11/9日に岐阜県多治見市にある紅葉の名所の一つである虎渓山永保寺に行きました。その時、永保寺の周りにも寺院がありました。なぜ、こんなに隣接しているのだろうと疑問に思いました。
隣接している寺院は保寿院(ほじゅいん)、徳林院(とくりんいん)、続芳院(ぞくほういん)といいます。
ウィキペディアで「永保寺」を調べますと、永保寺について紹介してある中に、「塔頭(たっちゅう)寺院」という項目があり、そこに3寺院の名前が挙がっていました。
「塔頭寺院?」
再びウィキペディアで調べますと、こう紹介されていました。
「禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。」
永保寺に深いつながりがあるため、隣接して寺院があるわけですね。
それらの寺院でも、何枚か写真を撮りました。
☆保寿院
山門にある鬼瓦です。
本堂の木鼻です。獏です。目の作りから新しいものだと思います。
屋根の跳び狛犬です。
屋根の軒丸瓦を見ますと、「桐紋」があります。中央の葉っぱが5枚、両脇が3枚ですので、「五三桐」というそうです。中央の葉っぱが7枚、両脇が5枚のものは「五七桐」というそうです。
一緒に行ったメンバーの1人が、
「これは豊臣秀吉の家紋だ。」
と言い出しました。
調べてみますと、こうです。ネット上の「歴史をわかりやすく解説!ヒストリーランド」の記述を要約しました。
もともと「桐紋」は皇室のみが利用できる格式ある紋章であったそうなんです。その後、天皇家から有力な武将に与えられることがあったそうなんです。足利家も与えられました。足利家は後に、織田信長にこの紋章を与えたんだそうです。秀吉は、信長から与えられたものだと言われています。
秀吉は、信長の家臣時代は「五三桐」を使用していたそうですが、後に姓を豊臣と改めた時に「五七桐」を当時の後陽成天皇から与えられたそうです。その後「五七桐」を使用したそうです。
秀吉もまた、家臣に五三桐や五七桐を分け与えました。桐紋の希少価値が無くなってきました。そこで、五七桐をアレンジした「太閤桐」というものを使い始めたそうです。
保寿院の「五三桐」の紋は、どういう経過でそこにあるのでしょう? 答えを見つけることはできませんでした。
☆徳林院
屋根に跳び狛犬がいます。近くに鬼瓦もあります。
徳林院の軒丸瓦にも、「五三桐」の紋が入っています。
ここの鬼瓦は、ふつうはこれです。
しかし、屋根の最上段にある鬼瓦は、ひときわ大きな目をしている上に、なんと口に瓦をくわえているのです。これはどうしてなんでしょうか?
☆続芳院
以前使われていた瓦が、地上に展示してありました。
「五三桐」の紋が入っています。一緒に撮影に行った他のメンバーが、瓦、寺院建築には興味がないため、私は写真を慌てて撮っています。瓦の近くに、説明文のようなものはなかったように思うのですが………?