第壱話(お題:バターナイフで塗りたくる)
1954年8月。その日は、一切の生命を許さないような、そんな猛暑だった。
ひどく猫背で深めのフード被ったその男は、今日もそのドス黒い渇きを癒すため、まるで1本の絹糸に引っ張られるかのようにゴミが散乱する路地を歩いていた。
男の名は、マーマレード仁。
甘くて苦いこの男は、常人では到底正気を保っていられないような血生臭い環境に身を投じて酔いしれる、生粋の狂人である。
そんな彼が立ち止まった先は、蔦が血脈の様に張り付いたカビ臭い雑居ビル。
刺すような太陽光に滴る汗を拭いながら、心が光悦に包まれる瞬間を今か、今かと待っていた。
今の彼と目が合ったおおよその人間は、ザクロを潰されたような感覚に陥るだろう。
それだけ彼の体からは禍々しいオーラが放たれていたのだ。
辺りの空気が嫌な湿り気を帯び始めた頃、ついにその時はやって来た。
「一名様ですか?」
「ああ。」
仁はしげしげと、扉から出てきたスーツ姿の男に答えた。
男のスーツの左肩辺りがうっすら汚れているの横目に、仁は部屋の奥へとその体を運んでいく。
1分ほど歩いただろうか…。
また、扉…。
ドアノブをしばらく見下ろした後、仁はゆっくりその扉を開けた。
彼の前には、何人もの男達がギラギラと銀色に光る物体を雄牛ほどのサイズのフランスパンに向かって、一心不乱に振り回すという異様な光景が広がっていた。
ある者は暴力的に、またある者は優しく愛撫するようにフランスパンの輪郭をなぞる。
仁は胸ポケットからタバコを一本取り出した。
慣れた手つきでマッチに火をつけ、たちまちのうちに彼の顔は煙で揺蕩う。そして深々と一息、そのホワイトを飲み込んだ。
「今日はいかがなさいますか?」
薄ら笑いを浮かべた老人が彼に尋ねる。
老人に顔を向ける事なく、仁は答えた。
「マーマレード。」
「かしこまりました。」
しゃがれた声と同時に差し出れたのは、桐の箱に入った1本のバターナイフ。
仁の目線はある一点を見つめ、決してブレることはない。
刹那、上着を勢いよく宙へと舞い上げ、くわえ煙草に、仁はそのバターナイフを手に取った。
第弍話(お題:草野仁)
ドサリ。
放った上着が落ち、カーテンの隙間から入り込む光の筋に埃が舞う。
その音を合図に、仁は手にしたバターナイフを踊らせマーマレードを塗り始める。
薄明かりの中で、巨大なフランスパンは見る間に艶めきを纏い、じわりと唾液の湧くような甘酸っぱい香りが部屋を満たして行く。
ひと瓶、ふた瓶と空になるマーマレードの瓶には、何も残さない。もちろん、蓋にもだ。
『塗り切る』
それは彼の美学であり、胸に刻んだ言葉であった。フランスパンに向かう時、仁は必ずこの言葉を思い、その度に一分の悲しみを心に宿す。
自分は取り憑かれているのだ。塗りたくるという行為に……。
内省を食い散らかし、挙句今でもこうしてバターナイフを手にしている己を、仁はいつだって嗤っている。『狂人』は、過去に戻る術を持たない。
立ち上る紫煙が僅かに揺れた。
いつしか仁の周りには、同室の男たちが集まっていた。
そのバターナイフ捌きに、ある者はため息、ある者は感嘆の声を漏らしている。
「さすがは……」
「ああ、やつの弟子だけある…」
「やつ…?」
「知らねえのか?!やつだよ……」
そんな囁き声も聞こえてくる。
(どこに行ってもこうなるか…)
ざわめきに耐えかね、仁は声を上げた。
「おい、それがお前らの仕事か?」
男たちは慌てて席に戻り、再び作業を始めるが、やはりこちらが気になるのか視線を寄越すものもいた。
彼らのバターナイフが光を帯びることは、恐らくもう、ない。
「すまない」
背後に立つ老人に、仁は詫びた。
老人は驚きながらも、その顔にさらに笑みを浮かべる。
「かまいませんよ、バターナイフは己の内を映し出すもの…生半可な心では到底……。はは、しかし儂も、良いものを見せていただきましたよ。さすがは草野…」
「もう、その名は捨てた」
「左様ですか、伝説の『草野仁』に、会えたと思ったのですが」
「今や『狂人・マーマレード仁』だ。俺は、俺を超えることでしか生きられん」
バターナイフを指先で回しながら、仁は苦々しく言った。
つま先からじりじりとしびれるような感覚に襲われる。
名を変えた所で自身は変わらない、変えようがないのだ、こればかりは。
しかし、自分を見る周りの目も、この世界にいる限り変わることはない…。
仁はため息をひとつ零すと、24本目のマーマレードジャムに手を伸ばし、蓋を開けようと手首を捻る。が、固く閉められているようで中々開かない。
「くそッ」
何度か捻るも、びくともしないその蓋に見切りをつけ、仁は荒々しく瓶を置き、別の瓶を開けマーマレードを塗り始めた。
そんな彼の様子を見ていた老人は、胸ポケットからバターナイフを取り出すと、言った。
手には先ほど仁が置いたマーマレードの瓶を持っている。
「マーマレード仁さん、今から儂と『勝負』をしませんか、いや、賭け事ではありません。今生の記念に…どうか」
老人が瓶の蓋を捻る。
マーマレードの匂いが、一層濃くなった。
第弎話(お題:1944年、フランス)
「マーマレード仁さん、今から儂と『勝負』をしませんか、いや、賭け事ではありません。今生の記念に…どうか」
無言で睨み合う二人
「ご老人、俺は生死を賭けた『勝負』しかしない、俺と『勝負』するなら覚悟してくれ」
「そうですか…それは残念です」
「悪いな」
「此方こそ、無理言ってすみませんでした」
36本目のマーマレードを塗り終え、バターナイフの手入れを始めるマーマレード仁。
『狂人・マーマレード仁』
彼を語る上で最も重要なのは1944年のフランスでの事件だろう
『1944年フランス』
第二次世界大戦時にナチスに占領されていたフランス。そのフランスを解放するために連合軍200万人の兵隊がドーバー海峡を越えノルマンディーから上陸しパリを解放した『ノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)』。
この作戦の裏側で動いていたのが若き日の草野仁と戦場のマエストロ『マーマレーダー正雄』
ナチスの総統『アドルフ・ヒトラー』
マーマレーダー正雄は連合軍からアドルフ・ヒトラーの武力的排除を依頼された。
フリーの傭兵として100の戦場を渡り歩いて名を馳せていた正雄にとっても今回の作戦は余りにも難しいものであった。
「師匠!!俺も連れて行ってください」
「ダメだ!!まだお前には戦場は早すぎる」
「俺だって一人前のマーマレーダーだ」
「瓶にマーマレードが残っているお前が、何言ってやがる」
「如何に早く塗るか、それがマーマレーダーにとって必要な事でしょう」
「『塗り切る』それこそがマーマレーダーに一番必要な事だ」
「師匠の分からず屋!!」
1944年6月1日
正雄は連合軍がノルマンディーに到着する前にアドルフ・ヒトラーの寝室へと忍び込んだ。無事寝室に着いた正雄であったが、そこには正雄の宿敵、『ピーナッツバターのスティーブン』が待ち受けていた。
「久しぶりだな。マーマレーダー正雄よ。」
「何故お前が生きている!?お前はあの時確かに死んだはず」
「お前に復讐する為、地獄の底から這い上がってきたのさ」
「ならば、もう一度地獄の底へ叩き落としてやる」
『マーマレーダー正雄』と『ピーナッツバターのスティーブン』二人の実力は拮抗していた。
「師匠、助けに来ました」
「バカ野郎!!迂闊に近づくな」
スティーブンのバターナイフが仁に襲いかかるが、正雄がその間に割り込む。
「ガハッ!!!」
「ししょーーーーう!!」
「ヘハハハ!!マーマレーダー正雄、此処に敗れたり」
その場に崩れ落ちる正雄、駆け寄る仁。
「師匠、すみません、おれ、師匠に認めて貰いたくて、それで…」
「バカ野郎!!だからお前は…半人前なんだ。お前の…手首のスナップは…俺をも凌駕する、後お前に足りないのは『塗り切る』の心だけだ」
「『塗り切る』こころ」
「それさえあれば…お前は…誰よりも強い…マーマレーダーになれる…」
正雄のバターナイフが床に落ちる
「…師匠、俺やってみます」
立ち上がる仁、近寄ってくるスティーブン。
「お別れの挨拶は終わったか?まぁ直ぐにお前も一緒にあの世に連れてってやるよ」
スティーブンがバターナイフを構える、仁は微動だにしない。スティーブンは不思議な感覚に襲われた。
スティーブンは昔から未来が視えていた。何時もなら相手の領域が視え、相手の2秒先の行動を予知する事が出来ていた。しかし仁の行動は視えなかった、こんな事は今まで無かった。
しかし仁は先程倒した正雄の弟子だ、その気の緩みからスティーブンは迂闊にも先に動いてしまった。
刹那、スティーブンの身体が宙を舞う。
スティーブンは何が起きたか分からなかった。しかし手にしていたバターナイフは根元から折れピーナッツバターも全て無くなっていた。
「バカな!!どうなっている!?」
「お前の敗けだ、スティーブン」
「有り得ない、こんな小僧に、この俺が」
「『塗り切る』それがオレとお前の決定的な差だ」
スティーブンを倒した仁はこの後アドルフ・ヒトラーの武力的排除に成功し、連合軍はヒトラーの影武者を送り込み内部から混乱を招き見事にパリを解放した。
草野仁の名は全国に広まり、英雄『草野仁』として誉れ、讃え、尊敬されていた
しかし仁は『塗り切る』感覚を忘れなれないでいた
少しも残さず総てを塗り手繰る、それが相手の物で有ろうと。
『塗り切る』に取り憑かれた仁は次第に変わっていき、周りからも恐れ、怖がられ、畏怖された
しかし仁の暴走は止まらず何人も塗り切ってしまった
草野仁の名は裏社会に広まり、相手のバター、命さえも『塗り切る』という狂った戦い方から『狂人・マーマレード仁』として恐れられる事になる。
「マーマレード仁さん、今度は何時来られますか?」
「そろそろ次の町に移動する、世話になったな」
「そうですか、またこの町に来たら寄って行って下さい」
扉を開け外に出ると身体に纏わりつく粘つく暑さ
しかし仁は微笑みを浮かべ次の町へと旅立って行く
FIN