※はじめに、このブログはすべての聖徒たちに考えを促すものであり、

解釈についてはすべてこの限りではありません。

 

 

 

はじめに神は天と地を創造された。(創世記1:1)

 

へブル語では

「ベレーシート バーラー エローヒーム エート ハッシャーマイム ヴェエート ハーアーレツ」

となります。

 

へブル語の単語の意味は複数、

または真逆のことさえ指すことがあり、

隠された意味がそこに込められていることがあります。

ですから、わたしたちが原語で理解することは

容易ではありません。

 

ベレーシート(はじめに)は「初穂によって」と訳すことができ、イエス・キリストを暗示します。

エロ―ヒーム(エルの複数形)は父子聖霊、

三位一体の神のことを指しています。

 

天と地とは、神の御住まいのすべてです。

イザヤ書にあるとおりです。

 

[イザヤ書 66:1]

  主はこう言われる。

  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。

  あなたがたがわたしのために建てる家は、

  いったいどこにあるのか。

  わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。

 

 また、

「創造された」という完了形は

預言的完了という時制を指すことがあり、

「創造する」という預言を指すとも解釈できます。

 

 

 

 

神は、世界の基が据えられる前から

ご自身のご計画を持って、天と地と人を造られました。

 

[イザヤ書 46:10]

  わたしは後のことを初めから告げ、

  まだなされていないことを昔から告げ、

  『わたしの計画は成就し、

  わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

 

 

それは、キリストによって

神と人とが共に住む家を創造される、ということです。

 

 

家はへブル語で「ベイト」といいます。

家=「ベイト」というへブル語のへブル文字の構成は(右からベート、ヨッド、タフ)なので

家は神の豊満を凝縮したイェシュア(ヨッド)によって完成する、という意味が考えられ、

創世記1:1と合致します。

 

 

「神の家」という言葉が初めて登場するのは、

ヤコブが、天のはしごの夢を見、神の臨在の場所をべテルと名づけるくだりです。

 

[創世記 28:10、11]

 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。

彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。

ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。

 

[創世記 28:12]

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた

その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

 

[創世記 28:16〜19]

ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ

そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。

 

 

べテル=神の家、と言う意味です。

はしごは、天と地をつなぐイエス・キリストです。

 

 

このヤコブが枕とした石は

キリストを暗示しているのでしょう。

キリスト、という名称は元々「油そそがれた者」という意味です。

 

こうしてヤコブは柱の頭に油を注いだとありますが、

このことは、詩篇133篇を想起させます。

 

[詩篇 133:2]

 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。

 それは ひげに アロンのひげに流れて

 衣の端にまで流れ滴る。

 

 

 

この聖句は頭であるキリスト(石)から

聖霊(油)が分け与えられ

神の家である教会(エクレシア=召し出された者たち)を

キリストが建てられる、ということを意味しています。

 

教会=霊の家です。

 

アロンはイスラエルの大祭司です。

一方、キリストは新約の聖徒たちの大祭司です。

 

 

そして、すみずみまで油が行き渡る、つまり聖霊が与えられるというビジョンです。

この詩篇133篇は「神の家で兄弟たちが共に住む喜び」を伝えていますが、

ひとりひとりが聖霊を通して頭(かしら)であるキリストにつながっていなければ、

この喜びは達成しません。

 

ですから、この預言の喜びが成就するのは、メシア王国(千年王国)のことです。

 

教会はキリストのからだであり、花嫁であり、

やがて新エルサレムとして、永遠の未来に神の御住まいとなられるところです。

天の門はキリストです。

 

 [ヨハネの福音書 10:9]

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

 

 

 

アブラハム・イサク・ヤコブの父祖の時代の後、

モーセの時代になって

モーセは幕屋(移動式の神殿)を建てます。

そこには神の臨在(シャカイナ・グローリー)がありました。

 

幕屋は構造、材質、寸法、すべてにおいてキリストを表していました。

また、そこに配置された用具すべてにおいても同様でした。

これこそが、キリストが建てる神の家(御国)の設計図といっても過言ではありません。

 

 

幕屋=「ミシュカーン」というへブル語のへブル文字の構成は(右から、メム、シン、カフ、ヌンソフィート)

 

なぜなら、幕屋はキリストを現わし、

すべてにおいてキリストを示す材料(聖徒たちを予表しています)を用いて造られ、

昼も夜もいつも完全なる神の臨在とともにあったからです。

 

また、神の民の中で祭司とレビ人が宮の中で仕え、

その他の民はその中を出入りしました。

 

これは黙示録21章24〜26節にあることの予表と考えられるのではないでしょうか。

 

[ヨハネの黙示録 21:24〜26]

諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。

都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。

 

 

そういうわけで、モーセの幕屋は完全なる神の家、

「新エルサレム」(黙示録21章)の予表であると考えられます。

 

 

 

[出エジプト記 40:34〜38]

 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。

旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった