5月25日にNHK連続ドラマ「半分、青い。」の「ふくろう商店街」ロケ地に行って来ました。もっとも、それは当日の午後のことで、午前中は、岩村城に登ってきました。

 

岩村城は、日本百名城の一つです。岐阜県には、百名城に数えられるのは、岐阜城と岩村城の2つしか無いそうです。また、日本三大山城の1つに数えられます。他の2つの城は、大和高取城と、備中松山城だそうです。

 

城としての歴史が古く、鎌倉時代の初め、この地の地頭となった加藤氏が城を築きはじめ、同時に遠山氏を名乗るようになったのが始まりだそうです。明治初期までの約700年間、城が存在したそうです。

 

「女城主の城」として有名なんだそうです。昔の城には、何らか城にまつわる物語があるところが興味深いと思っている私ですので、それについての話をします。

 

戦国期、この城の城主遠山景任のもとに、織田信長の叔母 おつや が嫁いだのだそうです。詳しいことは知りませんが、織田家から嫁いでくるぐらいですから、この地が重要であったか、遠山景任の存在が重要であったかのいずれかでしょう。ところ遠山景任が病死した為、織田家から、信長の五男御坊丸を養子として迎えることになりました。しかし、まだ幼少である為、おつやが、実質的に取り仕切りました。武田家24将の1人秋山虎繁が侵攻してきたときも、懸命にこれを防ごうと努力しました。そんなところから女城主の城として有名になりました。

 

しかし、諸般の事情から、そのとき、織田家は援軍を送ることができませんでした。やがて、岩村城籠城の食糧も不足してきました。

 

岩村城側としては、秋山氏の、「おつやを妻とすることを条件とした無血開城」の申し出を受け入れざるを得なくなりました。信長の五男御坊丸は、武田信玄の元に人質として送られてしまいました。

 

後に長篠の戦いによって武田勝頼が敗戦してから、武田勢は劣勢に立たされました。秋山氏の岩村城が織田勢によって攻撃されたとき、半年に及ぶ籠城をしましたが、武田氏の援軍が期待できませんでした。

 

ついに織田家の出す条件をのみ、岩村城を開城しました。

 

織田家の出した条件の1つに、「秋山虎繁とおつやの命は守る」というのがあったそうです。しかし、後に、信長はこの条件を反故にし、秋山虎繁とおつや夫妻を磔刑にしたそうです。

 

これが、「女城主の城」にかかわる話です。

 

城に行く方法は、2つあります。城の本丸近くの駐車場(10台駐車可)まで、車で行く方法が1つ。(駐車場にトイレもあります)  しかし、途中の道路は、そんなに広くなさそうなことを聞いております。もう一つは、麓の岩村歴史資料館の駐車場に車を止めて歩く方法。私は、写真を撮りながら、ウォーキングすることが目的ですので、当然、後者を選びました。

 

岩村歴史資料館の駐車場から、本丸までは、およそ800mあります。さほど距離はないのですが、上り坂が続きますので、年配の方は、ときどき休息を入れる方がよいかと思います。私の場合は、立ち止まって写真を撮ることが、適度な休息になっております。

 

歩く道は、歩きやすく整備されています。

岩村城1

 

岩村城2

 

岩村城4

 

一部こんなところもあるにはありました。

 

岩村城3

 

比較的井戸が多い山城のようです。全部で17箇所あるそうです。

岩村城5

 上の井戸は、岩村城が別名「霧の城」と言われることに関係している井戸です。敵が城を急襲し、対応準備が整っていないときに、この井戸に、城秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめて城を覆い隠したという伝説があるそうです。

 

次が本丸付近の石垣で、「六段壁」というのだそうです。石垣の崩落を防ぐ為、全面に補強の石垣を積むことを繰り返していったら、この形になったそうです。岩村城を代表する写真として撮られることがあります。

 

岩村城6

 

本丸付近の石垣を下から見上げるとこんな写真も撮れます。

岩村城7

 

本丸からの展望は、立木に邪魔されて芳しくありません。建物でも実在し、そこから見れば、展望がよくなり、この地の重要性を想像することもできたかもしれません。

 

過去の人々の生活を忍びがてら、ウォーキング、森林浴に、岩村城に登るのはいかがですか。