飯能戦争ゆかりの七ヶ寺を巡る  [一] 観音寺  埼玉県 飯能市 371 | 70代からのウィズブログ! 

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何を書くかは、その日見つけた好奇心&やる気次第。

Slowになった体力・知力・想像力を少しでも長くキープできればな~、が思いです。

はてさて、どこまで・・・どこまで・・・ 続けられるやら。

今は 鐘楼堂に 白い象が・・・  アニメの聖地巡礼で 有名処になっていた

 

 

「白い象」が 鐘楼堂内に・・・?
 

・・・ 鐘桜堂には第二次世界戦争中 鐘が供出されたため 堂のみが残されていたが ・・・

 

カチンコカチンコ  カチンコカチンコ  カチンコカチンコ

 

以下の如き仏教説話を沢山持った「白象」を、昭和40年代にお檀家の方がお作りになられ、

 

縁あって観音寺の鐘楼堂に収めさせていただきました。(当寺HPより) とある

 

 

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◎ 「白象」についての仏教説話・・・観音寺 (archive.org)より--抜粋略記

○白象はお釈迦さまの生母、マーヤ夫人の夢に現れてお釈迦さまの誕生を予言した・・・。

 

○伝説によると、お釈迦さまは、白象の姿になって摩椰夫人(マヤブニン)の胎内に入り、

  摩椰夫人がルンビニー園で無憂樹(ムユウジュ)の花枝を手折ろうとした時に、

  右脇の下より誕生(4月8日)されました。お釈迦さまは誕生されるや、

  四方に七歩あゆんで、右手で天を、左手で地を指差して

  「天上天下唯我独尊(テンジョウテンゲユイガドクソン)」と 声をあげられました。

 

○仏陀の前世について書かれた「ジャータカ物語」に次の一説・・・。

 

○託胎(たくたい)結婚して20年、子宝に恵まれなかった摩椰夫人(マヤブニン)は、

   ある夜、白象が天から降ってきて胎内に入る夢を・・・

 

○昔から象は神聖な動物であり、豊穣の象徴と考えられています。象を所有することは

    高位の証であり、仏教では象は縁起の良い動物だと信じられてきました。

 

以来、観音寺檀家信徒の方々や飯能幼稚園児たちを優しく見守ってくださっています。

 

 

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 飯能市を舞台にしたアニメ作品 ヤマノススメ

 

     

 

漫画・アニメヤマノススメにはこの白象が何度も登場することから、

現在ではアニメのシーンを描いた看板が置かれ、 絵馬が飾られるスペースもある。

 

  

 

寺では各キャラクターを描いた絵馬も販売している。

地元の子供だけでなく、この象を目当てに訪れるヤマノススメファンも多い。

 

 

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漫画「ヤマノススメ」作者 しろ先生に訊く

 

飯能を舞台とした理由。

まず始めは、簡単な山から登るストーリー構成を考えました。オススメできる山として低山で眺望の良い「天覧山」が私の中で一番しっくりきたので「飯能市」を舞台にしたという経緯があります。

 

また、あおい達の学校のモデルになった聖望学園高等学校も、アニメになってから設定が決まりました。

 

ヤマノススメが誕生するまで | 飯能市の魅力 | with+しぜん | はんのうでしぜんとくらす (jyu-g.co.jp)

 

 

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 「飯能鬼子母神」  ・・・観音寺 (archive.org)より--抜粋略記

 

その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。

 

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父の嘆きやいかん」と戒めました。

 

 

  

 

 

そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。


 鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い尊称しております。

 

 

 

    飯能鬼子母神 顔出し看板(記念撮影用)              飯能鬼子母神堂

 

 

 鬼子母神堂 建立趣旨  ・・・(飯能商工会議所 青年部)より 抜粋略記

飯能鬼子母神が、ゆかりの地「真言宗智山派観音寺」に建立され、同住職服部融亮導師により新しく開眼披露されたのは、平成19年11月23日のことです。

吉祥果ザクロを手に持ち、胸に子を抱く鬼子母神は、古来より安産・子育て蓄財吉祥の仏として人々の信仰を集めて参りました。

 

この鬼子母神堂は、観音寺宗祖弘法大師が遣唐使として学んだ長安(中華人民共和国西安市)青龍寺の土が御堂下に埋められており、ザクロの街、西安「青龍寺」とザクロの里、飯能「観音寺」との友好のシンボルでもあります。

 

   

 

また飯能鬼子母神は、ザクロの里飯能の象徴として、飯能商工会議所青年部が創立間もなく進めてきた飯能名物づくり事業の一環でもあり、・・・・・。

周辺の飯能河原・天覧山と共に飯能観光拠点の一つにもなっています。

 

 

 

 

サーチ

 

テレビ番組で観た お寺うどん を・・・ との多数あり

 

 

観音寺の境内には 週末限定で 出店するうどん屋が 人気スポットに

 

 

その名も 「ざくろ庵」 ~飯能鬼子母神堂の対面に位置して営業していた

 

 

  
ざくろ庵 (6月某日曜日の観音寺境内で撮影)

 

 

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[飯能戦争 ~ 観音寺] の テーマの中 

 

 

リンクしてきた 上述の如き 話題3点が 観音寺の 今かも・・・

 

 

当ブログUP活動に 参加していなければ 経験できなかったかなと・・・ 

 

 

 

ベル = すなわち 話題3点を知った事で 知識UP = で感謝! ニコニコ

 

 ◎ 白象からの お釈迦様などの 仏教説話

 

 ◎ アニメ「ヤマノススメ」の舞台が 飯能市&天覧山からだった

 

 ◎ 鬼子母神と ザクロの里・飯能を リンクさせている 

 

 

 

#######  ダウン   #######

 

 

 

ここからは 観音寺の基本概要を 見ていこうと思う

 

(観音寺公式HPを参考に記述)

観音寺 (archive.org)

 

 

 

[参考] 観音寺の境内配置図

 

お願い  お願い  お願い

 

 

 

● 般若山 長寿院 観音寺(はんにゃさん ちょうじゅいん かんのんじ) 概要

 

所在地  埼玉県飯能市山手町5―17

山号     般若山

院号     長寿院

宗派     真言宗智山派

本尊     如意輪観世音菩薩 不動明王 ほか

創建年  810年(弘仁元年)

中興     長誉

札所等  武蔵野七福神・寿老人 武蔵野三十三観音霊場・第24番

高麗坂東三十三観音 第10番

奥多摩新四国八十八ヶ所 第64番

    ご詠歌            高麗の里 緑も深き 般若山 百のみほとけ 頼む気やすさ

 

寺号標 & 参道入口

 

 

                 長い参道(左)                     飯能鬼子母神堂

 

 

 

❖ 観音寺の縁起  昭和55年3月 (境内の埼玉県掲示より)

般若山長寿院観音寺は真言宗の寺で、市街地の中の寺として親しまれ、

江戸時代(文化・文政期ごろ)には、高麗郡三十三ヶ所霊場の10番札所として庶民の信仰をあつめた。

「法の音幾世耐えせず仰ぐらん百の願いの人の心よ」 という巡礼御詠歌も残されている。

 

 

  

本堂(観音堂)

 

現在の本堂は、明治16年(1883)に再建された建物で、それ以前にあった本堂は、慶応4年(1868)に勃発した飯能戦争の際、焼失してしまったそうだ。

 

如意輪観世音を本尊としているが、西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番観音霊場の各御本尊の写しを合わせた百観音も本堂に安置されている。

 

 

 

本堂の左手に建つ間口三間、寄棟造、瓦葺のお堂は、明治42年(1909)に建立された建物で、文殊菩薩・不動明王・持國天・増長天・廣目天・毘沙門天・大歓喜天・茶枳尼天・辯才天・大黒天・布袋尊 & 武蔵野七福神の一つである寿老人 が奉安されている。

 

  

今の呼称は[不動堂]  武蔵野七福神・・・寿老人  古くは[福聚殿]か

 

 

福聚殿の手前に弘法大師像が立っている。その周囲は四国八十八ヶ所のお砂踏み所になっていて、「南無大師遍照金剛」と唱えながら時計回りにゆっくり廻るのだそうだ。

 

 

                         四国八十八ヶ所霊場 お砂踏所

 

 

 

ビックリマーク  ビックリマーク  ロケット  ロケット  ビックリマーク  ビックリマーク

 

 

まだまだ 参詣処が 満載の お寺かな

 

 

 如意さざれ

子授け石、宝聚石とも言われている。

小石がはがれないことから受験にご利益があるとも。

 

 

 

 

 

 仏足石(ぶっそくせき)

釈迦の足の裏の形を表面に刻んだ石。インドの初期仏教では仏がそこにいることを示す

しるしとして用いたが、のち礼拝の対象とされた

 

 

 

 

 

 厄割り石

「厄」の字が逆に書かれた石に「厄落の玉」を落とし、心と体の邪気を払う。

 

 

 

 

 

境内には、鎌倉期のものといわれる五輪の塔や板碑がある。

また俳聖芭蕉の句碑や水原秋桜子の句碑もある。

 

水原秋桜子が読んだ句 むさし野の 空真青なる 落葉かな 

 

 

馬   馬   馬   馬   馬   馬   馬

 

 

観音寺の境内を散策していると 様々な石塔・石像などにであえる楽しみが

 

    

         「孔雀明王」                                   布袋さま

 

  

 

 

 

 

音譜 音譜音譜音譜 音譜 音譜音譜音譜 音譜音譜

 

 

 

        車道から見た「白い象」 &        観音寺からは「飯能河原」・「割岩橋」が望める

 

堂内の建物は、慶応4年(1868)5月に起こった「飯能戦争」によって

 

ことごとく焼失したが、明治16年に再建された。 明治天皇・M16年・天覧山にリンク

 

    

 

★ 第24番札所 観音寺の御朱印と読み方  http://rokumeibunko.com/chizu/junrei/musashino33/gosyuin3.html

【宝印】菱形の三宝印。「佛寶・法寶・僧寶」と記す。縁に唐草のような模様をあしらう。

【朱印】西国坂東秩父百観音安置・高麗坂東十番・新四國六十四番・武蔵野二十四番/(宝印)/般若山長寿院観音寺/梵字は「キリク」本尊如意輪観音の種子。

【墨書】如意輪/観音寺

 

 

 

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ということで 

 

飯能戦争ゆかりの寺 [Ⅰ]   今の 観音寺 如何でしたか

 

 

街中の [交差点・飯能河原] という好立地にある 当寺

 

過去 青梅・奥多摩へと行く際 幾度となく通り過ぎていた 交差点

 

「観音寺」が この交差点角に あろうとは 露知らず・・・ であった

 

 

 

 

 

晴れ晴れ  雨雨  虹虹  晴れ晴れ  雨雨  虹虹

 

 

 

では 最後に 「観音寺」の 飯能戦争ミニガイドを

 

 

市博物館発行の「飯能炎上」情報誌ベースで

 

 

飯能戦争で振武軍宿所となった六ヶ寺マップ  ・・・[Ⅶ]秀常寺は 枠外の為表記なし

 

 

 

 

メモメモメモ  観音寺の様子  メモメモメモ

 

 

  《 山中昇の宿所を 備前岡山藩が襲撃 》

 

観音寺は、

縄市が行われた 飯能の町に 最も近いところにある寺で、

 

「前軍」を指導していた 山中昇の宿所 となっていました。

 


人数は 60人とも150人とも 言われています。

 

 

 

 

備前藩の記録によると、

 

備前藩兵は 観音寺を攻撃し 旧幕府方を散り散りにして、

甲冑1領を分捕り、

 

山中昇の宿所と見えたので 放火させた と伝えられます。

 

 

その結果、 本堂・庫裡が焼失 したものの、  

 

観音堂・表門・裏門・物置は 焼失を免れました。 ・・・既述の「 ことごとく焼失は・・・」??

※ (本堂=観音堂?)・・・未確認

 

 

 

かたつむり  かたつむり  みずがめ座  みずがめ座  かたつむり  かたつむり

※ 参考

 

※ 縄市とは

入間(いるま)川の谷口集落として発達した飯能は,江戸時代には〈縄市〉とよばれた

六斎市が立ち,良質の杉,ヒノキ材の西川材の集散地として栄えた。

伝統的な木製品工業や飯能絹の名で知られた繊維工業に代わって,…

 

※ 六斎市(ろくさいいち)

室町時代から江戸時代中期,各地で月6回開かれた定期市。

商業の発展につれて,月3回の三斎市は,月6回の市に発展した。

市日は,1・6,11・16,21・26などといった一定の組合せで開かれた。

江戸時代,関東・東北の農村で長く残った。 

     [参考] 江戸時代の武州飯能六斎市と周辺地域との関係

 

 

  

 

 

 

 

今の観音寺 長い参道の 突き当り奥には 「不動堂(福聚殿)」

 

「本堂」は その手前の右手に・・・

 

なんとなく リニューアルしたい本堂 と思ったのは 筆者シニアだけだろうか

 

 

ただ 「本堂」の正面は 車道(街道)へ出る裏門らしきものが 

 

 

古くは こちらが表門だったかも

 

 

 

いずれにせよ (菅総理の口癖かな?) グラサン

 

 

現在の観音寺は 飯能市の 《好立地》にある   飯能駅からも徒歩15分ぐらいか

 

 

すぐ南には 「飯能河原」があり 少し北へ行くと 「能仁寺~天覧山」へ

 

アクセスが GOODだった ゆえか

 

 

今回のテーマに関して 筆者シニアは 3度も「観音寺」を 参詣していた

 

 

宝石ブルー

 

 

長~い参道沿いには 多くの「スイレン鉢」が 涼しげに 並んでおり

 

 

8月頃 当寺を参詣できれば 睡蓮と参道のコラボフォト が楽しめるであろう

 

 

 

 

 

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さあ 次回の 飯能戦争ゆかりの寺 [Ⅱ] は・・・ わんわん