埼玉県熊谷市・熊谷寺とその周辺をチョット巡る・・・(2/2)207 | 70代からのウィズブログ! 

70代からのウィズブログ! 

何を書くかは、その日見つけた好奇心&やる気次第。

Slowになった体力・知力・想像力を少しでも長くキープできればな~、が思いです。

はてさて、どこまで・・・どこまで・・・ 続けられるやら。

前掲(6)・チョット巡る(1/2)の 1)熊谷寺 の続きです、ご覧ください。

 

    奥が [熊谷寺の鐘楼]で 手前が「奴稲荷神社の境内」        [奴稲荷神社境内の熊谷桜ガイド板]

 

 

2)奴伊奈利神社(熊谷奴稲荷神社)  

熊谷寺山門の右側に位置する神社、小さな神社ながら何やら由緒ありと感じ、また熊谷寺に隣接するところから明治の神仏分離の残照だろうと推測、やはりジャストミートでした。(境内は駐輪場として有効利用されている)

 

境内掲示の奴伊奈利神社の由緒書きより》 ・・・長文の為以下抜粋

当社の創建は元久2年(1205・鎌倉) である。
日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷次郎直実は、戦場で数々の危難に遭っても、必ず熊谷弥三左衡門という武士によって助けられ、勝利を得た。余りの不思議さに直実が弥三左衡門にその素性を尋ねたところ「吾は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがために熊谷弥三左衛門と現じける」と言い、忽然と姿を消した。その霊威に感じた直実は、帰陣の後、熊谷寺境内に祠を設け稲荷大神を祀り、居城の鎮守とした。以来、当社は弥三左衛門稲荷と呼ばれるようになった。

 

熊谷やっこ

 

その後、慶長年間(1596-1615・桃山)に熊谷寺中興の祖・幡随意上人が社殿を再建し、享保4年(1719・江戸) には正一位の神位を受けた。

 

明治に入ると、神仏分離によって熊谷寺の管理を離れ、明治2年に鎌倉町の八坂神社境内に一旦遷し祀る。同31年9月に仲町有恵の奉賛と協力により、旧杜地(現在地)に遷座され、村杜として厚く信仰されるようになった。維新前まで熊谷寺境内に東照宮が祀られていた。明治2年神仏分離に伴い、伊奈利神社へ合祀され、現在に至っている。

 

江戸時代には特に男の子を病魔から守るため、髪を奴姿に刈って、神仏の加護を受けようとしたことから「奴稲荷」と呼ばれるようになりました。

 

3) 熊谷 聖パウロ教会

熊谷寺の外溝を周っていた際、道路を挟んだ角にでんと構えていた建物が当教会です。こんなところにレンガ造りの立派な教会があるとは予想外でした。蛇足ながら当日、この十字路で「一旦停止違反」の警察業務と遭遇しました。

 

熊谷聖ぱうろきょう

 

大正8年(1919)にアメリカ人ウイルソンの設計監督によって建設されたキリスト教・聖公会の総レンガ造りの聖堂です。英国国教会を母体として広められた聖公会の教会として、熊谷で伝道が始められたのは明治15(1882)年からでした。現在も礼拝が行われています。
 建物は鐘楼を持つ平屋建ての教会で、鐘楼の1階部分が入り口ポーチとなっています。外壁、内壁ともレンガによる建築ですが、小屋組みは木造です。
大正12年(1923)の関東大震災にも耐え、昭和20年(1945)の熊谷空襲の被災も免れた市内に残る貴重な近代建築です。      (熊谷市HPより)

 

番外) 「明治天皇熊谷行在所址」の石標 

熊谷寺近くを通過中、ふと目に留まったのが「明治天皇熊谷行在所址」の石標らしきものでした。
余りにもみすぼらしいので気になり確認の為立ち寄ると、そのエリアは、小さな神社の境内らしく、現況は貸駐車場となっていました。

 

たけい明治天皇熊谷あん

    [国立国会図書館デジタルコレクションより]

 

 

後刻調べたところ、『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料. 第2輯 明治天皇御遺蹟之部』に

それらしきエビデンスが見つかったので、一安心。 (マチガイでなければ、ですが・・・)

更に 《 竹井耕一郎 》 という方を調べたところ、やはりというか! 

あの星蹊園をつくった竹井澹如のご長男でした・・・。

・・・・・明治天皇は明治11年9月1日、北陸東海ご巡幸に際し竹井耕一郎宅を行在所とされました。また昭憲皇太后は明治6年の富岡製糸場の行啓の折にも竹井宅にご宿泊されています。なお残念ながら、記念碑などすべて焼失し残っていません。 

                            [明治神宮崇敬会HP・熊谷支部だより転載]

 

◆諸井恒平(日本煉瓦製造専務・秩父セメント社長・秩父鉄道社長)

         ・・・妻:竹井みち(竹井耕一郎の妹

 

4) 千形神社(ちかたじんじゃ) 

せっかくだからと併せて、この石標のある小さなやはり神社を参拝、「千形神社」という神社名に興味を持ち、後刻調べてみると 《 直実ゆかり 》 が見えてきた。

 

鳥居をくぐった右側に本町一、二丁目の有形文化財「山車」倉庫があり、さらに進んでいくと左手に神楽殿、正面に拝殿、奥に本殿があり、小さいなりにも形の整った神社でした。

 

千形神社の由緒: 

直実の父である直貞の「熊退治」に関する逸話にまつわる神社です。

直貞が熊を退治した際に、熊から血が流れ、その場所に社を建てて「血形明神」を祀ったとの言い伝えがあります。江戸時代には境内で草相撲が行われ、神社には相撲の板番付が奉納されています。

《熊谷市立江南文化財センターHPより転載》・・・別説あり

千方じ千方じ

 

当社の社名は、初めは「血形」と書いていたが、いつのころからか「千方」と書くようになり、それが更に「千形」と書くようになったという。なお「熊谷寺縁起」によれば、熊谷直貞による熊退治は、永治年間(1141-42)のことと伝えられている。
江戸期においては、熊野権現杜と共に円照寺の持ちであったが、実際の社務は、当社の境内にあった当山派修験の万光院が行っていた。神仏分離の後、当社は明治7年2月に村社となったが、熊野権現社は無格社であったため、同40年に高城神社へ合祀された。(「埼玉の神社」より)

 

*むむっ!、 ひょっとしてこの熊退治から地名がついた?・・・でネット検索してみました

(真偽はともかく、下記に掲載)

 

 

❖地名の由来・・・wikipedia( 小学校社会科副読本「くまがや」3年(熊谷市教育委員会) 113頁)

熊谷という地名のおこりには諸説ある。いずれの説も、平安時代後期には既に地名となっていたと推測される。

*熊谷直貞(当時の平直貞。熊谷直実の父)が、この地域に存在した熊を退治したことによるもの。ただし、直貞が熊谷氏の姓を名乗るようになったのは、熊谷が地名となった後のことである。

*神谷(くまけや)より。高城明神の鎮座によるもの。

*曲谷(くまがい)より。この地域において荒川が大きく蛇行し、曲がりくねっていたことによるもの。

 

 

5) 高城神社

千形神社が高城神社に合祀された、ということで調べてみると、高城神社は延喜式神名帳に記載されている式内社(旧社格は県社)。更に熊谷郷の総鎮守。熊谷直実が崇敬していたという。

 

さすれば、《参詣せねばならぬ》 と訪ねました。さすがに暑い夏、境内で見かけた参詣者は、六社参りをされていた中年女性おひとりのみでした。 新型コロナ対策もしっかりしたお社でしたね。

 

高城神社 熊谷市

 

【由 緒】

創建は奈良時代以前と伝えられており、『延喜式神名帳』に「大里郡一座髙城神社」と記載されていることからもそのことがうかがわれる。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原の北条征伐において、忍城(現・行田市)が攻められた際、髙城神社も災禍に遭い社殿を焼失した。

 

高城神社

        [鳥居下から見た拝殿]                        [拝 殿]

       《手水舎には蓋が》        *コロナ対策(例)       《鈴緒は天井に》

 

その後の寛文11年(1671)に再建されるのだが、それは忍城主であった阿部豊後守忠秋が「髙城神社は式内社」であることから社殿再興を図ったことがきっかけであった。この時に再建された本殿と拝殿は、今も当時の面影そのままに残されている。

     (なお本殿・拝殿・手水舎以外の建物は昭和20年8月14日の熊谷大空襲によって焼失)

 

[亀の石像]
東日本大震災の復興祈願と第62回式年遷宮の奉祝事業として、平成26年に建てられた石像。昔神社の境内には池があり、たくさんの亀が自生していました。亀は長寿や幸運の象徴ですが、世界を支えているという伝説もあることから、不動の象徴とも云われています。頭を撫でたり甲羅をさすったりと参拝の方々に親しまれています。

 

               拝殿前の 《亀の石像》                  《青銅常夜燈》

「青銅常夜燈」

熊谷市の有形文化財に指定されている常夜燈で、天保12年(1841藍染業者によって奉納されました。

江戸時代の後期、武州紺と呼ばれる綿織物が生産され、羽生を中心とする北埼玉一帯で盛んに取引されていました。燈の台座には江戸や高崎、京都の業者を含む150もの藍染業者の名前が刻まれていて、当神社が厚い崇敬を受けていた事実を今に伝えています。

 

 

[六社]

伊奈利大神、鹿島香取大神、大国主大神、八幡大神、琴平大神、白山大神の六社をお祀りしている。酉の市で授与している熊手は、こちらの大国主大神の御神徳が込められたもの。

 

                     《六 社》                      《ケヤキの御神木》

[御神木]

樹齢800年ともいわれる巨大なケヤキ。近年洞(ウロ)が広がり、中から外の光がはっきりみえるようになった。境内には他にも樹齢600年程度のケヤキが数本ある。

 

 

5) 東竹院

~ 忍領三十四所4番、熊谷七福神の寿老人、寛永19年(1642)には寺領30石の御朱印寺 ~

 

熊谷直実と所領の境界を争った久下直光の菩提寺ならば訪ねなければならない。また、事前リサーチで、達磨石という由緒ある巨石があり、パワーをいただきにお邪魔せねばと東竹院に向かいました。

 

《新編武蔵風土記稿》 による東竹院の縁起

東竹院の正式名称は 『梅籠山東竹院久松寺』 で宗派は曹洞宗、創建当初は天台宗で本尊は釈迦如来。
開基は建久7年(1196)没の久下次郎重光で、元久元年(1204)4月29日没の久下権守直光の父親。 

所領を争った直光は熊谷直実の姨母(おば)の夫と記載されています。

東竹院

 

東竹院本堂

 

●家紋

源頼朝が石橋山の合戦で敗れ、わずか7騎でおちのびるところに久下重光が300騎で

駆け付けた。喜んだ頼朝が「一番」という文字を自ら書き与えて家紋とさせたことにより、

《〇に一の紋》 が東竹院の随所にみられる。

  家紋 久下家

 

●達磨石

境内正面左手にみえる大きな石は「達磨石」である。

寛文年間(1661-1673)に忍(おし)城主が、禅宗の祖達磨大師に似た巨石を秩父から城中へ運ばせようとしたのだが、いかだで運ぶ途中で川に落ちてしまい、不明になっていた。ところが250年ほど経った大正14年(1925)に、荒川の東竹院のすぐ前で、偶然に発見されたことから、現在同寺に達磨石として、安置されている。

達磨石

          [達磨石の由来碑」                 [東竹院の達磨石]

 

 《トピックス》 群馬県南牧村の「椚石(くぬぎいし)」 

当日の東竹院参詣者は、筆者ひとり。

庭師さんらしき人(石屋さんかも)が作業をしていましたので話しかけ、
「東竹院での一番の印象は、この巨石。どういう石なんですか?」

 

椚石

   [東竹院の椚石]

 

と尋ねたところ、《南牧村の椚石》だという。

私が南牧村の知人から取り寄せてセットしているんです、との談。

一般家庭でも、門柱として利用するといいですよ! と勧められたが、残念ながら我が家は豪邸にあらず御礼を言って辞去する。

いや~、実に爽快な石芸術かな! 

この東竹院こそ、熊谷の隠れたパワースポットだ、と考えるのは 私だけでしょうか?

*楓らしき木々もそれなりに多く見受けられ、紅葉シーズンの来訪を望んでいる感ありでした。

 

(補足) 帰宅後、いつもの美人秘書に尋ねたところ、以下のご教示をいただきました。

 

★南牧村の椚石(なんもくむらのくぬぎいし)・・・青木石材HP、 南牧村商工会HP

南牧村磐戸から採掘される銘石。大蔵省(現 財務省)、日本銀行や富岡製糸場など歴史的建造物につかわれていることで知られています。

白味を帯びた石英安山岩で ”苦脱ぎ石” とも称される縁起ものの石。


江戸末期(文久年間)創業の老舗採掘元、青木石材店で間知石、外柵材、門柱材、沓脱石、つくばいなどとして加工されるほか、石の花瓶がつくられ、村内の直売所などで販売されています。


*東京  財務省(前大蔵省) 財務省玄関はオシャレな椚石で造られた西洋風アーチ型

*群馬  太田   金山城(復元工事)   

*群馬  甘楽町 楽山園  平面表示・縁石   敷石

*群馬  富岡製糸場  鉄水槽 

        [財務省]               [金山城]               [楽山園]

 

フォローしてね