どうするかな家康-(7) ・・・「鷹狩と家康公」チョイ齧り  442 | 70代からのウィズブログ! 

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何を書くかは、その日見つけた好奇心&やる気次第。

Slowになった体力・知力・想像力を少しでも長くキープできればな~、が思いです。

はてさて、どこまで・・・どこまで・・・ 続けられるやら。

 

    

 駿府城本丸跡の鷹&家康公像(2017/9撮影)    行田市郷土博物館の企画展図録(表紙)

 

 ・・・・・・・・・・・・  ❖  ・・・・・・・・・・・・

 

 

家康公がらみで [鷹狩]をチョイ齧りしようと 思ったのは

 

 

「鴻巣御殿」なる 存在史実を知った事 (ブログ221の際)

 

 

2023NHK大河主役の 「松潤家康公」が 番宣プレ番組に出演

 

 

その際 [鷹狩]を チョイ体験していた場面が どうも気になったからだ

 

 

 

 

NHK 「どうする松本潤? 徳川家康の大冒険」より

 

 

 

《何と 鷹狩で 松潤家康公が  走っていた?!

 

 

という場面に 遭遇した事からでもある

 

丸レッド

 

 

それまで筆者シニアの 「鷹狩」知識といえば いつぞや

 

 

「鷹匠」なる職業の方が TVドキュメンタリーで取り上げられ

 

 

その番組の 鷹狩内容を 微かに 記憶していたぐらいであった 

 

丸レッド

 

よって 鷹匠から飛び立った鷹が 獲物を捕らえた際 家康公の取巻き部下が

 

 

その獲物をゲットするために ダッシュする と思っていたからである

 

 

 

 

※ 鷹匠【たかじょう】

公家・武家に仕え,鷹狩(放鷹(ほうよう))に使う鷹の飼育・訓練を行い,

また鷹狩に従事する。

 

江戸時代には幕府・諸藩の職制として位置付けられ,幕府では若年寄配下,

鷹匠頭を除いては小身の旗本が任じられた。

 

生類憐みの令発布に伴い一時廃絶したが,1716年徳川吉宗によって復活。

明治維新後は宮内省式部職猟場係の管理下となった。

(出典 平凡社百科事典マイペディア)

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   タコ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

なるほど この松潤(家康公) & 本郷先生(ガイド役)の 

 

 

番宣プレ大河(2回シリーズ)は オモシロかった

 

 

特に シリーズ第2弾が 興味津々であった

 

 

カンタンに そのポイントを ご紹介してみよう

 

 

 

 

 

 

❖ 第2弾テーマ 「家康はなぜ天下人になれたのか」

 

 

# 天下取りの秘密その1 「乗馬」

天下をとった徳川家康。当然、勝ち戦だけではなく負け戦も経験。

 

戦で命を落とさなかったその秘密は、日々訓練に明け暮れた「乗馬」にあった

 

 

# 天下取りの秘密その2 「鷹狩」

家康がほかの武将に負けなかったのが、健康長寿。

 

それを支えていたのは、実は「鷹狩り」だった

 

 

 

 

 

# 天下取りの秘密その3 「聞香・もんこう

関ヶ原の戦いの前、家康が心を落ち着かせていたのが「香」。

 

家康が集めていた香木も登場。

 

 

・・・・・ おそらくは 「どうする家康」 の結果から得た 数多くの人生経験

 

 

                 その集約された教訓が 上述の3点であろう ・・・・・

 

 

 

 [さすがに家康] 天下人となったのだ

 

 

 

 

ベル では次に ちょいと 「鷹狩」について 齧ってみることに ベル

 

 

 

❖ 「鷹狩」とは

狩猟の一種。鷹を放って野鳥などを捕える方法。アジア大陸に起源があるといわれ,中国では前 2000年頃,メソポタミアでは前 1200年頃から行われていた。

 

日本でも古くから行われ,『日本書紀』の仁徳天皇の条に鷹甘部 (たかかいべ) が

設置され,鷹の飼養がなされたとある。

 

また6世紀頃の埴輪人物像に鷹匠の像が数例発見されている。

 

平安時代以降は天皇・貴族をはじめ武家の間でも練武を兼ねて盛んに行われた。

 

天皇の鷹狩は野行幸 (ののみゆき) ,その鷹場は禁野 (しめの) といわれ,

一般人の立入りが禁じられた。

 

その好むところによってオオタカ,ハイタカなど各種の鷹を用い,

鷹狩の際の装束も種々あった。

 

明治以降は衰退。

出典 ブリタニカ国際大百科事典

 

 

鷹狩絵巻「鷹狩行列の一部」 (埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

 

 

星

 

 

❖ 徳川家の 「御殿・御茶屋」と「鷹狩」

 

 

 * [御殿・御茶屋 ] (ごてん・おちゃや)

御殿および御茶屋は、江戸時代に将軍や大御所および世子が江戸近郊へ

 

旅行や外出する際に利用するため、江戸幕府が江戸城外の各地に設置した施設。

 

宿泊用としたものが「御殿」、小規模なものが「御茶屋」とよばれた。

 

 

御殿・御茶屋を設置利用する目的は、旅行用とレクリエーション用に大別された。

 

 

上洛・駿府往復・日光社参などの旅行での利用があり、江戸 - 京都・日光間の

 

各経路沿いに設置された。

 

 

一方で鷹狩などのレクリエーションでも、御殿・御茶屋に休泊することがあった。

 

 

徳川家康の時期には、東は東金御殿(千葉県)、北は忍(埼玉県)と

 

50km圏にまで達し、何日も滞在して実施したことがあった。

 

 

また、家康は鷹狩を名目に民情視察・土豪の懐柔・必要な人物の非公式引見等

 

政治上の意図があったという。徳川家光の時期では、ほとんどが日帰りの休憩所

 

として利用され、江戸城より15km圏に配置されていた。

(Wikipediaより)

 

 

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山の不二」

東海道に面した御殿山には、17世紀に将軍家の品川御殿が置かれた

 

 

 

 *参考 [近世初期における将軍家御殿・御茶屋跡の考古学的研究]

 

 

  「研究概要」 

  2) 近世初期将軍家御殿・御茶屋跡の地名表作成

各種の史料から将軍家御殿・御茶屋の記事を引き出し、その遺跡の所在地を明らかにして、遺跡地名表作成の基礎となる資料集成を行った。

 

その結果、昨年度に集成した97ヵ所のほか、さらに6ヵ所を加えることができた。

(97+6=103ヵ所)

 

 

  3) 将軍家御殿・御茶屋跡の現状調査

鴻巣御殿跡に関連のある埼玉県越谷市の越谷御殿跡と同市増林御殿跡、

 

さらに同県北本市石戸御茶屋跡・同県浦和市浦和御殿跡・同県蕨市蕨御殿跡

 

・同県行田市忍城跡、神奈川県平塚市中原御殿跡の現状調査を実施した。

  公開日: 1996-04-07   更新日: 2016-04-21

KAKEN — 研究課題をさがす | 1994 年度 実績報告書 (KAKENHI-PROJECT-05451074) (nii.ac.jp)

 

 

東海道・中原街道筋の御殿・御茶屋 (Wikipediaより)

 

 

 

 

 

 徳川三代の「忍・鴻巣来訪と鷹狩」状況 「鷹狩と忍城」/行田市郷土博物館

 

[徳川家康] 天文11年12/26(1543/1/31)~元和2年4/17(1616/6/1)享年75才

 

[徳川秀忠] 天正7年4/7(1579/5/2)~寛永9年1/24(1632/3/14)享年54才

 

[徳川家光] 慶長9年7/17(1604/8/12)~慶庵4年4/20(1651/6/8)享年48才

 

 

 

 

* 家康公の埼玉県来訪での こんな資料(行程表)もあり

 

 

 

 

 

 

 

 

ビックリマーク  ビックリマーク  馬  馬  馬  わんわん  馬  馬  馬  ビックリマーク  ビックリマーク

 

 

 

 『鷹狩ゆかりの武蔵・史跡』をチョイ巡り

 

 

[1] 忍城(行田市)   ・・・(※)忍城本丸跡は 「忍御殿跡」という

 

* 家康は忍城も鷹狩の拠点としており、城内に専用の御殿があった

 

 「徳川将軍家の鷹狩」 と 「忍城主の鷹狩」

 

* 『将軍様に習い 大名様も「鷹狩」でハイクラス気分を味わっていた』

 

 

〈例〉 当時の忍城主・阿部家の鷹狩挙行(忍城周辺)

寛文7年(1667) ~ 寛政12年(1800)

 

 

 

ダウンダウンダウン

《 忍城内にも 「鷹場」と呼ばれる エリア&名があった 》

 

 

忍城址からは 餌にされたと思われる 犬や鳥の骨が出土している。

 

 

現在地図と重ねてみることが出来る 城内今昔地図を 博物館でゲット

 

 

見ると 当該の鷹場エリアは 現在まさに 住宅街であった

 

 

従って 鷹場跡なるものは 巡っても 確認不可と言われた

 

 

「忍城今昔地図」を部分拡大

 

 

 

・・・・・ ● ・・・・・

 

 

忍城内の「鷹場跡」が 残念ながら確認できなかった ならばと

 

 

忍城(行田市郷土博物館)の 学芸員の方より

 

 

「愛宕神社」の情報を得たが 指定史跡が非公開との文字を見て

 

 

筆者シニアが 当初予定していた 「法性寺」に向かった

 

 

 

企画展図録より

 

 

 

法性寺は 家康公が鷹狩の際に 休憩をとった場所という

 

 

当地から 南の駅周辺が 鷹場だった

 

 

 

[2] 法性寺(ほっしょうじ)  埼玉県羽生市上新郷5601

 

[山号] 無邊山   [院号] 廣大院   [寺号] 法性寺

 

[宗派] 浄土宗   [本尊] 阿弥陀如来

 

 

徳川家の葵の御紋が目立つ [本堂]

 

 

 

寺内に建立した 家康公ゆかりの [東照権現堂]

 

 

 

堂内には 「東照大権現の石宮」 & 「奉安するお位牌」

有章院殿贈正一位大相國公 尊儀《七代家継》 文昭院殿贈正一位大相國公 尊儀《六代家宣》

常憲院殿 贈正一位大相國公 尊儀《五代綱吉》有徳院殿 贈正一位大相國公 尊儀《八代吉宗》など

 

 

 

 

 

※ 「家康公の鷹狩エピソード」・・・新郷村に伝わる家康の鷹狩伝説

 

羽生市新郷(当時新郷村は忍領)にやってきた徳川家康は、鷹狩りを楽しんでいた。

すると家康の耳に突如、鉦の音と共に誰かが念仏を唱えている声が。

 

家康は興味が湧き、念仏の主・残哲上人の元へ案内させた。

残哲上人は「家康の鷹狩りの無事を祈って、精魂込めて念仏を唱えていた」という。

家康は感激し、残哲上人が 駆けた分の土地を与えた。

残哲上人はその場所にお寺を建てる、

そこが、現在の上新郷に鎮座する「法性寺」で、

境内には東照大権現の石宮が祀られている。

 

(この伝承は 『羽生昔がたり第十九巻』 の第三話に 収められている)

埼玉県北にある徳川家康“鷹狩”跡は? ―法性寺― - クニの部屋 -北武蔵の風土記- (goo.ne.jp)        『羽生市史 上』 羽生市史編集委員会編 『羽生昔がたり』 堀越美恵子 田村治子著

 

 

 

・・・・・ ● ・・・・・

 

 

 

[3] 石戸御茶屋跡(北本市) 石戸宿6丁目にある子供公園の西側一帯

 

 

 

徳川将軍が来た!「御茶屋御殿跡(おちゃやごてんあと)」の発掘調査を実施

 

 

~徳川三代にわたって使用された休憩施設の一部を確認~

 

 

「広報きたもと・2021年8月号」掲載 (特集記事)

 

2021年3月、御茶屋御殿跡の範囲を確認する為、北側部分の発掘調査を実施した。

 

調査の結果、東西方向に走る幅2.6mの堀跡と、

 

南北方向に走る幅1.9~3.2mの堀跡を検出し 

 

ここに御茶屋御殿があった可能性が高まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

《トピックス》 御茶屋御殿跡の遺跡見学会を実施

2021年3月20日、御茶屋御殿跡周辺地域の皆さんや子供公園の来園者を対象に、

 

遺跡の見学会を開催した。

 

 

 

 

 

 

馬馬馬馬馬馬馬   馬馬馬   馬馬馬馬馬馬馬

 

 

荒川に接する この石戸宿6丁目エリアは

 

 

関東戦国期築城の 「石戸城跡」など 多くの史跡がある

 

 

巡るには ピッタリのエリア 現在も室町期の遺跡発掘中だという

 

 

 

 

 

 

 

そんな石戸城跡の至近に 「石戸御茶屋跡」が発掘された

 

 

 

 

発掘して 約一年半後の [石戸御茶屋跡地]を訪ねてみた

 

 

を歩く  エリアは2022年(本年)2回目の発掘現場

 

 

 

当然ながら 看板らしきものはなく 発掘現場は 埋め戻されていた

 

 

まず 子供公園で 地元の方に御茶屋跡を伺ったところ

 

 

おおよそのエリアを ご存知で 確認できた

 

 

よって 公園を出て   記入の道路を巡ってみた

 

 

 

 

 

 

幸いなことに 現場至近の在住の方が 畑仕事らしく作業中だったので

 

 

 

 

立寄り声掛けして 御茶屋跡に関して 訪ねてみたところ

 

 

流石に よくご存じで 本年度の発掘作業情報(やはり堀跡が)

 

 

丁寧に 説明していただいた(感謝)・・・エリア

 

 

 

 

 

以上三カ所の 鷹狩リンクの 史跡巡りであった

 

 

 

 

 

 

 

( ^ω^)・・・ 後記 考記 ・・・( ^ω^)

 

 

 

[石戸御茶屋跡]

 

 

巡った9/22は 広~い耕作地の様だったが

 

 

詳しく教えて下さる ご近所の 親切な方に出会え

 

 

また 揺らぐ 一番の群生にも 出合えて

 

 

更に 由緒ある寺社(神仏習合の気配ある)&狛犬にも

 

 

顔が出せた事 有意義な一日であった

 

 

 

 

 


( ^ω^) #####  FIN  ##### ( ^ω^)

 

 

 

ここにきて [ブログ221]掲載の 勝願寺参詣を 思い出していた

 

 

 

 

 

関東十八檀林の1つで 徳川家康公ゆかりの寺院

 

 

本堂等には 多くの葵のご紋を見ることができた

 

 

 

 

家康公が鴻巣御殿に来訪した時に

 

 

何度も勝願寺(御殿から東に300㍍)を訪れていた古刹である