「退職までの8年間」

私は公的機関の非常勤として

勤務していました。

その間にあった出来事を綴っています。

 

前回↓

10月1日

母から「歩けなくなった」と電話があった。

癌再発後は延命を希望せず、看取りとなった。

そこの施設は看取りが初めてだったが快く引き受けてくれた。

そして、これまでの通院を在宅診療に切り替え、介護認定の見直しを行った。

9月7日に「要支援2」の判定を受け歩行器で動いていたが、今は車椅子。

急激な悪化だった

 

父の入居後、私はすぐ母に報告した。夫の退院も伝えた。

母は私の安堵した顔を見て凄く嬉しそうだった。

多分、緊張が切れたのだろう

母はそれから20日後亡くなった昇天

 

母の最期↓

 

 

 

今度は墓に問題発生した。

石屋によると、墓に大きな地震か何かによるズレがあり、つっかえ棒のようなもので補強している。無理に納骨しても何かの拍子で崩れるだろう。

思い出した。東日本大震災でお墓がズレ、父がお金かかるから、と知り合いと一緒に応急処置したのだった。

私は業者に墓改修の依頼をした(15万)

 

亡くなるまでの20日間も「穏やか」ではなかった。6日に父の姉が亡くなり(99歳)、12日台風19号による緊急避難勧告(水害)、息子離婚につき借家解約とワンルームへの転居。借金でブラックなので私がまた保証人になった。金も出した。私は60歳になっていた。

 

助かったのは、施設入居したことで、父が起居をしていた仏間が綺麗になったこと。父の入居から母が亡くなるまでの間に部屋を片付けた。大きいものは業者に依頼(ここでもお金かかる)。でなければ、親戚も坊さんも呼べなかった!

 

夫は葬式で腰を悪くしヨタヨタとなったが、息子の離婚では奮闘してくれた。11月下旬から双方顔合わせで離婚の話し合いをしたが、私はインフルエンザにかかってしまい、身も心もボロボロで1回出ただけで後は夫にお願いした。

嫁からの裏切りもありホトホト嫌になった。

コロナのニュースが出始めた翌年1月、私と夫は函館旅行をした。観光客が少なくなった函館は閑散としていた。

旅行の少し前、息子が交通事故を起こし車が大破した。しかし大した怪我はなく1日で退院した。

 

コロナのニュースは日々大きくなり、3月、父の施設は面会禁止となった。

 

→続く