少し前の話になりますが、わたし、1月1日~3日まで、TOHOシネマズと、郵便局の本局へ行くために外出しただけで、家にずっといました。4日に電車に乗って遠くまで外出しました。そのついでに何カ所か見てきたものがあるので、何回かに分けてブログにアップしようと思います。その4です。

 

熱田神宮に初詣に行く前に①高蔵遺跡の表記がある高蔵公園②熱田神宮の摂社、高座結御子神社に立ち寄りました。その次に向かったのが、高座結御子神社の南南西にある断夫山古墳に向かいました。

 

断夫山古墳は、ここ熱田神宮公園にあります。

断夫山古墳1

愛知県営の都市公園ですが、かつてこの土地は、熱田神宮の管理した土地であったことから熱田神宮の名を冠しています。熱田神宮の隣接地にあるわけではありません。

 

ここに断夫山古墳があります。公園内の案内マップをアップにします。

断夫山古墳2

 

断夫山古墳を説明した立て札がありました。

断夫山古墳4

大事に思うところを強調しますと、

   東海地方最大の前方後円墳

      全長151m

      前方部高さ16.2m

      後円部高さ13m

      「造り出し」が西側にあります

   6世紀初めの尾張氏の首長の墓と考えられます

 

簡単な等高線を表した図が、この立て札の古墳を挟んだ反対側にありました。

断夫山古墳6

 

実は、わたし、比較的整備された前方後円墳を3つ以上見に行ったことがあるのですが、そのいずれも、前方部より、後円部の方が高くなっていました。だから、断夫山の場合、前方部の方が高いので、こういうパターンもあるのかと初めて知りました。調べてみると、こういうのは古墳時代後期の特徴らしいですね。

 

断夫山古墳の周囲は、周濠を想起させるように周りを浅い堀で囲っています。「造り出し」というのは、堀に角があるこのあたりかと思います。消失した本来の周濠はさらに広範囲に及ぶものであったそうです。

断夫山古墳5

江戸時代の絵の写しが案内板に示してありました。

断夫山古墳3

何も高い建物がなかった江戸時代なら、この古墳の上に立てば、遠くまで見下ろすことができ、まさに断夫「山」に立ったかのような気分が味わえたことでしょう。

 

ところで「断夫山」の「断夫」という名はどこから来たのでしょう。この熱田神宮公園のある地区をかつて管理してきた熱田神宮では、この古墳を古くから「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓と考えて管理してきたのだそうです。日本武尊が三重県の現在の亀山市あたりで最期を迎えた後、妻である宮簀媛命は、毎日、泣いて暮らしたのだそうです。しかし、これではいけないと、自分がしっかりするために、亡くなった夫への思いを断ち切ろうと考えたのだそうです。そこから「断夫」ということになったのだと思われます。

 

しかしながら。古墳の築年時が6世紀初めと言うことなので、実際のところは宮簀媛命の墓ではなさそうですね。