神は霊です。

 

[ヨハネの福音書 4:24]

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

 

わたしたちは、この見えない方を礼拝します。


 

わたしたちは、神を

御霊と真理によって礼拝します。

わたしたちの主であるイェシュア・マシアッハ(イエス・キリスト)が言われたとおりに、です。

(上記聖句参照)

 

御霊は、もちろん、

わたしたちが主イエス・キリストを信じたときに受ける聖霊のことです。

真理は、神のみことばであり、

わたしたちが聖霊によって、直接語られる実際のキリストのことば、また神のことばです。

 

 

わたしたちはどちらにしろ

イエス・キリストを通じて神を礼拝します。

なぜなら、キリストは神のことば(黙示録19:13)

であり、聖霊はキリストの霊、また神の霊だからです。

 

[ローマ人への手紙 8:9]

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

 

 

 

 

また、神は愛です。

 

[ヨハネの手紙 第一 4:8]

  愛のない者は神を知りません。

  神は愛だからです。

 

 

 

神の愛は、恵みとしてわたしたちのところに来られました。

それはイエス•キリストが十字架上で達成された、神の恵みとしてのイエス・キリストです。

 

[ヨハネの福音書 1:17]

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 

 

ギリシア語では「まこと」という単語は「実際」と言う意味も持ちます。

英語では「truth」となっていますが、回復訳では「reality」と記されています。

つまり、「まこと」は、実際に現実化することなのです。

 

 

恵みは、神ご自身がイエス・キリストを通して

わたしたちに分与されることです。

ですから、この恵みは平安という現実を生みます。


 [ローマ人への手紙 8:6]

肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。


 

平安が得られるのは、恵みによってわたしたちが主を愛し、

魂の救いを得ている、ということです。

 

 [ペテロの手紙 第一 1:8、9]

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 

 

恵みが実際化するには、ユダヤ人である使徒たちが伝えた「はじめからきいていること」あるいは

初めの教え、聖書のみの教え、が必要です。

 

[ヨハネの手紙 第一 2:24、25]

あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

 

宗教はこれを歪曲してきた歴史があります。

 

 

わたしたちは、報いを受けるために

主キリストが来られるまで

わたしたちの中におられるキリスト(内住のキリスト)をしっかり持っていなければなりません。

 

[ヨハネの黙示録 2:25]

ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。

 

 

 

わたしたちは、

イスラエルの民が荒野で、

ただ神から与えられるマナを食べて生きたように

わたしたちがイエス・キリストを信じることによって得る新しいいのちは、

イエス・キリストのみを食べて生きるようにできています。

だから、イエス・キリストは、ご自身を天からのパンである、と言われたのです。

 

[ヨハネの福音書 6:32、33]

それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。

神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

 

 

また、イエス・キリストが与えられる、いのちの水を飲むようにできています。

それは、ヨハネ書が言うとおりに

わたしたちが与えられる御霊(聖霊)のことです。

 

[ヨハネの福音書 4:13、14]

イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 

[ヨハネの福音書 7:37〜39]

 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 

 

 

わたしたちが、いのちのパンを食べ、キリストの血にあずかり、いのちの水を飲むとき、

わたしたちは、光の中を歩みます。

 

[詩篇 36:9]

 いのちの泉はあなたとともにあり

 あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。

 

[ヨハネの手紙 第一 1:7]

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 

 

それは、御霊(聖霊)がキリストの光となって、

わたしたちの足下を照らし、

この暗やみの世の中で導きとなってくださる、ということです。

ですから、わたしたちは迷うことがありません。

 

 

御霊に従うことは、新しい契約の民の責務でもあります。

[ローマ人への手紙 8:4]

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

 

 

 

 

 

神はいのちであり、光であられます。

それは、わたしたちにもキリストを通して光となられます。

 

[ヨハネの福音書 1:4]

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 

 

いのちは神のものであり、

イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられます。

 

[ヨハネの福音書 3:16]

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 

神には、暗いところがありません。

そして真理は、この光を源としています。

 

[ヨハネの手紙 第一 1:5]

 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

 

 

ですから、

わたしたちが神のいのちを受けているのなら、

わたしたちが困難な状況にあったとしても

活気がないように見えても

わたしたちの中にはいつもキリストの光が宿っています。

 

ですから、イエスは弟子たちに

あなたがたは世の光である、と言われたのです。

[マタイの福音書 5:14]

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

 

 

この「愛」と「光」と「いのち」が

聖書の教えの実体です。

 

 

 

新約の教理は、使徒パウロが完成させました。

しかし、それにもかかわらず

聖徒たちの中で、本来の教えから大きくかけ離れていく者たちがいました。

ユダヤ的律法を重視したり、グノーシス主義という悪魔の教えもはびこりました。

 

 

この福音の、破れた網を繕ったのが、ヨハネでした。

この聖書の実体である、

「愛・光・いのち」について証ししたのです。

 

 

ヨハネは、イエスの胸元によりかかって話した弟子です。

それほどにイエスの心の近くにいたことがわかります。

 

この聖書の教えの実体である

「愛・光・いのち」

これらなくして聖書を学ぶことは

何と勿体ないことでしょう。

実は、それほど益とはならないものです。

 

わたしたちは、主が来られるまで

この「愛・光・いのち」を回復しなければなりません。

 

 

しかし、どうでしょうか。

兄弟たちは、肉の知識ばかりを追い求め

自分自身を求め、(ピリピ2:21)

この実体である「愛・光・いのち」に欠けてはいないでしょうか。

 

肉の知識とは、

アダムとエバが食べたようなものです。

それは、見るからに賢くしてくれそうで好ましかったのです。

[創世記 3:6]

そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

 

一方、いのちの木とはキリストです。

わたしたちはこれから食べることを求められています。

キリストだけを、いのちのパンだけを食べるのです。

 

[ヨハネの福音書 6:35]

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 

 

わたしたちの義は

神のためにどれだけ働いたか、ではなく

どれだけへブル語を学んだか、でもなく

キリストをどれだけ食べたか、であると考えます。

 

もちろん、

それぞれ主から与えられた賜物を持っていますし、

役割はそれぞれ違えど、です。

 

キリストとのプライベートな秘め事が

わたしたちとの間にあれば、きっと報いを受けられるでしょう。(黙示録3:17)

 

 

いのちの木を食べるには

十字架が欠かせません。

十字架とはすなわち、神への従順です。

 

常にわたしたちが十字架を持ち

絶えず自分の罪を悔い改め、神に向き直っているか

ということが大切です。

 

そして、それはわたしたちが

主の愛の中にいることを示しています。

 

[ヨハネの手紙 第一 2:5]

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

 

 

ヨハネは、神の命令を守ることが神を愛することだ、と言いました。

[ヨハネの手紙 第一 5:3]

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。

 

 

わたしたちが、自分の思いや考えで何かをするとき、

すでに善悪の知識の木から採っているのです。

神に従順に従うときだけ

わたしたちはキリストを食べます。

 

そうして、わたしたちの新しいいのちは

キリストで満たされていきます。

 

 

わたしたちがキリストで満たされたとき

わたしたちは、天からの光を感じることでしょう。

そして 心から、身体いっぱいに神を褒めたたえることができるでしょう。

 

 

 

天は、愛と喜びと秩序の世界です。

 

わたしたちの自由意志は、

神への従順を証しするために

わたしたちに与えられたものです。

 

 

わたしたちは、

罪を無くすることができません。

わたしたちの肉が、アダムの罪によって堕落したからです。

 

しかし、

主キリストが与えてくださった十字架によって

罪はきよめられます。

[ヨハネの手紙 第一 1:9]

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

 

 

わたしたちが完全であるためには

ただ、「愛」において完全であることなのです。

 

[マタイの福音書 5:48]

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

 [コロサイ人への手紙 3:14]

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

 

 

しかし、

この「愛」がどれだけ軽視されていることでしょう。

 

わたしたちが恐れを抱くとき、

それは愛において全き者となっていません。

 

[ヨハネの手紙 第一 4:18]

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

 

確かに、愛することは勇気が必要かもしれません。

 

 

しかし、主に感謝します。

わたしたちは、あなたが与えてくださった恵みによって 恐れを無くすることができます。

 

わたしたちがキリストを表現するためには

「愛」が絶対に不可欠なのです。

 

愛がないところは暗やみです。

あなたの暗やみはどれほどでしょうか。

(マタイ6:23)

 

 

 

わたしたちが

豊かに報いを得るために、

神のみこころ、また御思いを知りましょう。

 

もちろん、神は無限なる方ですから

わたしたちがすべてを知ることはできません。

 

しかし、愛によって

神はご自身をキリストにより、聖霊を通して、

わたしたちに証しされます。

それは、わたしたちが

豊かにいのちのパンであるイエス・キリストを食べることによります。

 

神は、わたしたち信じる者に

豊かに与えてくださる神なのです。

 

 

イスラエルの人々が、今も過越しの祭りの日に歌う、

「ダイ・エヌ」という歌があります。

それは、「私たちには十分でした」という意味です。

 

本来、神から与えられるものだけで

わたしたちは「十分」なのです。

神に不従順であった古代イスラエルの民について

彼らが悔い改めているように感じるのはわたしだけでしょうか。

 

 

キリストなる「いのちのパン」で

毎日毎日、あなたが豊かに満たされますように…。

 

 

[マタイの福音書 6:11]

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 

 [詩篇 133:1]

 見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。

 兄弟たちが一つになって ともに生きることは。