ひょんなご縁で僕にブログを書いてほしいと、勿体なくも仰って下さった方がいた。畏れ多いことであるが、自分の整理にもなるし、書くことにしました。

 

さて続きであるが、歴史を見てみよう。これは心の歴史である。足跡の精密な検査ではなく、足跡に人を見る見方をしてみよう。

 

まず縄文時代。この時代は文献がないし、非常に調べにくい。但し土器を見ると、誠にヘンテコだなぁと思う。弥生時代の土器は知的な香りが少しするのだが、縄文時代は、なんか子供がよりつどひて作ったというやうな感じがする。

 

それからよく言われるように戦争が一万年ほどなかった。これらのことから大体、平和だったんだろうとは思う。その平和とはどういう意味か。

 

それは、心を知情意と分けた時の情、それも深い情を我が情としていることである。他の喜びを我が喜びとし、他の悲しみを我が悲しみとすることである。(と言いながら僕は全然できていない。足利将軍の和歌に、民の平安を祈ったりしてるのがあるが、全然世を治れてないじゃないかと思うでしょう、同じである。全く人のこと言えない。反省中。)

 

とにかく縄文時代はそういう時代。特徴は情的であるということ。

 

次の弥生時代に入ると知がでる。土器にも伺えるし、何よりも倭国大乱と魏志倭人伝に書いてある。また受傷遺体も増える。大体戦の原因は分別なのだから。

 

で大和時代に国が統合しました。大体この時の雰囲気というのは中世の戦国時代と同じであろう。そして各国の大名が神として名を残し神社に祀られたんだろう。そんな気がする。とにかく国は統合しました。

 

その後応神天皇、仁徳天皇、…、宣化天皇と来ます。この間、反乱はあるが国が再び分裂というまでには行かなかった。しかも仁徳天皇やら清寧天皇やら、非常な仁政が伝わっていますね。

 

でここからが問題だが、仏教が入ってきた。これが日本をシナシナにさせた。徹底的に骨抜きにされた。(あと律令制も入ってきた。)

 

和歌を見れば、大体古墳時代ごろの名残と思われるような和歌は様々な特徴が見られるがそのうちの一つに情であるということがある。その後の天智天皇くらいの御代に大陸の知識人がきて淡海朝の時に額田王など出てますが、彼らの歌は雄大だけども知的にまとまってる。情そのものではない。(庶民は情に住んでたろうと思うが。)

 

情そのものではないが雄大であった。よってこの情操の上に国をたてることはできた。しかし山上憶良あたりから仏教的世界観によって情操はひ弱になって、それを聖武天皇もちいられたものだから、一気に貴族やら中央の人々の情操がひどく汚れた。平安時代の和歌、全然面白くないでしょう。全部似たような雰囲気だし。(いい歌は色々あるんだけど、雄大ではない。)

 

でこの平安調はづっと続く。特に歌壇でつずく。西行、実朝、定家…。僕には五山文学なんかも平安調に宋学の鎧を着せて漢文で現しただけというような気がする。禅僧の癖に、無学祖元のようなカラッとした情緒をなぜ読まんのか、サッパリわからん。

 

ところがなかなかいい情緒を読んだ人たちもいる。まず道元。それから大智。また明恵。彼らは悟ってる。なかなか読み甲斐がある。また戦国時代になればみんな地に足が着き始めた。彼らの辞世は実に良いものがある。また家訓も非常に地に足がついている。この時代は知略が好きで、またそれと同時に義というのも好きなんですね。この時日本民族の足を地につけたのは大体漢籍である。

 

それから中世は、鎌倉くらいから伊勢神道など、神道思想が出てきた。神仏習合から分離し、新たな解釈をし始めたのである。天照大神は心の太陽、月夜見尊はこころの月、こんな風に言い始めた。

 

また皇室を拝見すれば、聖武天皇以後ずっとだらけてたんだが、後三条天皇あたりから正気を取り戻し始め、後鳥羽上皇に至って民の幸せを御製にお読みになり始めた(これは応神、仁徳、雄略、舒明天皇の国見の歌以来の御製の趣である)。しかしこの時はまだ「道ある世を」などと形式的なことを言われてるが、それも後嵯峨天皇あたりからあまり言わなくなり、南朝はやっぱり道ある世をと言いがちだったが、北朝はただ祈るばかりで、合一してからはすっかり祈るばかりになった。恐れながら、それでこそ天皇だという気がする。やっと皇統の燈がスッと立ち始めたという気がする。

 

さて戦国時代を終えると、近世になれば庶民の住んでた情の世界が文芸などに現れ始める。その兆しはすでに閑吟抄や梁塵秘抄にもあるが(もちろん風土記や琴譜、記紀歌謡にもあるのだが)、田植草子、説教節、人形浄瑠璃と、もうあからさまに情の世界を表し始めたわけですね。これが近世のひとつの特徴。

 

ふたつめは、やはり国学。特に「漢意すべからく捨てるべし」とか「踏み分けよ」とか。そういう風に、支那から取り入れた(時に助けてもらった)知の濁りを取ってしまえというわけである。

 

そして神道。これは垂加神道など読めば良いだろうがまだ読んでないのでわかりません。

 

あと水戸学などの皇統に関する学問(名前はどうつけようか…)。しかし水戸学、何やら儒学の上に乗っけてるやうな感じがして、情的な皇統の学問ではないので甚だもって日本民族にとっては悪影響な気がしますね。また今後きちんと調べます。

 

という感じでここまでで何がどうなったかといえば、知識階級に入った仏教の汚れは近世には大体取れたわけです。しかし知の濁りはなかなか取れないですね。その最も代表的なものが「国家」という濁りでしょう。

 

これの由来はおそらく弥生にまで遡るでしょうが、律令制の時と御維新の時に強化してるようである。しかしまだこの濁りは取るべきではないだろうという気がする(取ろうとしてもなかなか取れるものではなかろうが)。

 

また近世までの特徴として、日本民族というものを認識し始めたということがあります。それはやはり国学に一番あらわれてる気がします。神道や水戸学は知に迷いすぎな気がしますね。(またきちんと見ますが。)

 

あとそれから実相認識としての学問(大宇宙、大自然の自覚のこと、ここを日本独自の学問にしてゆきたい気がしてます)については、道元禅師がかなりわかっており、大智や明恵は多分九識くらいだと思います。でも芭蕉がおりまして、これは非常にわかっているとのことです(その芭蕉を育てたのは荘子や漢詩、禅であって、平安調に毒された和歌や連歌、紀行文はあまり参考にならぬのは道理ですね)。

 

以上が近世でした。人情的な情操基盤の上に国学によって日本民族を認識し始めた。おかげで幕末にあれだけ働けたんですね。

 

それで明治時代になって西洋から何が入ってきたか。色々入ってきただろうが、重要なものに

・科学の精神

・個人主義、物質主義

の二つがある。後者は酷く日本民族の情操を蝕んだ。日露戦争までは政府の統制つよしと言えども民衆兵隊には人情があったから心の世界に住することができて全体主義の趣を呈さなかった。しかし大正時代になり国民運動が盛んになると、もうだめ。主義主張をするというのは本当は専門分野で、うかつに手を出すとこれは個人主義。極めて危ない行為である。案の定大正時代以降個人主義が根を張り初め、人はそれぞれ別人、自然と人は別、という風になっていった(僕はこれを実践できていない)。そうなると自ずから「国家と個人」というような所が議題になり始め、全体主義の趣をていす。それが大東亜戦争の情操的基盤でしょう。誠に脆い基盤である…。

 

でその大東亜戦争だが、これはまだきちんと調べられていない。ただこれは、大きく見れば、国際的な戦国時代として見てみるべきだろう。(上杉謙信であって欲しい所である…。)

 

それで戦後。もう散々にされた。まず情操的基盤がボコボコにされた。それで戸惑った世代がまさに「盗んだバイクで走り出す」とか、スクールウォーズとか、GTOとか、あんな感じの趣である。

 

所で明治維新の時に取り入れたふたつのうち前者によって大事な人が生まれてる。それが岡潔先生である。この人はものすごい人で、ちょっとそれは今は省略する。

 

岡先生の他にもよくわかった人も出てきている。戦後、宮崎駿さんがでた。非常に影響を与えた。特にナウシカが好きである。漫画版。で、それの実践者のごとき人として、福岡正信さんがいる。彼の悟りはまぁ形式的な悟りだと思うが、しかし実践された。まさにこれからの生き方の先駆者であろう。即ち、小欲知足であって情の世界に住み、村村家家で自給自足し、ゆるくそれらが繋がりあって経済圏をなすという。全く国力はないが、しかし誠に懐かしい暮らしであろう。日本民族は世界をこの方向へリードしてゆくべきであると思う。(そのためには勿論皇統が重要であるのですよ。ここを忘れないで欲しい。特に自然派の人達。)(※何やら武者小路実篤とかが新しき村などと言ってやってたらしいが、くらぶべくもない。)

 

で、最近この日本民族世界救済論というのが流行りつつあるようです。縄文時代も流行ってますね。YouTubeで主に流行ってますね。内容はいう人によってまちまち。「なんだそれ胡散草いな」と思うかもわかりませんが、お気持ちわかりますが、しかし例えば飛鳥時代、安倍博麿が支那で聞いた「唐は近き日本を犯すつもりである」との噂にかけて、自分を奴隷として売り、そのお金をたまたま遣唐使にきてた人たちに持たせて返したとの話、これも当時の遣唐使の人たちからしたら胡散臭かったかもしれません。それから幕末、農家の息子、江戸へあきないに行って帰ってきたと思ったら外国が何やら天子様がどうこうとデカいことをいってやがる。何胡散臭いと思ったと思いますね。高山彦九郎なんか胡散草さの塊だったかも分かりません。しかし後世から見れば全くそんなことない。そんな具合です。どうなるかはわかりませんね。

 

いずれにせよ、情の村づくりをなすことは急務であって、これが日本の情操的基盤の再興にもなり、即ち日本中興になります。そしてその村で育った人は実に良い人材になるので高市さんのいうような人材力の供給源にもなるでしょう(勿論それは国際戦国時代を渡ってゆくために良き殿様、よき家臣なってもらうためであり、決して環境破壊や戦、心を穢す経済活動で儲けようとする者共の肩を持たせるためではない)。

 

まとめれば、今後は村づくりをすべきである。