この青年は、上の子供達の友人で、以前横浜に住んでいて、良く我が家にも遊びに来ていましたが、5年程前に実家のある大船渡へ戻り、働いてました。
上の子供達も、泊まりに行ったり、海産物を送って貰ったりしていました。
今回の大震災の時、真っ先にこの青年の安否が心配で、連絡もとれずにいて、無事が確認されるまで気が気ではありませんでした。
今回、元気な顔を一目見たいと、仕事を終えるまで、待ち合わせた駅。
風光明美な沿岸を走る電車だったらしいのですが、線路が寸断されて、停まったままの車両が。
駅前の看板。
被災にあう前に来て見たかったと思いました。
暫らくして、仕事を終えた彼がトラックでやって来ました。
真っ黒に日焼けし、逞しくなった感じがします。
働いていた会社は、海の側にあり、大震災の時は仕事中で、津波が来ると思い高台へ逃げるも、直ぐ後ろを津波が追いかけて来て、間一髪のところで助かったと言います。
会社の社員は無事でしたが、社長さんだけが行方不明になったままです。
仕事場が無くなったと聞いて、上の子供達が、また横浜へ来て仕事を一緒にしようと誘ったのだけれど、逃げ出す事無く、地元に残り復興の手助けをしています。
今は瓦屋根の修理の仕事をしているそうで、仕事を選んではいられないし、今の会社が拾ってくれて、仕事が有るだけ自分はマシな方だと言ってました。
津波が去った後、家族全員の安否が確認されるまで5日間かかったそうで、アワビ漁に出ていた父親は、3日間小さな島に取り残されて居たという。
大船渡は壊滅状態だが、高台は津波の被害は免れ、彼の家は高台に在った為、無事だった。
津波の後の光景は、余りにも残酷で、言葉にならない程だったという。
復興は、余り進んで無い様に見えるが、毎日見ている彼からすると、それでも少しづつ良くなって来ているらしい。
最初がそれだけ酷かった事が解る。
仮設住宅があちらこちらで見られたが、不便な所に在るというのと、仮設住宅に入ると水道光熱費が自分で出さなけりゃならないし、支援物資も貰えなくなると、入りたがる人が少ないらしい。
ヘドロが臭い、風が吹くと粉塵が舞うのでマスクが必要な毎日。
復興の瓦礫の撤去などは、殆どが民間で、自衛隊の半分は原発に取られてしまったという。
まだまだ、復興までは先の長い道のりの様です。
暗くなってしまったので、海の方へは行ってませんが、話だけでじゅうぶん現状が掴めました。
元気な顔を見られて本当に良かったです

彼と別れて、今度は私の親友の所へと思ったのですが、遅い時間になりそうなのと、さすがに早朝から走り続けたので、宿を探そうとネット検索で、水沢市のホテルへ予約を入れ、そこへ向かいました。
やっと水沢市の灯りが見えて来たと思いきや、カーナビどおりに行ったら、橋が通行止めで迂回したりで、大船渡から、約2時間かけてたどり着きました。
その夜は、三人とも疲労困ぱいで、爆睡しました。
30日の朝になり、私の親友の所へ。
水沢市で眼科をやっているので、おどかしてやろうと連絡をせずに、クリニックの受付で、
「あの~、先生の奥様いらっしゃいます?」
って言ったら、誰だろうという顔で彼女が現れました。
そりゃびっくりするわ、待合室には患者さんが溢れる程の中、ゆっくり話してはいられないので、元気な顔を見られただけでじゅうぶんと帰ろうとしたら、車の所まで来て見送ってくれた。
また、今度ゆっくり会おうねと約束をして。
私の親友、元気そうで良かった

次は、前沢の長男のお嫁さんの実家へ。
お嫁さんには、気を使っちゃうから、私達が行く事は、ナイショにしててねって言っておいたので、顔を出したら皆びっくり。
温かく迎えてくれ、気さくですごーく居心地の良い家庭です。
しばらくおしゃべりをして、帰りにはおばあちゃんが家庭菜園の野菜をたくさん持たせてくれました。
お嫁さんのあの明るく優しい性格は、この家庭で育ったからなんだろうなと納得。
皆の笑顔にホッとしました

お嫁さんの実家を後にし、帰路へ。
途中一関に寄って、タイヤ交換をしてから帰る事にしました。
来る時に、前輪のタイヤがツルツルなので、どうせなら被災地で買った方がと思っていたので。
新しいタイヤにして、後は真っ直ぐ横浜へ帰りました。
雨予報だったのにも関わらず、雨に濡れる事も無く、無事に1330㎞の旅が終わりました。
被災地は、4ヶ月経った今もまだ、復興には程遠い感じでした。
継続的な支援がまだまだ必要です。
普通の生活を送れる様、支援を必要としなくなるまで、自分の出来る事を微力ながら続けていきたいと思います。
iPhoneからの投稿

