菜の花

 

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【西洋の花言葉】

 

「花言葉」は19世紀のヴィクトリア朝イギリスで流行した文化です。

当時、菜の花はまだ一般的でなかったために花言葉には含まれていません。

 

そのため、「黄色の花色」の花言葉の分類の一つとして語ることができます。

黄色の花色の花言葉は「Friendship (友情)」「Happiness (幸福)」「Joy (喜び)」「Pride(誇り)」「Clarity (明快)」「Truth(真実)」「Intellect (知力)」。

 

【花名の由来】

 

菜の花は昔から観賞用だけではなく、食用としても利用されてきました。

菜の花の「菜」という文字は「食用」という意味があることから、「食用の花」という意味になります。

 

【花言葉の由来】

 

菜の花には黄色や白だけではなく紫色もあり、紫色の菜の花の花言葉は「優秀」「聡明」「知恵の泉」とされています。

紫色の菜の花は「ムラサキハナナ」と呼ばれている、中国産のアブラナ科の植物です。

この花には「諸葛菜」という別名もあるのですが、これは三国志でお馴染みの諸葛孔明が、戦場で食料として植えたといわれていることから由来します。

二度と戦争を繰り返さないという願いを込めて「平和の花」「ピースフラワー」とも呼ばれています。

 

『花言葉のシャルロー』参照

 

 

身近な花として菜の花は至るところで見かけることができる。

 

スーパーマーケットや花屋、公園や畑。

 

特に美しいと思うのは黄色の絨毯のような菜の花畑と淡いピンク色の桜のコントラストを楽しむときではないだろうか。

 

 

さて、この黄色の菜の花をこよなく愛した歴史上の人物がいる。

 

 

3月27日(表千家)、28日(裏千家)は、茶の湯の太祖、千利休の命日(旧暦2月28日)にあたり、京都紫野大徳寺では利休を偲ぶ茶会「利休忌(菜の花忌)」が営まれる。

 

千家淡交会ホームページによると、茶の湯の始祖となった利休は、1522年大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれた。

 

本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。

 

与四郎は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入り、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩いた。

 

紹鴎は彼の心の師、村田珠光(一休和尚の弟子)が説く「不足の美」という禅思想を採り込み、茶の湯の簡素化、精神的充足を追及した。

 

利休は師の教えをさらに進め、“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省き、村田珠光から100年を経て「侘び茶(わびちゃ)」を大成させる。

 

利休は茶人として、織田信長、豊臣秀吉につかえるが、茶の湯の最盛期となった「北野茶会」をピークとして、秀吉との歯車がかみ合わなくなる。

 

利休が政治に関与しすぎたためとも、秀吉が好んだ「黄金の茶室」は利休が理想とする木と土の素朴な草庵とは正反対のものであったためとも。

 

天正19年(1591年)2月、突如、秀吉より利休は切腹を命じられる。

 

利休は静かに口を開き「茶室にて茶の支度ができております」と言い、最後の茶をたてた。

 

この日を「菜の花忌」というのは、利休が生涯菜の花を利休が好んだからとか、最後の茶室に活けられていたのが菜の花だったからなど諸説がある。

 

因みに、利休忌が終わるまで茶席には菜の花をいけないのが普通とされる。

 

 

ところで、茶の湯を大成させる為に必要とされた「不足の美」。

 

読んで字のごとく、びっしり埋まったものより、不完全な余白のあるものに次の想像力を膨らませることのできる「余白」の空間に、日本人は「美」を感じてきたと言われている。

 

足りないことを不十分と考えずに、そこに想像力豊かなイメージをふくらませることで、何かしら新しいものが見えてくる。

 

それが「不足の美」となる。

 

 

稀代のアーティストのマイケル・ジャクソン。

 

マイケルもまた「不足の美」を追及し、自らの作品に採り入れようとしていたのであろう。

 

その意欲作として日本だらけのショートフィルム『Scream 』は生まれたのかもしれない……。

 

 

 

 

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