PL処世訓第13条「男性には男性の、女性には女性の道がある」 | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.神の現れである神業(かんわざ)としての男性と女性

(1)「生ます力」と「生む力」
 この第13条は第7条「一切は相対と在る」の具体例の一つと考えられます。人にとって、「男性と女性」はとても大切な根本的な問題ですので、この一条があるのだと思います。
 男性とは、女性とは、一体何でしょうか。言い換えれば、何が男性としての幸福、そして幸福感に、何が女性の幸福、幸福感になるのでしょうか。
 男性の身体に伴う心理的構造、いってみれば男性の特性は、寛容である、包容力がある、おしゃべりでない、積極的である、闘争心がある、些事にこだわらない、無邪気である……、といわれてきました。もちろん、異論もあるとは思いますが、これらの特性が自覚的に表現されたとき、男性特有の幸福感、充足感を覚えたはずです。
 他方、女性の身体に伴う心性は何でしょうか。女性の幸福、幸福感の根本は何でしょうか。二代教祖が真っ先に挙げておられるように、素直であること(その時々の神業(かんわざ)=現象=を肯定して、それを芸術の素材としてゆくこと)、明るい、優しさがある、物腰が柔らかである、可愛らしいもの弱いものを労(いた)わる気持ちがある(母性)、親切にしたい心がある……、それらの点において男性よりも勝っているといわれるのです。こうした特性が女性の幸福の基本にあり、それを形として、自己表現するときに、女性特有の幸福感が得られます。
 これらそれぞれの幸福と幸福感、充足感が「男性の道」「女性の道」です。
 さらに忘れてならないことは、生物学的に男性には「生ます力」があり、女性には「生む力」があることです。これは太古から続いてきた「生殖」「出産」の問題ばかりではないのです。何を生み、何を生ますか。子供だけに限られるのではなく、幸福につながる物事のすべてが含まれるのです。それは「生む力」と「生ます力」の二つが一体となってはじめて可能なのです。
(2)男女のペア(パートナー)
 神が「自己」として、「人」として現れるとき、具体的には男性として、あるいは女性として現れます。男性でもなく女性でもない、人そのものとして現れることはありません。
 さらに人が世代を超えて持続して生存してゆくには男女一対のペア(パートナー)として現れなくてはなりません。それによって子供が生まれ、家族ができ、社会ができるのです。それが社会と人間生活の真実です。
(3)「男性の道」と「女性の道」
 男性と女性のペアで人として現れるのですから、「名に因(よ)って道がある」(PL処世訓第12条)からして、当然に「男性の道」と「女性の道」が現れているのです。この二つの「道」は「男女ペアの道」そして「夫婦の道」を射程に収めており、「人の道」へと統合されるのです。男女、二つの「道」を二項対立的に捉えるのではなくて、相互、補完的・重層的に捉えたいと思います。
(4)夫婦相和(あいわ)し、神を直観する
 人と人との関係の原型、基本形はイザナギとイザナミ、アダムとイブの神話に示されているように男性と女性のペアの関係です。ですから、男性と女性のペアの関係をきちんと築き上げることのできない人は、本当の人間関係を築くことができません。「きちんと」とはお互いに相手を尊重し、公正、公平であろうとすることです。
 そして、人間社会は男性と女性のペアの関係、夫婦の関係を基盤とする家族から成り立っています。夫が妻を愛し、妻が夫を愛する、「夫婦相和」するところから持続可能な社会が展開されるのです。初代教祖は「夫婦愛和」する、と「相」を「愛」と書かれることがしばしばでした。そのことを自覚することによって、人は自らの大本(おおもと)である神へと導かれるのです。男女ペアの道、夫婦の道を知ることが神を直観する、知ることにつながるのです。
(5)「人の道」と「社会人の道」
 それぞれの人間社会にはその社会特有の「社会人の道」が支配的に働いています。「人の道」は「社会人の道」に包み込まれています。「社会人の道」がイコール「人の道」であり、「男女ペアの道」、「個々人の道」と考えても大過ないのが日常の生活です。
 ところが、そのような「イコール」が成立しない困難な状況、極限的な状況、非日常的な事態が時に起きてきます。そのような状況では、人は日常的な「社会人の道」だけでは人として真っ当に生きることができない苦境に立たされることになります。
 たとえばナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、虐殺(ホロコースト)が行われたような時代、中華人民共和国での文化大革命の時代などです。人がそのような状況に投げ出されたとき、「社会人の道」と「人の道」(「男女ペアの道」・「個々人の道」)は別々のものに分断されてしまいます。そのような分断の時代、状況になったことに気付く人、気付かない人、気付いても気付かないふりをする人などが現れてきます。
 アイヒマンで終わるか、シンドラーや杉原千畝(ちうね)となるかの分かれ道です。また子が親を、夫婦が相互に、密告するかどうかの苦難に満ちた分かれ道に、時に人は立たされるのです。

2.第13条と第9条「人は平等である」

(1)男女平等、男女同権
 二代教祖はこの第13条について、第9条「人は平等である」との関係で次のように説いています。
 〝男性には男性の道があり、女性には女性としての道があります。しかし男性も女性も全て神の子として平等であり、男女同権なのであります。〟
 さらに二代教祖は女性表現の極致をある種のあこがれを込めて(といいましても、これは私の思い込みかもしれません)説きます。
 〝女性表現の妙諦(みょうてい)、それは「素直さ」であります。まろやかに、やわらかに、あたたかに、しなやかに、一切を愛し包容し受け入れるところに女性としての美しさがあり、やさしさ強さがあるのであります。そしてそれは、かたい激しい、また険しい男性表現をも和(なご)め鎮(しず)め黙(もだ)さしめるものがあります。〟
 このとき、二代教祖の脳裏には、幼少の頃亡くされたお母さまの姿があったものと私は思うのです。
(2)女性へのはげまし
 人間の行う芸術、つまり人生そのもの、自己表現の多様性(ダイバーシティ)の大切さ、創意工夫の大切さを説く二代教祖は男性表現、男性らしい表現とは異なる女性表現の美しさに自信をもつよう女性をはげまされます。
 〝人間を 深く惟(おも)えば 女性等よ 性(さが)は遂(と)ぐべし はばかる無くて〟
 二代教祖はご自分が詠(よ)まれたこの歌について、次のように語られます。
 〝女性のために憤慨(ふんがい)したり、また女性を励(はげ)ましたりしている歌です。〟
 歌の意味は「人間の本性に深く思いを致すならば、女性たちよ、誰はばかることなく、大いにあなたの天性を発揮し、能力を表現してよいのですよ」というものです。
 「女性を深く惟えば」ではなくて「人間を深く惟えば」と歌われていることが大切です。女性がその天性の能力に目覚めて十分な自己表現を行うならば、それは女性にとって楽しいことであるのはもちろんのこと、男性の自己表現と相補い合うことによって、男性にとっても人間としての自己表現を真に実現できるのだと二代教祖は教えています。

3.フェミニズム

 「男性の道」と「女性の道」を考えるに当たって、乗り越えなければならない大きな壁があります。フェミニズムの運動です。それは「男性の道」と「女性の道」そのものの存在まで否定する方向性を示しています。
 フェミニズムは女性解放思想、またその思想に基づく社会運動のことです。19世紀末から20世紀初頭にかけての第1次フェミニズムでは近代の平等の理念に基づく人権思想を男性だけでなく女性にも拡張することを要求し、主として婦人参政権の獲得を目標として推進されました(女権拡張主義)。1960年代以降の第2次フェミニズムは、性差別の根源を男性と女性の性関係を核としたあらゆる関係性に求めるラディカル(急進的)・フェミニズムで、社会構造の隅々まで浸透している男性中心主義を徹底的に告発し、女性の社会的・経済的・性的な自己決定権の獲得を目的として展開されています。フェミニズムは「20世紀最大の思想的事件」ともいわれています。
 セクハラ(セクシャル・ハラスメント)、パワハラ(パワー・ハラスメント)への厳しい告発もその延長線上にあるのです。

4.「男性の道、女性の道」の現在

(1)これまでの男女観
 神はいかなる時代、いかなる場所においても人として現れるときは男性として、あるいは女性として現れると考えられてきました。
 そして神が男性として現れたときには「男性の道」が、女性として現れたときには「女性の道」がおのずと現れています。日常生活において、それは男らしさ、女らしさとして意識されてきました。そして、それが人としての本性であると思われ信じられてきたのです。
(2)21世紀の男女観
 ところが、21世紀に入った現在、いわゆる男らしさ、女らしさがはたして人の本性なのかが問題とされているのです。それは人の本性ではなく、文化的、歴史的に作られてきたものにすぎないのではないかというのです。
 男性の道とか女性の道を説くこと自体に異議申し立てをする人々が増えてきているのです。人の道だけでよいのではないか、それとは別にことさら「男性の道、女性の道」を説くことは、結局のところ女性差別、男尊女卑の悪習を温存させるだけだ、というフェミニズムの運動です。
(3)「LGBT(エルジービーティー)」
 「LGBT」は、Lesbian(レズビアン、女性の同性愛者)、Gay(ゲイ、男性の同性愛者)、Bisexual(バイセクシャル、両性愛者、異性とも同性とも性的な関係を持つ者)、Transgender(トランスジェンダー、直訳すると「性的越境者」ですが、身体の性と心の性が一致しない者、生物学的には男性でも、心ではそれを否定して自分では女性である、あるべきだと思っている者、そしてその逆の者)の頭文字のL・G・B・Tを組み合わせた新しい言葉です。
 アメリカやヨーロッパで1990年代半ば頃から、とくに人権に関わるとき、ポリティカル・コレクトネス(Political Correctness =「政治的に正しいこと」、マイノリティー⦅少数者⦆や弱者を守ることの正しさを強調すること)に関わるときに「LGBT」という言葉が使われるようになってきています。
 「LGBT」の存在が社会的に認知され、その権利が尊重されるべき時代にあっては、「男性の道、女性の道」もこれまでと同じように考えるわけにはいかないことになってきました。
 ただここでも留意していただきたいのは、「LGBT」も人は男性として、あるいは女性として具体的に存在していることが前提とされていることです。
(4)Sex(セックス)とGender(ジェンダー)
 「LGBT」の「T」にあたるTransgender(トランスジェンダー)という言葉に入っている「gender」(ジェンダー)は社会的、文化的な性差(男と女)で、生物学的な性差(男と女)である「sex(セックス)」と区別して使われるようになってきています。
 これまではずっと、男と女という「性」あるいは「性差」は自然のもので、人間本来の本性、本質だと考えられてきました。ですから男らしさ、女らしさも当然に人間の本性、本質であると長らく疑われることなく社会的に常識とされてきました。生物学的な性差がそのまま社会的、文化的な性差であったのです。
 ところが、男らしさとか女性らしさは別に人間の本性などではなく、男性が女性を支配する、従えるために歴史的、文化的に形成されてきたのだと主張するフェミニズムの運動が世界的になってきているのです。まだまだ形式的なものにすぎない男女平等、男女同権を実質的なものにしようという運動です。このような運動では、男女の性差を生物学的、自然的な言葉である「sex(セックス)」ではなく、社会的、歴史的に形成されてきたことを強調するために「gender(ジェンダー)」という言葉で表現するのです。まさに「名に因(よ)って道がある」(PL処世訓第12条)のです。

5.区別するが差別しない

(1)本来の「男性の道、女性の道」
 人は男性として、あるいは女性としてこの世に生まれてきます。「人生は芸術である」の教えから当然に男性には男性としての芸術、表現の在り方が、女性には女性としての芸術、表現の在り方があります。そのことが人の芸術、表現の在り方を豊かで多様なものにしてくれるのです。もし男性も女性も同じ芸術、表現の在り方しかしない、できないというのでは、この世の中は楽しくない退屈なものになっているに違いありません。
(2)現在の問題
 現時点において考えなければならない問題は、フェミニズムの運動が世界的に広がっている現代では、「男らしさ」とか「女らしさ」という言葉を使うこと自体が、男性が女性を差別して支配することを助長すると激しく攻撃されていることです。フェミニズムの運動からしますと、「男らしさ」とか「女らしさ」という言葉を使うことは「政治的に正しい(Political Correctness )」とは言えないとなるのです。
 そのような現代においても、私は「男らしさ」、「女らしさ」という言葉は大切だと確信しております。
(3)「クオータ制」
 1986(昭和61)年に男女雇用機会均等法が制定されましたが、30年ほど経った2016(平成28)年頃でも、上場企業の管理職に占める女性の比率は10%、役員(取締役、監査役など)に至っては1%でしかないそうです。法律上では男女が管理職になれる機会は均等、つまり平等となりました。しかし現実には男女の格差、差別が依然として歴然と存続しているのです。
 流れに任せていたのではいつまでたっても実現できないので、政策的にその結果を先取りする法律を作って強制的に実現させるのです。「ポジティブ・アクション」とか「アファーマティブ・アクション」といわれるものです。
 定員の一定数を強制的に女性に割り当てることを法律で定めてしまおうという方法を「クオータ制」(クオータ=quotaは割当量とか割当数という意味です)といいます。ノルウェーでは、1988(昭和63)年に政治にクオータ制を導入して、国会議員の定員の一定数は女性でなければならないとし、2003(平成15)年には上場企業に取締役の一定数を女性にすることを義務付け、違反した企業は上場廃止にしてしまう法律を作っています。現在では、EU諸国の多くがクオータ制を導入しています。日本でもこのクオータ制を導入しようという動きが出てきているようです。
(4)差別と区別
 男女の差別がなくなる世界において、「男性の道」、「女性の道」はどうなるでしょうか。「男性の道」も「女性の道」も「人の道」に還元されてしまって、それ自体としては存在しなくなってしまうのでしょうか。私はそのようにはならないと考えます。男女の差別がなくなったからといって男女の区別がなくなるわけではないからです。
 「名に因(よ)って道がある」(PL処世訓第12条)のですから、男性と女性がこの世界に存在する以上、男性の道と女性の道がなくなることはありません。ただ、これまでの男尊女卑を含意するような男性の道や女性の道とは違った形のものになってくるでしょう。
(5)男性の脳と女性の脳
 では、男性と女性の「差別」ではなく、「区別」について考えてみましょう。
 「男性には男性脳が、女性には女性脳がある」とAI(人工知能)を研究している黒川伊保子さんは言っています。女性の脳はプロセス指向共感型で、男性の脳はゴール指向問題解決型とのことです。男女の話の方向は真逆で、女性は事の発端から事の経緯をなぞるようにしゃべる。だから「女性の話を邪魔するな、男性は女性の話を共感して気持ちよく聞いてあげるのがよい」と男性に忠告しています。ご主人は、奥さんが事の初めから順々に話を進めているのに、いら立って「何が言いたいんだ、お前。結論から言えないのか、などと決して言ってはいけない」と、黒川さんは男性方に注意しています。
 それに対して男性の脳は、ゴール指向問題解決型ですから、問題点が見つかった瞬間に、問題点を指摘して早くゴールに行きたいのだそうです。
 事のスタートからしゃべりたいのが女性で、事のゴールから、話の目的から決めたいのが男性というのです。「気持ちよく共感してあげたい」のが女性で、「素早く問題解決してあげたい」のが男性ですから、感性の方向も男女では真逆だと黒川さんは言います。
(6)「幸せ」の視点から
 日本女性について、25年も日本に在住しているあるフランス女性の見解、感想を知りました。「日本は女性にとって働きづらい国だと思いました。日本の男性が成熟していないので、まだまだ女性の力を活用しきれていない。来日した当時ですと、女性は残業してはいけないとか、出張は一人では行かせないとか、非合理な面がありました。今も結構残っていると思います。女性を守る仕組みとしては大事だとは思いますが、そうしたくない女性にまで強制するというのがとても残念です。もう少し選択肢を認めてもいい」というのです。
 「そうしたくない女性にまで強制するというのがとても残念です」というのがとてもフランス人的です。よいことだからといって他人に強制するべきではないし、他人から強制されたくもない、パターナリズム(父親的温情主義)は御免被りたいという西欧人特有のものです。他人に迷惑をかけない限り、人間には「愚かなことだって行う権利」があるというわけです。

6.多様性と持続可能性

(1)同性婚
 最近、男女の結婚だけでなく、男性同士、女性同士の結婚、いわゆる「同性婚」を法律で認める国が出てきています。男性同士のカップルが養子をもらうと、その子供さんは片方の親を「ダディー」、もう一人を「パパ」と呼ぶとのことです。日本語ならどうなることでしょう。また、西欧先進国では法律上結婚している夫婦から生まれる子供の数と、法律上は結婚していないカップルの子供の数が同じくらいになってもいるそうです。「夫婦の道」は「男女パートナーの道」に吸収されてしまうのかもしれません。
(2)多様性から持続可能性へ
 いろいろなものが排除されることなく共存共栄し、多様性(diversity ダイバーシティ)が保たれることが、物事を豊かにし、芸術の素材を豊富にします。それだけ芸術そのものである人生が豊かで楽しいものとなるのです。
 多様性は神の嘉(よみ)し給うところ、喜ばれるところです。世界から多様性が失われることは、人の芸術の素材が貧しくなることです。人の芸術そのものが貧しくなり、人生は楽しくなくつまらないものになってしまいます。
 自然から多様性が失われることは、地球全体の生態系の危機をもたらします。多様性は持続可能性(sustainability サステナビリティ)に直結しています。人類の存亡にも関わってきます。このような問題意識はいまや人類共通のものです。その危機感から絶滅危惧種の保護、自然保護のための国際条約などがたくさん作られてきているのです。
(3)これからの「男性の道」、「女性の道」
 ある時期から、服装・髪型などが男女の区別のない「ユニセックス」の風潮が強くなってきています。ファッションもフェミニズムへの方向性と並行するかのように、「ユニセックス」とか「ジェンダーレス」の傾向が定着してきているようです。
 経済的要因とは関係なく、生涯を独身で通す独身主義の男性や結婚しない女性の存在も多様性を尊重するということでは好ましいことかもしれません。
 多様性を帯びることによって、「男性の道」、「女性の道」も持続可能性を獲得するに違いありません。それによって、男性を、女性を、そして人間社会全体を豊かさ、楽しさが包み込んでくれるに違いないことを信じて止みません。