「一切は相対と在る」(PL処世訓第7条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

 

1.ローマ法王との会見

 

 二代教祖はローマ法王と3回お会いしています。

 1973(昭和48)年にパウロ6世(在位1963~1978)とお会いしたのが最初でしたが、法王さまがご自分のお部屋に他宗教の教主をお迎えするのは初めてとのことで、周りの方々はとても緊張されていました。二代教祖と私と通訳の在バチカン日本大使館の田辺一等書記官の3人だけがお部屋に入り、会談は一対一でした。法王さまと二代教祖の会見は和気あいあいのうちに行われ、予定をはるかに超えて1時間余にもなったのです。

 二代教祖が「人生は芸術である。祈ってばかりではだめです。神に祈ると同時に献身することが大切です」と話されると、法王さまが「うちにも〝祈ろう、そして働こう〟という言葉があります」と応じられたのを印象深く思い出します。

 お二人は祈りについてお話を発展させていかれました。法王さまは通訳の話し終わるのを待っていられないといった調子で、表情豊かに活発にお話しされました。

 信仰は祈り(心)と献身・実践(身体)が一如(いちにょ)となることです。信仰において、相対と在る「心と身体」が一如となるのです。

 二代教祖は、その後パウロ6世と再度お会いしており(1974)、ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)ともお会いになっています(1980)。

 1981(昭和56)年2月、ヨハネ・パウロ2世が来日されましたが、二代教祖はすでに体調を崩されており、お会いすることができませんでした。

 

2.「相対と在る」世界

 

(1)世界は「相対と」現れる

  この世界、目に見える現象世界は私たちの前に一切が「相対と」現れてきます。「有限・無限」、「陰・陽」、「光・闇」、「精神・物質」、「心・身体」、「善・悪」、「空間・時間」、「男・女」、「表・裏」、「上・下」、「左・右」、「縦・横」、「+・-」、等々、二元的な姿、「在り方」です。

 「相対と」在るのではなく、他の何ものとも関係なく、「絶対と」在るのは、神(大元霊)のみです。 

 二代教祖は、この点を「主客一致の境地」と捉え、この問題を克服しようとしています。

 「一切は相対と在る」の教えは「世の中の一切の物は陰陽で持つ」の教え(ひとのみち教団時代の人訓第7条であり、徳光教時代の教訓第5条です)を二代教祖が捉え直し、発展させたものです。

(2)「相対と在る」と「相対で在る」

 PL処世訓第7条「一切は相対と在る」について二代教祖は次のように説いています。

  〝この7条は自己表現、芸術していくうえで悟るべき最も大切な境地を言い現したものである〟

 「一切は相対で在る」ではなく「一切は相対と在る」が二代教祖の悟りです。

  〝「一切は相対で在る」ではなく、「一切は相対と在る」というふうに、「在る」となっているところに、真理をズバリ言い現したものであり、この境地を悟れよという意味が含まれているのです。一切は相対になっているなあと、物事を眺めるようなふうにこの処世訓を受けとったのでは、実際の自己表現には役に立たないのです。一切は「相対と在る」と悟ることによって、自己表現の妙諦を早く知ることができるのであります〟

 一切の神業(かんわざ)はあなたに芸術される素材として、どのようにも加工、変化できる可能性を秘めて存在しているのです。ですから、静的な状態として、たんに客観的に、「で在る」ではなく、ダイナミック(動的)な、「相対一如」たらんとするベクトル(力の方向性)を持った、「と在る」なのです。人は常に芸術してやまない動的な存在ですから、一瞬一瞬、変化しながら、すべての神業と「相対と在る」のです。「で在る」では、このようなイメージを表現しきれません。

 

3.「相対一如(いちにょ)」

 

(1)「芸術する」とは「相対と在る」を「一如」とすること

 人は相対と現れている神業(かんわざ)(「世界」)を素材に芸術することによって、世界をわがものとするのです。芸術することによって、人は主客一致の境地に導かれる、世界と一致しよう、自然と一体となろうとするのであり、そこに人の誠の道が開かれてくるのです。それが「人生は芸術である、楽しかるべきである」の教えです。

 一切は人によって一如とされるべく相対と現象しているのです。人が芸術することによってそれが一如となるのです。相対と現れているものすべては人が芸術していく素材なのです。ということは、神業・対象は神の顕現であるので、一如となるとは、神と一体となるということでもあります。

(2)「パリントロポス・ハルモニエー」(逆向きに働き合うものの調和)

 古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトス(前540頃~前480頃)はロウソクの炎は「ほどよく消え、ほどよく燃え」、「燃え続ける」ことができるといいました。

 「消える」と「燃える」というまったく逆向きの2つの動きが同時に進行しているのです。消えながら燃える、「無」と「有」が同時に進行しています。それが燃え続けているロウソクの炎の真の姿です。自然(ピュシス)のリアルな姿はこのようなものとヘラクレイトスは考えました。

 ヘラクレイトスは、そのような火の燃える在り方を「パリントロポス・ハルモニエー」(逆向きに働き合うものの調和)と名付けました。それが自然(ピュシス)の真理と考えたのです。

(3)「かつ消え、かつ結び」(『方丈記』)

 「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」

 鴨長明(かものちょうめい 1155~1216)の『方丈記』の有名な書き出しです。

 うたかたは泡のことです。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」、そして河の流れのよどみに浮かぶ泡は消え、同時に結び、常に生成消滅・変化している、それが世界の真の在り方だと長明は言っています。

 ロウソクの炎は「ほどよく消え、ほどよく燃え」ですし、よどみに浮かぶうたかたは「かつ消え、かつ結び」です。「消えるから燃える」、「消えるから結ぶ」が真理です。逆ではないのです。現代的には、「創造的破壊」という言い方になるのでしょう。

(4)「動的平衡」

 分子生物学者の福岡伸一(ふくおかしんいち 1959~)さんは「生命とは動的平衡にある流れである」といわれます。

 「生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである」というのが20世紀の生命科学が到達した答えでした。この考えでいうとウイルスも生命(生物)であることになります。

 ところが、福岡さんの動的平衡論からいいますと、ウイルスは生命(生物)ではないことになるのです。私たちの身体は60兆個とも70兆個ともいわれる細胞から成り立っています。その細胞は日夜、消滅と生成を繰り返し、数カ月もするとその人の身体を形成している細胞はほとんど入れ替わってしまっているのです。人間が生きているということはそのような細胞の「消滅と生成」そのものであって、その細胞も外界に老廃物を排泄して、栄養を摂取する物質代謝を繰り返して、自らを維持、つまり生きているのです。常に入れ替わりながら、しかも同一性を保持している。そのようなダイナミズムを福岡さんは、動的平衡と呼び、生命の本質と考えるのです。

(5)まとめ

 「一切は相対と在る」の教えは、ヘラクレイトス、鴨長明、そして福岡伸一さんの考えを包含しています。

 二代教祖は青年の皆さんへの話の中で、「皆さんはそれぞれ独特の個性をもっておられるが、いろいろな多くの楽器が一つとなってシンフォニーを奏(かな)でるオーケストラのように結んでいっていただきたい。その中に協和音だけでなく不協和音があっても大いに結構です。それによって、さらに大きな一大シンフォニーとなるのです」と励まされています。

 

4.「有無を絶した有」

 

(1)「有無を絶した無」から「有無を絶した有」へ

  〝人間の生命の本源、物質の本源を究明していきますと、ついには「有無を絶した無」という境地に達するのであります〟

  〝生命の本源をあるなし あるなし あるなし… と思索し究明していけば黙ってしまうより仕方がない、有無を絶した無という境地に到達するわけです。しかしさらに言えば、そういう有無を絶した無という境地があるではないかということになります。そこを本教では有無を絶した有というのです〟

 二代教祖は、〝有無を絶した有、これを相対一如の境地といってもよいでしょう〟と説かれ、次のように解説します。

  〝仏教ではこの一如の境地を探究している。つまり、「有無を絶したる無」の境地に至るのが究極だといわれている。しかし、「人生は芸術である」からみますと、一如の境地に入ったら、瞬時にしてそこから出て来なければいけない。相対一如となってそのままでは何の動きもない、発動がなくてはいけない。ここに本教の悟りがあるのである。その一如の境地そのままに、森羅万象を素材として自己を表現する。すなわち、「有無を絶したる有」と爆発していくのが、芸術なのである。〟

 二代教祖は〝一如の境地に入ったら、瞬時にしてそこから出て来なければならない〟ことを「堂に入って、堂を出でよ」とも表現しています。

 また、二代教祖は、「芸術は爆発である」と表現しています。「芸術は爆発」は岡本太郎(1911~1996)さんの「芸術は爆発だ!」のテレビ・コマーシャル以後有名になりましたが、それよりも以前のことでした。

 「有無を絶したる無」といい、「有無を絶したる有」といい、「堂に入って、堂を出でよ」にせよ、なんのことか分からない、難しすぎると思われるかもしれません。

 この辺の機微を二代教祖は和歌によって巧みに教えております。

  〝昔、一遍上人が師である法燈国師(ほっとうこくし)に

  となふれば 仏も我(われ)も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして

  との和歌で自分の心境を吐露されたことがあった。

  国師が「下の句をなんとかなるまいか」と言われたので、上人は三七日(みなのか 引用者注・3×7=21日間ということです)思案したのちに、次のように直された。

  となふれば 仏も我(われ)も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  国師は「それでよしよし」と言われた。〟

 「声ばかりして」と、〝南無阿弥陀仏〟という声が聞こえるようではまだまだ我執の残っている証拠で「主客一致」の境地とはいえない、ただただ「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と念仏三昧に入ったとき、仏と我が一如となるのです。

 しかし、二代教祖はさらに次のように続けるのです。

  〝となふれば 仏も我(われ)も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  確かにいい味だね。だがわれわれならそうは言わん。

  となふれば 仏も我(われ)も なかりけり 

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 やい南無阿弥陀仏!

  とやるところだ。発動をともなわない没我の境地なんかつまらんよ。〟

 「人生は芸術である」のPLの教えの神髄でもある「有無を絶した有」、「有の境地」が鮮烈に、しかも分かりやすく説かれています。二代教祖の面目躍如たる解説です。

 「堂に入ったまま、出て来ない」と、その人は芸術をしない、いわば「神」になってしまいます。芸術する「人」としては、死んだも同然ということになってしまいます。神と違って有限で不完全な存在である人間はあくまで「芸術し続ける」存在です。「堂を出でよ」とは「芸術せよ」ということです。

(2)「相対 → 絶対無 → 絶対有 → 相対 ……」

 「有無を絶した無」から、芸術することにより、有と転じ、また「相対と在る」→「有無を絶した無」と円環するのです。その刻々の繰り返しが人の生きる力の源泉であり、それが私たちの人生です。

 完全な存在である神と違って不完全な人間は、このような過程、プロセスを踏むこと、芸術することによって常に完全を目指し、限りなく進歩発展していこうとする存在です。

 

5.「カレー」を作る

 

(1)カレーのイメージ、カレーの現実

 例を料理にとり、カレーライスを作るとします。まず材料を整えます。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、肉、カレー粉(ルー)等々。人によっては、さらにその人独得のスパイス、素材を用意することもあるでしょう。

 料理する人が、ただ目の前に材料を並べただけでは、いまだそれぞれの材料が「相対」と在るだけです。

 現実に料理することはなくとも、完全な方法で料理していることをイメージする、あるいは完全な味に出来上がったカレーをイメージすることによって、いまだカレーは実在していない、現実のものとはなっていませんが、「有無を絶した無」の段階に入ったと考えることができます。

 それらの材料を使って現実に調理する、芸術する(実践する)ことによって「一如」たらしめる、カレーを現実に存在させてはじめて「有無を絶した有」となります。

 頭の中でイメージした自分の作ったカレーは完璧な非の打ちどころのないものでしょう。でも、自分が現実に作ったカレーはそうはいかず、思ったとおりの味が出来上がらないかもしれません。だからといって頭の中だけのカレーでは食べることはできません。カレーを食べるには、不完全であっても現実にカレーを作る、芸術する(実践する)以外に道はないのです。

(2)生活実感

 「有無を絶した無」とか「有無を絶した有」という、難しそうなことでも、その出発点はあくまで日常生活の実感にあることを忘れてはなりません。

 たとえば、天動説(太陽が地球を回っているという考え方)と地動説(地球が太陽を回っているという考え方)について考えてみます。

 生活実感としては、毎朝、太陽は東から昇り、夕方に西に沈むのであり、天動説が正しいのです。地球上に在って、太陽を見ている限り、そのようにしか見えません。ところが、科学技術が進歩発展してきますと、天動説とは矛盾する事実にいろいろぶつかるようになってきます。地球から太陽を見る視点だけでなく、太陽と地球を同時に見る視点が可能になってきたからです。それでも、日常生活では天動説で事は足りるのです。

(3)生活実感と科学・科学技術

 日常生活における生活実感は、生物であるホモ・サピエンス(人類)としての私たちの生にとって根源的なものです。

 その生活実感が科学・科学技術の進歩と調和、バランスがとれていた時代、人類は希望にあふれていました。

 ガリレオ、デカルト、ニュートンが活躍した17世紀の科学革命の時代、ワットの蒸気機関のめざましい改良に始まる18世紀後半の産業革命、電気の時代が始まった19世紀、そして自動車、飛行機の20世紀。私たちの日常生活はそのたびに格段に便利に、快適に、豊かになってきました。この400年間、世界はヨーロッパの近代科学文明の時代でした。人類の前途は希望に満ちた、洋々としたものと思われたのです。

 ところが、20世紀前半の第1次世界大戦(1914~1918)でヨーロッパ諸国は人的にも物的にも想定外の甚大な打撃、損害を受け、混乱の時代に入っていったのです。

 そして、第2次世界大戦(1939~1945)です。原水爆に象徴される過剰な破壊力の登場は、科学技術の進歩がもはや人類にとって必要なのか、問題とされるようになりました。

 そのような傾向は、ますます強くなってきています。IT革命、AI(人工知能)、遺伝子操作による生命の根源への接近等々、希望と不安が相半ばする、とどまることを知らない科学技術の爆発的進歩の21世紀に私たちは現在、生活しているのです。

(4)生活実感の希薄化と信仰

 科学技術のあまりに急激な進歩にあい、私たちの生活実感は自然環境や世の中(社会)としっくりこない、なにか空虚なもの、希薄化されたものになってきています。世の中、社会が自分にとってなにかよそよそしいものに感じられる人が増えているのです。とくに科学技術の進歩に順応できる人々とそうでない人々との間のギャップ、貧富の格差が社会を分断する深刻な問題になってきています。

 このような時代をどう生きるか、どのように世に処するか、PLの教え、PL処世訓がまさに求められていると私は確信しています。

 二代教祖は「人訓」でも「神訓」でも「教訓」でもなく「処世訓」と名付けられました。

 毎日を芸術して生活する現場で、人はどのように心掛け、実践すれば、楽しく世を過ごせるか、処世における具体的な現実の教え、それがPL処世訓です。それは処世術ではなく処世訓です。それは特定の人物、特定の状況にだけ当てはまる、たんなる「術(すべ)」ではなく、誰にでも、どんなときにでも当てはまる「訓(おしえ)」なのです。

 

6.「有の境地」

 

(1)神業(かんわざ)に対する「白紙、無意見、無条件」

 「有の境地」とは「一切の神業に白紙、無意見、無条件で臨み、それを素材に積極的に芸術していく、限りなく芸術し続けていく」ことです。芸術の素材としての神業に意見をつけたり、不足を言ったり、条件を勝手につけたり、無視したりすることなく、あるがままに肯定して、一転、それを素材として芸術するのです(「yes, but……」の心構え)。

 「白紙、無意見、無条件」というのは芸術の素材としての神業に対してのものです。それが人間の自由の源泉です。

 神は無限であり、人は有限です。無限な神は芸術する必要がありません。有限であるからこそ、無限な神に限りなく近付こうと、人は芸術するのです。芸術しなければならない存在なのです。

(2)人に対する「白紙、無意見、無条件」

 有限な存在である人間にはいろいろな制約があり、限界がありますから、芸術の主体としての人間について「白紙、無意見、無条件」ということはあり得ません。芸術の客体である神業(かんわざ)に対して「白紙、無意見、無条件」なのです。人間は「意見」のある存在であり、「条件」のある存在で、白紙ではなく「個性」のある存在です。それだからこそ、その人その人の芸術の味が出てくるのです。

(3)ひとのみちの教えからPLの教えへ

 初代教祖は太陽の顕現である天照大神の直系の子孫とされる天皇こそ、現人神(あらひとがみ)であると信念信仰しておられ、その限りにおいてひとのみち教団の教義は「そのものずばり国体に合致した教え」でもありました。ところが、かえってそれが国家権力によって不当に弾圧されることになり、敗戦後、天皇陛下が自ら現人神であることを否定、人間宣言されることによって、ひとのみち教団の教義はその限りにおいて自然消滅しました。しかし、人が生きる真の道を教えるその本来の教えは初代教祖没後、「人生は芸術である」との教えとともによみがえったと二代教祖は説かれます。二代教祖が初代教祖を完全にわがものとしておられたからこそ、このような教えの捉え直しが可能だったのです。

 いうならば、PLの教えが「有の境地」となることは、ひとのみち教団の教えが「無の境地」となることと同じことであるともいえます。「有の境地」に至るには「無の境地」を通る以外の道はありません。ひとのみち教団の教えなくしてPLの教えはあり得ないのです。

 その「有の境地」であるPLの教え、すなわち二代教祖を完全にわがものとしたうえで、「人生は芸術である」の教えを超える教え、つまり、新たな「有の境地」が現れるであろうこと、PLの教えはいったん「無の境地」と転ずるプロセスを経ることを「代々教祖が顕(あらわ)れる必要がある」と二代教祖は射程を遠く予言しておられるのです。代々顕れると期待されている教祖、つまり二代教祖をマスターし、PLの教えを超え出る教えを説く次の教祖が現実に顕れるまでは、「人生は芸術である」の二代教祖の教えが続くのであり、PL教団が継続するのです。PLの教えを超える次の教え、そのような教えを説かれる次の教祖が顕れるかどうか、いつ顕れるかは、神のみこころにかかっているのです。