「はじめてのおつかい」という番組があります。(現在もあるのかわかりませんが)

小さな子供がひとりで初めて買い物に行き、その様子をお母さんがこっそりと様子をうかがう…という内容です。

ほのぼのとした番組づくりが好きでした。


最近、埼玉県の「虐待禁止条例改正案」が

TVで話題騒然となりました。


子どもだけの登下校や留守番は虐待にあたる、

とするもので、多数の反対署名などもあり、

結果、埼玉県議会で廃案になりました。



子どもへの愛と信頼があれば

それが虐待ではないことは 明らかですね。



さて、神は

愛する御子を、わたしたちに遣わされました。


これがイエス•キリストです。

「救い」という名の救い主です。


[ヨハネの福音書 3:17]

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


しかし、このイエスキリストが

人だと思っている人もいれば、神と思っている人、

神であり、人である、と思っている人もいます。




聖書は何と言っているのか、

それを検証していきましょう。



ローマ帝国のつくったキリスト教では、宗派による争いがあり、宗教会議で帝国の宗派を定めました。


以前のブログで述べたとおりです。



聖書の考え方では

イエス•キリストは「神であり、人である」ということです。

これはアタナシウス派(ローマ教会)、ネストリウス派(または東方諸教会)に共通しています。


聖書に書かれているとおりです。


[ヨハネの手紙 第一 4:2]

神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。



しかし、いくつかの疑問が起こります。




なぜ、処女のマリアから生まれたのか?

 なぜ、神は御子を人としてお遣わしになったのか?

③なぜ、十字架にかけられたイエスが神(の子)と言えるのか?




なぜ、処女のマリアから生まれたのか?


マリアの夫はヨセフですが、

イエスの父は神であり、母はマリア(人)です。

ヨセフとマリアの子であれば、イエスが神の子であることはできません。


こうして神と人とのハーフ、神であり、人である

イエス•キリストが誕生します。


[ルカの福音書 1:31]

見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。


[ルカの福音書 1:34]

マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」


[ルカの福音書 1:35]

御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。


[マタイの福音書 3:17]

そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」



また、イエスは聖なる者となるために

清い身体の処女であるマリアから生まれたものと考えられます。






 なぜ、神は御子を人としてお遣わしになったのか?




⚫︎人間が罪を犯したから


神と永遠に住まうはずの人間(アダムとイヴ)が罪を犯し、穢れて(霊的な死)しまったので、その罪を贖う(罪の赦しを得させる)必要がありました。


[エペソ人への手紙 1:7]

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。




⚫︎人間が神を怖がったから


モーセの時代に、シナイ山で神がイスラエルに語られました。

雷は鳴るし、山は燃えて煙っていたので、イスラエルの民は震え上がって、神が直接語らないように、と懇願しました。


[出エジプト記 20:19]

彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」




⚫︎人間とひとつとなるため


キリストはエクレシア(召し出されたものの集合体)をつくられました。これは「教会」と訳されていますが、建物や教団を意味しません。霊的な家です。


「キリストのからだ」と聖書にはあります。


この霊の家を築くために、キリストは十字架上で肉体を神に捧げ、いのちを与える御霊となりました。



[コロサイ人への手紙 2:19]

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。




⚫︎神の子どもたちの長子となるため


キリストに属する者はすべて

キリストのように歩むことになります。


そうして、キリストが再来されるとき

死んだ者はキリストのように復活し、生きている者は死を見ないのです。



[ローマ人への手紙 8:29]

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。


[ヨハネの福音書 6:40]

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」




③なぜ、十字架にかけられたイエスが神(の子)と言えるのか?



十字架につけられ息を引き取ったイエスは、

よみがえられました。

それは、使徒たちが自分のいのちを懸けてさえ証しした真実です。


[ペテロの手紙 第二 1:16]

 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。


旧約聖書にも預言されていました。



[詩篇 16:10]

 あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず

 あなたにある敬虔な者に

 滅びをお見せにならないからです。


イエスがキリスト(救い主)であると証しした人は

他にもたくさんいるのです。

羊飼いたち、天文学者たち、ザカリヤ、エリサベツ、バプテスマのヨハネ、女預言者アンナ、十二使徒と弟子たち、マグタラのマリアなど…


そして

キリストの復活を見た人の数はなんと、500人というのです。


[コリント人への手紙 第一  15:6]

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。



こういうわけで、イエスかキリストであることは

多くの人に証しされました。


死からよみがえるのは、前例がなく

神でしかあり得ないからです。

キリストは、よみがえりの最初の人となりました。




神は愛するひとり子、御子を

わたしたちの罪の贖うために

肉体を持った人として遣わされ、十字架にかけ、

また、霊の家を築くために

復活し、いのちを与える御霊となったのです。


この わたしたちへの神の偉大な愛、恵みが

イエス•キリストの中に凝縮しているのです。



[ヨハネの手紙 第一 4:10]

  私たちが神を愛したのではなく、

  神が私たちを愛し、

  私たちの罪のために、

  宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

  ここに愛があるのです。