月落不離天

(月落ちて天を離れず)

 

「大衆、且く道え、いずれの処よりか得ん。」良久して曰く、「水流れて元海に在り、月落ちて天を離れず」。

 

「あちこちを曲がりくねって流れる川の水は、結局海に到って一つになる。

東から西に落ちていく月は、決して天から落ちることはない。

全てのものは一に帰納する。

世の中は多種様々なれども、その根源はひとつ。

天地の法則といい、ほとけの命という」とある。

 

有馬頼底監修

『茶席の大辞典』

 

 

雲門宗(唐代末に栄えた禅宗の一つ)の禅師の福厳守初(ふくごんしゅしょ)が、修行僧に「仏法とはどのようなものですか?」と問われたときのこと。

 

福厳守初はこう答えた。

 

「水はさまざまな場所を流れていくが、行き着くところは元の大海だ。月は昇っては西の空に沈むが、常に天にあることに変わりはない。水や月と同じように、人も様々に生きるが、決して仏の世界から離れることはない」。

 

「水と海」「月と天」という目に見えるものを示しながら、真理としての仏法は何か特別な場所にあるのではなく、「常に心にあるんだよ」と説いたのがこの言葉である。

 

審理は目に見えないものですが、常に私たちのそばにあり、離れることはありません。

 

人は悲しいかな心が中々定まりません。

 

道を見つけたと喜んでも、直ぐに迷い、ふらふらと寄り道ばかりしてしまうもの。

 

しかし、いつかは真理に戻っていかなければならないものでもある。

 

 

 

《月落不離天・月落ちて天を離れず》

お月さまは夜が明ければ見えなくなったり、新月で隠れる事もある。しかし私達の目には見えなくなっただけでその存在が消えた訳ではない。人も同じで、遠く離れていても、この世を去ったとしても、その存在は消える事なく、いつでも私達を見守り照らしてくれている。

 

 

 

同じ禅語《月落不離天》であるけれど、人それぞれの解釈が生まれる良い例のような気がする。

 

経典にしろ聖書にしろ、熱心な信者であればあるほどそれぞれの啓典(神の啓示を記した書物)の解読・研究に多くの時間を費やすのも理解できる。

 

因みに啓示とは、神や超越的な存在から、真理や通常では知り得ない知識や認識が明示されることを意味している。

 

つまり神が人間の理解を超えた隠された真理を、人間の意思によって露に示すことで、神を知ることができるとする考え方である。

 

幼い頃からカルト教団の勉強会に連れて行かれていたマイケルだからこそ、聖書のみならず経典も読み、研究に時間を費やしたことは簡単に想像がつく。

 

現に、聖書の難解な部分をカルト教団の長老に質問し続けたが、マイケルが納得できるような解釈を説明されることはなかったと、ユダヤ教のラビのシュムリー・ボティーチに告白している。

 

ラビとはユダヤ教の聖職者のことである。

 

 

《なくて七癖、あって四十八癖》

人は多かれ少なかれ、癖を持っているということ。

 

カルト教団とはいえ、熱心な信者であったマイケルもまた、少なくとも七癖はあった。

 

その一つが経典や聖書、神話に記されたエピソードを恋愛ものに変換しがちであったこと。

 

哲学ですら甘いラブロマンスになることも。

 

《月落不離天》もマイケルの手にかかれば、おそらくロマンティックになることは間違いないだろう。

 

 

🎉ロマンティックなマイケル、お誕生日おめでとう🎉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Thank  you  for  the  upload.

 

 

9月のMJセミナー

 

開催日時は決まり次第告知します

 

14時から17時

 

「マイケルと仏教と」

 

参加費ドリンク代込み

10000円(大人)

5000円(学生)

 

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会場:都内某所

 

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