浜FWの安永聡太郎氏(35)がゴールを決め1-0で横浜・OBチームが勝利した。試合の合間には、生前の松田さんと親交のあった男性デュオのゆずが「逢いたい」を熱唱。故人への思いを歌った。


カズ「マツ…みんな覚えてる」/追悼試合(日刊スポーツ)

 昨年8月4日に急性心筋梗塞で亡くなった松田直樹氏(享年34)の追悼試合(松田直樹メモリアルゲーム)が22日、日産スタジアムで行われた。J2横浜FCのFW三浦知良(カズ=44)中田英寿氏(35)ら、松田氏が現役時代、日本代表や横浜、松本などでともにプレーした仲間が86人集まった。

 メーンのNaoki Friends-横浜・OB(45分ハーフ)戦は、安永聡太郎氏(35)の得点で横浜・OBが1-0で勝った。前座試合の横浜・OB-松本(30分1本)戦は、松本が1-0で勝利し、場内を沸かせた。

 プロとしてファンを大事にしたこともあり、この日は4万475人のファンが集まり「直樹コール」をこだまさせた。カズは「マツのことをみんな覚えているから、これだけの人が集まった」。横浜の後輩・中村俊輔(33)は「これだけの選手とファンが集まったのは、マツさんの人望ですね。一緒にプレーしたことを誇りに思う」。中田英氏は「今日、みんなと会えたのは、アイツの存在が大きいから」と続けた。

 4万人を超える観客が駆け付け、諸経費を支払って残った約1000万円の収益は、遺族に渡すことになる。追悼試合の実行委員長・安永氏は「アイツが死んだ8月4日前後に、今度は松本で追悼試合をやりたい。みんな賛同してくれるはず」と、松田氏をしのぶ仲間の集まりは、今後も続く。【盧載鎭】

 ◆松田直樹(まつだ・なおき)1977年(昭52)3月14日、群馬・桐生市生まれ。小1でサッカーを始め、前橋育英高時代は3年連続選手権出場。93年U-17世界選手権(現U-17W杯)ベスト8。95年ワールドユース(現U-20W杯)、96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪出場。95年に横浜入団、J1通算385試合17得点。代表は00年2月5日メキシコ戦で初出場。02年W杯日韓大会は「フラット3」の1人として全4試合にフル出場し、16強進出に貢献。国際Aマッチ通算40試合1得点。98年に結婚、1男2女をもうけたが、その後離婚。183センチ、78キロ。


カズ両軍最多シュート3本/追悼試合(日刊スポーツ)

 昨年8月4日に急性心筋梗塞で亡くなった松田直樹氏(享年34)の追悼試合(松田直樹メモリアルゲーム)が22日、日産スタジアムで行われた。J2横浜FCのFW三浦知良(カズ=44)中田英寿氏(35)ら、松田氏が現役時代、日本代表や横浜、松本などでともにプレーした仲間が86人集まった。

 カズが、両チーム最多の3本のシュートを放った。ボレーシュートとオーバーヘッドなど、はつらつとプレーした。試合後は「ゴールがもう少し大きかったら入ったけどね」と明るかった。追悼試合だが「落ち込むのはマツも望まないはず、楽しむのが一番です」と声を弾ませた。


俊輔「マツさんの人望。すごいなと思う」(サンスポ)

 松田直樹メモリアルゲーム(22日、日産スタジアム、観衆=4万475)昨年8月4日に34歳で早世した元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合に現役、OB合わせて80人のスターが参加。
 横浜M・OBチームで出場したMF中村俊輔は、「やっぱり、マツさんの人望。これだけのトッププレーヤーが集まるんですから。すごいなと思う。試合は真剣勝負でした。マツさんはそれが好きだったから」としんみり。前半だけで交代したが、シュート2本を放つなど見せ場を作った。


「フラット3=直樹」トルシエ、戦術を封印(サンスポ)

 松田直樹メモリアルゲーム(22日、日産スタジアム、観衆=4万475)昨年8月4日に34歳で早世した元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合に現役、OB合わせて80人のスターが参加。
 「Naoki Friends」を率いたのはトルシエ氏。02年日韓W杯では松田さんらを擁し、ベスト16まで勝ち進んだ。この日は「フラット3イコール直樹だ。彼がいなければできない」と、代名詞だった当時の戦術を封印。「練習では彼に厳しかったし、直樹も何度も反発したが、楽しい思い出だ」と振り返った。


松田さんの母と姉も観戦「感謝と感動」(サンスポ)

 松田直樹メモリアルゲーム(22日、日産スタジアム、観衆=4万475)昨年8月4日に34歳で早世した元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合に現役、OB合わせて80人のスターが参加。
 松田さんの母、正恵さんと姉の真紀さんもスタンドから見守った。試合後、正恵さんは「息子のような者に、このような盛大な追悼試合を開催していただき、皆さまに心から感謝しております。母として申し訳なさと、感謝と、たくさんの感動で胸がいっぱいです。直樹も会場のどこかで、一緒にプレーしていたと信じております」とのコメントを発表した。
2012年度 契約更新選手について(オフィシャル)

横浜F・マリノス所属のMF小椋祥平選手、FW小野裕二選手、DF小林祐三選手、DF金井貢史選手が、2012年度の契約を更新いたしましたので、お知らせいたします。

小椋 祥平 (おぐら しょうへい)

◆ポジション: MF
◆出身/生年月日: 千葉県/1985年9月8日
◆身長/体重/血液型: 175cm/64kg/B型
◆経歴: 三山小 - 三田中(ウイングスSS習志野) - 修徳高 - 水戸ホーリーホック
- 横浜F・マリノス

小野 裕二 (おの ゆうじ)

◆ポジション: FW
◆出身/生年月日: 神奈川県/1992年12月22日
◆身長/体重/血液型: 170cm/62kg/B型
◆経歴: 城北小(城北ファイターズ) - 衣笠中(横浜F・マリノスジュニアユース追浜)- 逗葉高(横浜F・マリノスユース) - 横浜F・マリノス

小林 祐三 (こばやし ゆうぞう)

◆ポジション: DF
◆出身/生年月日: 東京都/1985年11月15日
◆身長/体重/血液型: 176cm/72kg/B型
◆経歴: 富士見小(松林少年SC) - 富士見中(上里FC) - 静岡学園高
- 柏レイソル - 横浜F・マリノス

金井 貢史 (かない たかし)

◆ポジション: DF
◆出身/生年月日: 神奈川県/1990年2月5日
◆身長/体重/血液型: 174cm/60kg/B型
◆経歴: 川和東小(あざみ野FC) - 文教大付属中(横浜F・マリノスジュニアユース) - 横浜創英高(横浜F・マリノスユース) - 横浜F・マリノス


齋藤学選手 復帰のお知らせ(オフィシャル)

愛媛FCに期限付き移籍しておりました齋藤学選手が、2012シーズンより横浜F・マリノスに復帰することが決まりましたので、コメントと併せてお知らせいたします。


齋藤 学 (さいとう まなぶ)

◆ポジション: FW
◆出身/生年月日: 神奈川県/1990年4月4日
◆身長/体重/血液型: 165cm/64kg/A型
◆経歴: 日吉小(横浜F・マリノスプライマリー) - 塚越中(横浜F・マリノスジュニアユース)
- 市立川崎高(横浜F・マリノスユース) - 横浜F・マリノス - 愛媛FC- 横浜F・マリノス

■齋藤学選手コメント
「この度、1年間の期限付き移籍を終えて、復帰することになりました。
この1年で成長した姿を、ファン・サポーターの皆さまにお見せ出来ることを、とても嬉しく思います。自分が点を取ってチームの勝利に貢献出来るように頑張りますので、応援よろしくお願いします。」


金根煥選手 サガン鳥栖へ期限付き移籍のお知らせ(オフィシャル)

横浜F・マリノス所属の金根煥選手が、2012シーズンよりサガン鳥栖へ期限付き移籍することが決まりましたので、コメントと併せてお知らせいたします。

金 根煥 (きむ くなん)

◆ポジション: DF
◆出身/生年月日: 大韓民国/1986年8月12日
◆身長/体重/血液型: 193cm/86kg/AB型
◆経歴: 天安小 - 天安中 - 天安第一高 - 慶熙大 - 横浜F・マリノス 
- モンテディオ山形 - 横浜F・マリノス

■金根煥選手コメント
「いつもファン・サポーターの皆さまには、多くの応援をいただき、心より感謝の言葉を申し上げます。この度、期限付き移籍でサガン鳥栖に活躍の場を移すことになりました。
もっとチームに貢献できる選手になれるように、サガン鳥栖でたくさんの経験を積んで成長し、またF・マリノスに戻ることができるように頑張ります。」
2012年度 契約更新選手について(オフィシャル)

横浜F・マリノス所属のDF天野貴史選手、GK飯倉大樹選手が、2012年度の契約を更新いたしましたので、お知らせいたします。


天野 貴史 (あまの たかし)

◆ポジション:DF
◆出身/生年月日: 神奈川県/1986年4月13日
◆身長/体重/血液型: 162cm/60kg/A型
◆経歴: 美しが丘東小(元石川FC) - 美しが丘中(横浜F・マリノスジュニアユース) - 新栄高(横浜F・マリノスユース) - 横浜F・マリノス


飯倉 大樹 (いいくら ひろき)

◆ポジション: GK
◆出身/生年月日: 青森県/1986年6月1日
◆身長/体重/血液型: 180cm/72kg/A型
◆経歴: 本郷小(FCイーグルス-横浜F・マリノスプライマリー追浜) - 本郷中(横浜F・マ
リノスジュニアユース追浜) - 藤嶺学園藤沢高(横浜F・マリノスユース)- 横浜F・マリノス - ロッソ熊本 - 横浜F・マリノス


武田英二郎選手 ジェフユナイテッド千葉へ期限付き移籍のお知らせ(オフィシャル)

横浜F・マリノス所属の武田英二郎選手が、2012シーズンよりジェフユナイテッド千葉へ期限付き移籍することが決まりましたので、コメントと併せてお知らせいたします。

武田 英二郎 (たけだ えいじろう)

◆ポジション:DF
◆出身/生年月日: 神奈川県/1988年7月11日
◆身長/体重/血液型: 173cm/69kg/A型
◆経歴: 成蹊小(FC中原) - 成蹊中(横浜F・マリノスジュニアユース) - 成蹊高(横浜F・マリノスユース) - 青山学院大 - 横浜F・マリノス


■武田英二郎選手コメント
「1年間、応援ありがとうございました。F・マリノスでは、チームに貢献出来ませんでしたが、本当に多くのことを学ぶことが出来ました。千葉で1年間、経験を積んで成長し、F・マリノスに戻ってこられるように頑張ってきます。」