PL処世訓第16条「一切は進歩発展する」 | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.世の中は「よくなる」のか、「悪くなる」のか?

(1)「悪くなる」という考え方(下降史観)
 人間の歴史を振り返るとき、人を含め「もの・こと」は「進歩発展」つまり「よくなる」方向性にあるのでしょうか。それとも「退歩後退」つまり「悪くなる」方向に向かっているのでしょうか。
 人間は長い間、「よくなる」というよりも「悪くなる」と考えがちでした。下降史観とでもいうべきものです。それだけ人間を取りまく環境は、気候も食料事情も悪く、身の安全を確保することさえ困難で、人生は苦に満ちていた時代が長く続いていたからにほかなりません。
 最初、完全で「一」であった世界が時が経つに従って、「多」へと分化して、混乱した「苦」の世界になってしまったという考え、見方です。
(2)「よくなる」という考え方(進歩史観)
 下降史観が有力な時代が長く続きましたが、17世紀の科学革命を画期とする近代科学技術の急速な発展とともに、過去より現在、現在より未来が人類にとってより便利で快適で、そしてなにより「より自由」な幸福な時代になるという進歩史観が支配的となりました。
 実践の教えであるPLの教えにおいては、神の方向性は当然進歩発展にあります。人は自由であり、芸術する存在ですから、人生は楽しかるべきもののはずです。それは自由の発展、芸術の素材の多様化という進歩発展によってこそもたらされるのです。
 「一見、退歩していると見える状況、事態」を二代教祖は「みしらせ」と捉え、それを素材として芸術する、つまり「みおしえ」を守り実践することによって「みしらせ」を進歩発展へと方向付けられると教えます。
 神は時に、地震・津波・洪水・火山の噴火……等々、多数の人々に致命的となる災害として、この世に現れます。
 それは、人に油断なく緊張して生活することを促すものです。人はまず、科学技術をもってそれに対し、あらゆる努力をし創意工夫して修復し克服しようとします。それが進歩発展の原動力ですが、神に依(よ)る心構え、信仰が伴ってこそであることに気付かなければなりません。信仰(宗教)を欠いた科学の独走は暴走であって、人類を滅亡に導くことにもなりかねません。
(3)「人生は芸術である」は「進歩発展する」こと
 「人生は芸術である」の二代教祖の悟りが「宗教と科学は一致すべきである」の教えを介して「一切は進歩発展する」の教えに連なっています。
 「人生は芸術である」とは、人が自由に自己表現し芸術することによって、人と世界が進歩発展し、世界平和につながっていくことにほかなりません。
 芸術は進歩発展することであり、進歩発展することが芸術です。そして、進歩発展することは闘争的なものではなく、「調和とバランス」つまり「世界平和」(「よのためひとのため」)を目指すものです。

2.「進歩発展」はプロセスです

(1)人生は進歩発展する
 私たちは、神の恵みによりこの世に生を受け、「生かされている」存在ですが、同時に自由に芸術して、神に帰るまで自ら「生きている」存在でもあるのです。そのために、神はそれぞれ独特の個性、役割をもった私たちとして現れ、かつ同時に、あらゆる芸術の素材としても現れているのです。
 この世の中は、私たちが芸術することによって、全体として進歩発展しています。私たちは漫然と日々を過ごすのでなく、それぞれの状況下で自分自身の納得のいく日常生活を作り上げていくのです。それぞれの人が自分自身の目標・目的を持って、積極的に創意工夫し、芸術していく、それによって自分をグレードアップさせていく、それによって、世界平和が実現されることにもなるのです。それに気付くことがないと、人は神業(かんわざ)に埋没した受け身の人生で終わってしまいます。
(2)人生はプロセス
 「人生はプロセス(過程)そのものが大切である」と二代教祖は説きます。人生はその成果、業績が大切であることは言うまでもありません。しかし、すべての人の人生に成果なり業績が伴うかは定かではなく、なんとも言えません。それでは世間的に目立った業績のない人生に意義、価値がないのでしょうか。そんなことはないのです。
 神業(かんわざ)を切り開いていくプロセス、それが自己表現であり芸術することです。
 人生は成果というよりも、その目的・目標に向かってのプロセス自体なのです。人生のプロセスは人生の数だけあります。その一つ一つがかけがえのないものです。「人生は芸術である」の教えからは、人生を成果のある人生と成果のない人生に分けることは無益で不必要です。どのような人生についても、「人生は芸術である」なのであって、それぞれの人生がそれぞれの人格と個性に基づく意義と価値をもっているのです。
(3)進歩発展を阻むもの
 〝人生の目的は自己表現である以上、各々に於いて無限に進歩発展せねばならぬ、然るに殆どそれが無いのは、小成に甘んずるからである。〟
 人の進歩発展を阻むのは「小成に甘んずる」ことにあると二代教祖は教えています。
①「自分はこれだけやったのだから」「この程度やればよいのでは」等、偉そうな心(うぬぼれ、増上慢)を出し、そこに安住してしまってはなりません。
②現状に安住してしまうことにより緊張感がなくなると、マンネリになり、そこで進歩発展は止まってしまいます。

3.進歩発展は人生の喜び

(1)人生の喜び
 あなた自身の本質、個性そのものは目に見えないものです。あなたが目的に向かって努力し、創意工夫する、芸術することによって、目に見えないあなたの個性、まことが他の人に、そして自分自身にも見えるようになるのです。このようなプロセスを積み重ねることが進歩発展の基礎となります。それは人生の喜びにほかなりません。
 人には芸術する「力」があります。「芸術する」とは、芸術する「力」を働かすことです。芸術する「力」が「働く」と世界が変化します。ある人が芸術するとそれが他の人の芸術する「力」に働きかけることにもなり、他の人の「力」が「働く」きっかけとなります。「一切は鏡である」(PL処世訓第15条)の教えが働くのです。ある人の芸術が他の人の芸術を呼び起こし、その連鎖が次々に広がっていき、数々の神業(かんわざ)が生み出されるのです。
 人生の喜びは、自己の進歩発展、向上を確信できることにあります。
〝自己の発展、進歩は物事をするにあたって、神に依(よ)りつつ、細心・注意・創意工夫・造型・研究・努力・精進することにある。これを称して「芸術する」というのである。〟
 このようにうまずたゆまず芸術して、発展、進歩するところに、人の喜びがあります。
(2)「動的平衡」にある神業(かんわざ)
 分子生物学者の福岡伸一さんの著書『動的平衡』(2009年)によると、人間には60兆個もの細胞があるが、それらの細胞は常に新しい細胞と入れ替わっていて、身体としての今の自分は、数カ月前の自分とは別な自分になっているとのことです。細胞が間断なく入れ替わるという動きの中から現れる調和とバランス、その「動的平衡」こそが人間が生きていることであり、「生命」そのものだと福岡さんはいわれます。絶え間なく細胞を壊し、絶え間なく作り出す、創造的破壊の動きの中に生命の本質があるというのです。
 そこに思いを致しますと、私たち自身は常に動的平衡の状態の神業(かんわざ)におかれていることに気付きます。そのことを自覚し、目標と目的をもって向上すべく努力して、芸術することによって、神業(かんわざ)が調和とバランスを保ちつつ進歩発展している、そして私たち自身も進歩発展していることを実感することができるのです。

4.「時はめぐる」と「時は過ぎゆく」

(1)円環的時間と直線的時間
 「進歩発展する」は時間的な経過を伴うものです。
 時間の本質について、円環的に捉えるか、直線的に捉えるか、大きく2つの見方に分かれます。
  時はめぐり  また夏が来て
  あの日と同じ  流れの岸
  瀬音(せおと) ゆかしき 杜(もり)の都
  あの人は  もういない
 仙台の風物を詠った星間船一さん作詞、さとう宗幸さん作曲、唄の『青葉城恋唄』(1978)の一節です。
 「また夏が来て あの日と同じ」、時がぐるぐる回っているイメージです。四季がめぐることに「もののあわれ」を捉えてきた私たち日本人は時を円環的に捉えたくなります。
 それに対して、西欧のキリスト教的な時間は直線的です。神の世界創造とともに時間は始まり、キリストの再臨による最後の審判によって終わるという始まりと終わりのある直線的なものです。始まりのはるか彼方(かなた)、終わりのはるか彼方を見はるかす視点が「永遠」です。「永遠の命」を得ることがキリスト教の「救済」といわれているようです。仏教における「涅槃(ねはん)」、「解脱(げだつ)」に通ずるものがあるようにも感じられます。
(2)円環的時間観と「進歩発展する」
 時間を直線的に捉えるとき、「一切は進歩発展する」の教えは受け入れやすいと思います。
 ところが、円環的に捉えるとき、同じことが繰り返されるイメージですから「進歩発展する」とは一見そぐわないように感じられます。しかし、同じところをぐるぐる回っているように見えても、それは上から見たときのことで、横から見たときには、上方へ上昇しているのです。らせん階段を上るように昇っているのです。それを「グレードアップ」している、「進歩発展」していると言い換えることができます。時間を円環的に捉えるとしても「進歩発展する」ということができるのです。

5.精神造型

(1)二代教祖の気付き(「神に依る精神造型」)
 「精神造型」は二代教祖の造語です。「精神造形」と表記されることもあります。
 1954(昭和29)年3月16日、懇意にしておられた草月流(華道)の創立者、勅使河原蒼風(てしがわらそうふう 1900〜1979)さんとの対談のときでした。
 「花は活(い)けられたらもはや花ではなくいけばな(造形)である」、「ピアノも弾いたらもはやピアノではなく音楽となる」、「素材は造型(いけ)ることによって全責任が己に生ずる」との蒼風さんの発言に二代教祖は「精神造型」の語で応じられたのです。そして「精神造型」は、〝一切を神に依(よ)る〟境地においてこそ力強いものになることを説いておられます。
 〝精神造型という言葉で表現しないと、適切な言い方のできない境地が有り得ると思うのだ。たとえば、われわれ宗教家の神に祈願して捧げる誠の中には、型や物で現すことのできない、しかも精神的には立派な形態をとり具象されたあるものが在るはずである。

 たとえば、歴史を短縮するというような問題、寿命を縮めて死後の魂の働きを欣求(ごんぐ)するというような問題、さらには「身代(みが)わり」・「神霊(みたま)ごめ」・「アミュレット」・「宝生袋(ほうしょうぶくろ)」といったことは、みな精神的な造型といえる。

 あるいは天津神籬(あまつひもろぎ)を守り貫いて、人訓3ケ条を授かった教祖(初代教祖のこと。引用者註)の修行の境地、おやじ(二代教祖のこと。引用者註)が旧教団(ひとのみち教団のこと。引用者註)時代、全教師に「教祖の立看板になれ」とて率先垂範した境地、あるいはまたわれわれ教え人が特定の信者を救わんとして己を犠牲にし、人間改造——人格陶冶(とうや)の熱願・祈願をする等、みな精神造型という言葉で表現してもよい。〟
 芸術は「イメージの造型」です。
 「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)〈皮膚〉」の五官で受け取った情報を、内なる脳細胞の働きによって処理して、作り出されるのがイメージです。イメージには「形や物」で現すことのできるものと、「形や物」でない精神的な〝あるもの〟の二つがあると二代教祖は説くのです。
(2) 「境地」
 人が、とくに信仰者が、より高い信仰心を求める、神と一体とならむと修行に励む究極の心境、それが二代教祖の言われる「境地」の原型と考えます。
 精神造型が行われる「場(ば)」、「あるもの」が生まれる「場」、それが二代教祖が言われる「境地」です。お芝居で言えば、役者の人たちが活躍する「舞台」です。ある種のエネルギーが充満し、「あるもの」が消えては生まれてくるダイナミックな「場」、それが「境地」です。
(3)「あるもの」
 「あるもの」について、「型や物で現すことができない」、しかも、「精神的には立派な形態をとり具象されたあるもの」と二代教祖はいいます。「型や物で現すことができない」とは目で見たり、さわったりはできないということです。「物理的」な出来事ではない、つまりは「心的」な出来事なのです。
 「精神的には立派な形態をとり具象化された」とはどういうことでしょうか。そのような精神的な「形態・具象」、つまり目には見えない「心的」な出来事を誰がどうやって知ることができるのかが問題です。
 答えに至る道筋は二通りあると思います。一つは精神的な「形態・具象」をその人と同じレベルの「境地」にある人が、直観してしまう、共鳴、共振してしまう道筋です。しかし、これはごく限られた人同士にしか通用しない神秘的なものです。
 もう一つは、ある人の精神的(心的)な「形態・具象」が他の人が見たり、聞いたり、さわったりできる象徴的な動作を伴うとか、「型や物」、つまり物理的(物的)なものを介して他の人が感得できるという道筋です。この場合の「型や物」はあくまで主たる精神的な「形態・具象」の従たる存在にすぎませんが、それは精神造型の内容の重要な一部となっているのです。「物」が随伴する「神霊(みたま)ごめ」、「アミュレット」、「宝生袋(ほうしょうぶくろ)」などの精神造型がそれにあたります。「物」と言っても、それはたんなる「物」ではなくなっており、いわば精神造型を想起させ、象徴する「物」となっているのです。
 そして、この二つの道筋の間にはいろいろなバリエーションがあり得るはずです。精神造型にもグレード、段階があるということになります。
(4)人の心を造型する
 ある人の精神(心)が他の人の精神(心)を直接的に造型する精神造型について、二代教祖は語っています。
 それは信仰における師匠と弟子の間に見られるもので、二代教祖は自分自身が「初代教祖によって造型された」との悟りに至っています。
 〝教祖さまはこの教えを世界に弘(ひろ)めるために、30年もの尊い寿命をお縮めになったのです。そして私に後事を託したいお気持ちから、私を教育していかれたのだろうと思います。教祖さまのイメージによって私の人格形成がなされていったわけであります。教祖さまは私を芸術され私という人間を造形していかれたのであります。〟
 実に、「初代教祖は御木徳近を芸術の素材として二代教祖たらしめむと芸術された」という二代教祖の悟りなのです。しかし、生身の人間が他人の芸術、精神造型の素材となり切れる心境とはどのようなものなのでしょうか。芸術する人とほぼ同程度、少なくとも同質の境地でなければならないだろうと私には思えます。
 私は1948(昭和23)年から亡くなられる1983(昭和58)年までの35年間、二代教祖のお側で直接教えを受けました。みおしえ能力を直接確認してもいただきました。「おまえは御木白日なのだ。」「白日とあれ!」と叱咤(しった)されることもしばしばでした。亡くなる直前に『パパを忘れるな』と書いてくださいました。私はこれを二代教祖が私に残された遺言と思っております。
 私は二代教祖によって精神造型された御木白日です。

6.宗教芸術

(1)信仰芸術
 信仰が人の心に芽生えたり、深まったりするのは、本人の悟りとか努力とか、本人の能力によるものでしょうか、それとも神の恵みによるものでしょうか。
 はじめから神の恵みによる信仰を授かったので、自分の能力など全く関係ないと確信できている方々は幸せです。その方々の信仰は自己表現するごとに、芸術を重ねるごとにますます深められることでしょう。
 自分の気付き、悟りや信仰第一に徹する信念など自分の能力によって自分の信仰がはじまり、深められていると日夜努められる方々もおられるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。むしろ、そのような在り方が人としてふつうなのかもしれません。
 ただ、そのような方々の信仰も深まるにつれて、自分の信仰は究極のところ自分の能力によっているのではなく、もっぱら神の恵みによるものと気付くに至るかもしれません。大切なのはそのプロセスそのものです。「神に依(よ)る」心境にもグレード、段階があるのです。
 このように信仰芸術は進歩発展する可能性をもったものです。
(2)信仰芸術と布教芸術
 信仰芸術のより高い段階にあるのが布教芸術です。
 おシャカさま(ブッダ)は悟りをひらき解脱(げだつ)することを目指し、出家し難行苦行の修行を続けました。しかし、そのような難行苦行をいくら続けても悟りをひらくことはできなかったのです。そして、悟りをひらくには正しい修行が必要なことに気付かれたのです。ブッダは自らその正しい修行を実践し、ついに悟りをひらくことができました。
 しかし、悟りにより得られた内容は深遠でとても人々に理解してもらえないと考え、ブッダは教えを説くことはするまいと思ったのです。
 すると、ブラフマン神(梵天(ぼんてん〉 バラモン教=ヒンズー教の神)がそれを知って、ブッダの目の前に現れ、教えを人々に説くよう要請したのです。ブッダは梵天の要請を受け入れ、伝道の旅に出たというのです。この出来事を仏教では「梵天勧請(かんじょう)」といいます。
 自ら悟りをひらくための信仰と、その信仰を人々に説くことは、次元を別にすることのようです。信仰芸術と別に布教芸術が存在するのです。信仰芸術の進歩発展した一つの在り方が布教芸術です。