西洋瓦・給水業・塗装・大正活映 発祥の地 | おっかぁブログ

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2016/5/31 ➉

元町公園は、「西洋瓦発祥の地」「日本最初の給水業」「塗装発祥の地」「大正活映撮影所発祥の地」であり、多くの遺構や碑や説明板がありました。




【西洋瓦発祥の地】【日本最初の給水業発祥の地】
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「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」
   (西洋瓦製造のはじめ)
この地は, 明治初年フランス人アルフレッド・ジェラールが, 居留地建設にともな う西洋瓦や煉瓦を製造した工場ならびに水屋敷跡である。
 ジェラールの経歴については不明な部分が多いのですが, 居留地77番~79番の約 3,370坪(約11,200平米)を落札し, 永代借地権を獲得して蒸気機関を原動力とした工場 を経営しました。「日本絵入商人録(明治19年刊)」によると製品には, 西洋瓦・普 通及穿孔煉瓦・土管・タイルなどがみられます。1873年(明治6年)の製作年号のあ る瓦が確認される最古のものです。

 また,ジェラールはこの地から湧き出る清泉を代官坂に溝を掘って掘割に通し,「船 用最上引用清水販売所」の看板を掲げて, 船舶に販売しました。 水屋敷の呼び名がここから生れました。
 大正12年(1923)の関東大震災により崖が崩れ, 工場は倒壊してしまいました。 跡地は震災の復興に際して市有地となり湧き水を利用してプールを建設しました。
     横浜市教育委員会文化財課
     財団法人 横浜国際観光協会
            平成5年3月




「ジェラールの瓦とレンガ」
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「ジェラ-ル瓦(西洋瓦)について」
横浜開港後、来日した西洋人は、はじめ和(日本)瓦で葺かれた日本風の建物に住んでいましたが、しだいに自国風の建物を建て始めます。しかし、建築資材である西洋瓦やレンガ等を舶来品に頼っていたため、品不足に悩まされることもしばしばでした。このことに目を付けたフランス人実業家A.ジェラ-ルは、明治初期に、日本最初の本格的な西洋瓦とレンガの製造工場(A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICK WORKS)を始めました。西洋瓦にはスパニッシュ瓦(スペイン)やフランス瓦(フランス)などの種類があり、ジェラ-ル瓦はフランス瓦に分類されます。ストレ-ト型(長方形)で、上下左右につめ状の凹凸をつけ、相互に噛み合わせながら瓦桟に引っ掛けて噴き上げていく技法に特徴があります。この元町公園プ-ル管理棟の屋根の一部は、そのジェラ-ル瓦(黒色系統の中期型に分類される1878.1885.1887年銘入り)で葺かれています。



「ジェラール水屋敷」
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ジェラールはこの地の良質な湧水に着目し、貯水施設を造り、パイプで水を船舶に送り、販売する給水業を営んだ。この施設は「水屋敷」と呼ばれていた。

「ジェラールの水屋敷」
 横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。

 ジェラールは、まず明治元年(1868)中村宇池ノ谷戸(現在の中区打越)に水源を得て、船舶給水業に着手します。現在の「打越の湧水」がこの水源の名残です。明治3年までには山手77・78番(現在地)に新たな水源を確保しました。ここが「水屋敷」と呼ばれることになります。前者からは山下居留地 169番(のち188番に地番変更)の事務所まで、後者からは堀川までパイプを通して給水しました。前者は山下居留地、後者は寄港船舶を対象とするものと思われます。 


(横浜市中区区役所ホームページより)






【我国塗装発祥の記念碑】
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日本における塗装の始まりは、下記の推測でしか分かっていない。 
1854年(嘉永7年)2月13日、ペリー再来航の際、林大学頭が江戸の渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所(現在の横浜外交資料館付近)建物外部のペンキ塗装を命じて、これがきっかけで、町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられた。 
1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗った。これを機に、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立された。 
1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始めた。日本人では伊藤幸太郎と桜井鉄五郎がペンキ塗装業を始め、1872年(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負った。 
長崎の湊公園には、「近代塗装伝来之碑」があり、碑文によれば、本格的なペイント塗装は、幕末から明治初年にかけて導入された洋風建築に始まり、18世紀半ば頃には、すでにペイント塗装が行われていた。
また、元町公園にある我国塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑と、元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたか、いまだに分かっていない。





【大正活映撮影所跡】
「元町公園旧児童プールの壁泉」の横にあるのがその碑です。
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1920(大正9)年に設立された映画会社。
作家の谷崎潤一郎を顧問とし、ハリウッド帰りのトーマス栗原や、後に映画監督となる内田吐夢らが集まった。


〈碑文〉

大正活映撮影所・跡

 この撮影所は 大正九年から十二年までの三年間という短い期間ではあったが フランス人アルフレッド・ジェラルドの煉瓦工場跡地のこの場所 (元町一ノ七七ノ五) にあった

 「大正活映」は 大正九年 神奈川区子安を理立て アサノセメントを創始した経済界の大物 浅野総一郎氏の子息良三氏が創立した会社である
 この映画会社は 当時としては初めて映画界に財界の資本が投入されたこと また アメリカはハリウッドで修行した栗原トーマスを監督に招聘したこと さらに 新進作家であった谷崎潤一郎を脚本顧問として迎えたことなど 近代的な映画製作を開始した画期的な企業であった
 とりわけ 脚本の谷崎潤一郎を慕い集まってきた多くの青年の中には 後年映画界で名をなした監督の内田吐夢 二川文太郎 井上金太郎や俳優の岡田時彦 江川宇礼雄等の姿があった
 会社の事情により 短い年月の撮影所で終わったことは残念ではあるが 日本の映画界を目覚めさせ 発展のために一石を投じた業續は 高く評価されるものである
 昭和五十九年十二月一日之建 元町自治運営会 協同組合元町SS会 横浜市観光協会


(横浜市中区区役所ホームページより)

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元町公園の中の階段を、山手234番館の方へ上って行くと…
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こんなのや
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〈ブラフ溝〉
横浜山手は、山手本通りとワシン坂通りの尾根道を中心に展開し、居留外国人たちから「ブラフ」(切り立った崖を意味します)と呼ばれていました。この丘陵地の地形によって横浜山手にはいくつもの谷戸が存在しています。元町公園一帯もそういった谷戸のひとつで、かつてはフランス人ジェラールが西洋瓦を焼き、湧水を集めて船舶給水を行っていました。
 この石造側溝は、ジェラールの要望によって、明治7年から8年にかけて敷設された排水溝です。房州石を舟底型に組み合わせ、雨水が谷戸に流れ込まないようにしたもので、洋風側溝としては現存最古のもののひとつです。同じ房州石で築かれたブラフ積石垣とともに、居留地時代の横浜山手をしのぶことのできる貴重な土木遺産といえましょう。
 1986年 横浜市




こんなのや
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〈ジェラール瓦〉
元町公園は, わが国西洋瓦発祥の地であり, この斜面下の 平地では明治の初年からフランスンのアルフレッド・ジェラールが 「ふらんす瓦」を製造していました。
 確認されている最も古いジェラール瓦は, 明治6年(瓦に刻 まれた1873の数字は西暦, またニ型三型の数字は紀元の年号 を表示しています)製で, 関東大震災により崩壊焼失したこの 山手80番館にも「ALFRED/GERARD」銘のあるジェラール 瓦が葺かれていました。今日なお, 山手では「ふらんす瓦」の 異人館を多くみることができます。
 アルフレッド・ジェラールは, 山手の湧水を利用して船舶給水 業を営む傍ら, 「ふらんす瓦」はもとより赤煉瓦・ 有孔煉瓦, 陶 管, タイルの製造を手がけ, その工場は, 「煉瓦屋敷」もしくは 「水屋敷」として永く親しまれていました。
  昭和60年3月  横浜市緑政局
           横浜開港資料館





こんなものがありました。
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「山手80番館遺跡」
この一帯は、かつての外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、学校・病院・劇場・教会などの西洋建築がたちならんで「異人館のまち」をつくっていましたが、今日なおその面影をそちこちに残しています。
 本遣跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大地震による被害状況を物語っています。現在、地下室部分を残すだけですが、浄化槽をも備え、古き良き横浜の居留外国人の華やかな暮らしぶりをうかがいしることができます。
 両わきのタイルは遺構から出土したものを複製しました。
昭和60年3月 横浜市緑政局横浜開港資料館

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横浜に現存する唯一の震災前の外国人住宅の遺構。
明治末から大正初期に建てられたと思われる。

(横浜市中区区役所ホームページより)



山手80番館遺跡の先へ進むと、山手234番館に出ました。
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