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映るとも 月も思はず

映すとも

水も思はぬ 広沢の池

 

             塚原卜伝

 

月は(水に)映ろうとも思っていないで、ただ映っている。
水も(月を)映そうとは思わないで、ただ映している。
しかし、綺麗に池の水面に月が映っている。
 
剣豪 塚原卜伝
 
 
上記の歌は剣豪 塚原卜伝が詠んだ歌と伝えられていますが定かではありません。
剣の真髄を訓えた(おしえた)ものでこの無心の境地を「水月の位」と言います。
人間一人ひとりが月であり水であります。
他人に自分という人間をこう思って欲しいとか…。
逆に、どうも思われていないと思っていても、その人の存在そのものが他人の心(水)に映っているのです。
言い換えれば、影響を与えているのです。
作った姿を映そうと思うと本当の姿が映りません。
逆に、風で波が立っている水面や、濁った水だと月は正しく映りません。
三日月、上弦、下弦や満月とそれぞれが違った月であり、池(水)なのです。
どのような姿を映し、映される月や水になるのかを考えてみると良いでしょう。
 
━ 雲雀丘学園 校長通信 「全校朝礼」 参照
 
 
 
気づけば、もう2月も中旬に。
 
高齢の父が昨年末から体調が不安定となり、入退院を繰り返している。
 
今も面会謝絶の状態が続いているのだが、お世話をしてくださる看護師さんからの情報では少しずつ快方に向かっている。
 
食べることも出来ない状態が続いたが、数日前からは介助なしで出された食事は残すことなく綺麗に食べるようになった。
 
会えないことでストレスは溜まるが、見知らぬ人に囲まれ一人ウイルスと闘っている父のことを思えば弱音を吐いている場合ではないだろう。
 
家族の為に「生きる」ことを選んでくれた父に心からの感謝しかない。
 
一緒に過ごせる時間をもっともっと大切にしようと思う。
 
 
 
2008年5月22日、聖武天皇が造営した紫香の宮跡とされる宮町遺跡から出土した木簡から、『万葉集』巻16に収録された「安積山の歌」が書かれていたものが発見された。
 
『万葉集』巻16は約400年後の写本しか残っておらず、木簡は同時代の画期的な資料となった。
 
それと同時に『古今和歌集』の「難波津の歌」も見つかった。
 
「安積山の歌」と「難波津の歌」。
 
この2首は古代の歌の父母のように始めに習うと記され、手本とされている歌であった。
 
因みに仁徳天皇の御代を歌った「難波津の歌」は歌の父のようなもので「安積山の歌」は釆女が座興で詠んだもので歌の母のようなものとした。
 
繰り返しとなるが、字を習う人が初めに書く歌であるということが『古今和歌集』仮名序で記されている。
 

 

    

難波津に 咲くや此の花

冬ごもり

今は春べと 咲くや此の花

 

安積山 影さへ見ゆる

山の井の

浅き心をわが思はなくに

 

難波の浜に咲いた梅の花、

冬ごもりをしていたけれど、

「今は春だ」とばかりに咲いている梅の花であるよ

 

安積山の影までも見える

澄んだ山の井のように

浅い心で私は思っておりませぬ

 

 

二つの歌とも『万葉集』にあるような訓読みの漢字ではなく、日本語の一音を漢字1文字で表す万葉仮名で書かれていた。

 

これは一説には天皇の前で朗々と歌いあげるときに詠み間違いのないように、万葉仮名で書かれたのではないかと推察された。

 

いずれにしても木簡の捨てられていたのが744年から745年頃の天平の時代だったそうだ。

 

 

そもそも和歌はつねに「倣い」を「習い」としてきたものであった。

 

しかし、その原点には容易ならざるものも秘められていた。

 

 

「難波津の歌」では、仁徳天皇のことを歌っているといっても、帝という言葉は使われていない。

 

ただ、此の花は、おそらく梅だろうとされ、梅が仁徳天皇のことを表しているのだと考えられる。

 

つまり、それとなく表しているので「隠喩」や「暗喩」と呼ばれる類の歌だと考えられる。

 

 

それに比べると「安積山の歌」は恋の歌である。

 

天皇への思いの歌と捉えることも不可能ではないが、純粋に恋の歌がもともとなのだろう。

 

つまり、「浅き影」を通して「浅き心」に複雑に掛かる修辞によって作られている。

 

 

和歌は、このような2つの言葉づかいをともがらに成立させつつ作っていく文芸である。

 

2つの言葉は矛盾しているのだが、およそ矛盾を抱えないものはたいしたものではないとして、五七五七七の枠の中でこの矛盾に挑み続けたことを評価した。

 

 

冒頭の剣豪・塚原卜伝の「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」

 

実はこれは、後鳥羽院の「広沢の池に宿れる月影や昔を照らす鏡なるらむ」を踏んでいる。

 

 

北嵯峨の広沢池は古来より観月の名所として名高い。

 

広沢池は平安時代の中頃、989年に遍照寺の庭の池として造営されたか、もしくは、渡来系氏族の秦氏が嵯峨野を開拓する際に溜め池として造ったのが始まりと伝わる人工の池。

 

「嵯峨野」というように「野」のつく場所は本来、高地で水を引くことのできない土地だった。

 

田んぼにならない荒れた土地であり、未開の地であった。

 

秦氏が切り拓き、池を造ることによって水を確保し、荒れ地に田畑としての命を吹き込んだのだった。

 

以来、現在に至るまで松のように長きにわたりその姿を保っている。

 

京都の桜や紅葉が特別美しいのも、人の手と美意識が織り成す「つくりもの」であるからかもしれない。

 

実際の自然よりもなお一層自然らしく……。

 

芸術家のイマジネーションから生み出された作品に心奪われるのは、それが私たち人間が空想する桜であり紅葉であるからだろう。

 

 

春一番の風と共にマイケルの声が聞こえてきた。

 

“It's very mysterious. You know ? ”  

 

 

 

 

Thank you for the upload.

 

 

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