「日の如く明(あきら)かに生きよ」(PL処世訓第8条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.第8条の由来


(1)二代教祖の思い
 「日」は太陽のことです。
  〝神は太陽(日)と顕現し、その太陽はあまねく一切を包含して、これを生々化育せしめているのであるが、人もこのように生きていけということであります〟
 この第8条を「みおしえ」によって授かったことについて、二代教祖は他の20カ条とは一味違った解説をしています。なぜならば、「日」= 太陽は、二代教祖にとっても、初代教祖、幽祖にまでさかのぼる「この教え」の歴史にとっても、とても大切な問題だったからです。
  〝なぜ、こういう処世訓がさがったかと申しますと、いつかは人類によって太陽というものが解明される時代がくる、そのためにどうしても処世訓の中に「日」についてうたっておかねばなるまい、ということを悟ったからであります〟
 二代教祖は〝なぜ、こういう処世訓がさがったか〟と第8条の由来を述べています。第8条以外の他の20カ条の解説には見られないことです。
 近代科学上の太陽、つまり「物質としての太陽」と精神的(心・意識)、霊的なものの根源でもある「霊体太陽」との関係性を究めたい、それは「宗教と科学とは一致すべきである」との教えの究極の問題であるとの二代教祖の強い思いが込められているのです。
  〝太陽がもっともっと科学的に解明され、もっともっと精神的に究理究明される時代が来るに違いないと思います〟
 ここに、PL教団(パーフェクト リバティー教団 二代教祖の時代)からひとのみち教団(初代教祖の時代)、さらに徳光教(幽祖の時代)へとさかのぼる視点、つまり徳光教の教え → ひとのみち教団の教え → PL教団の教えという三つの教えを「この教え」として、一つの教えと捉え直す二代教祖の視点、視座が示されています。これがPL教団の立教者で初代教主の御木徳近師が、信仰上は「二代教祖」であるとする、昭和30年(1955年)に徳近師が明らかにされた「代々教祖が顕れる必要がある」というPLの教え独特の教義なのです。教祖は教主と違って、「教え」の中のもので、「教団」の中のものではないのです。
(2)幽祖(かくりおや)と「日」(太陽)
 幽祖・金田徳光は弘法大師(空海)を唯一の師匠とされていました。弘法大師が弘(ひろ)めた真言宗(真言密教)の教主は大日如来です。大日如来が日本において天照大神として顕現しているという本地垂迹(ほんちすいじゃく)説(大日如来を本地、天照大神をその垂迹とする)、つまり神仏習合の教えが、わが国には古来からあります。
 そのため、幽祖は真言宗の本山である高野山と天照大神を祀(まつ)る伊勢神宮に事あるごとに参っておられます。
 そして、「天照大神は太陽である」という信仰もわが国には古くからあり、幽祖もそのような信仰をもっておられました。
(3)初代教祖と「日」(太陽)
 幽祖(かくりおや)が初代教祖の心境を〝太陽をみて、「天照(あまて)らす大日(おおひ)の大神(おおかみ)」と唱えて拝む人があらわれた。この人は誠の人であります〟と見てとられたところに初代教祖の原点があります。
 そして、1923(大正12)年9月16日早朝、朝日がまさに生駒山の山の端に出(い)でんとするとき、「かみは一体であるばんしんなきことを知れ」との「みおしえ」を授かり、初代教祖として顕(あらわ)れる道へと入られました。
 そして、1924(大正13)年2月9日、「世の中にいきるものの元は皆水である。その元は日である」を授かりました。さらに、その年の10月26日、「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす為にうまれたるものと知れ」を授かることによって、幽祖が後生に託された「三ヶ条」が現れるに至り、幽祖の正統な継承者である初代教祖が顕れたのです。
 初代教祖は太陽を神として拝み、「天照大神は太陽である」、そして天照大神に直接つながる「天皇は現人神(あらひとかみ/人の姿をしてこの世に現れる神)である」と強く信念していました。
 そのことが、天皇の権威の根源である皇祖神(天皇の祖先神)としての天照大神を人格神と捉えていた当時の政治権力によって誤った信仰とされ、「天皇不敬」= 不敬罪にあたると不当にも断罪されたのです。これが「ひとのみち教団事件」でした。
 これによってひとのみち教団は壊滅しました。
 1946(昭和21)年1月1日の昭和天皇ご自身の「人間宣言」によって、ひとのみち教団の教義のうち「天皇」や「国体」についての教義は自然消滅したと二代教祖は言っています。
(4)二代教祖と「日」(太陽)
 天皇陛下を敬愛してやまなかった初代教祖とともにご自身も、こともあろうに、不敬罪に問われたときの無念さを二代教祖はしばしば私たちに語られたものです。そして、ひとのみち教団の教え全体を「人生は芸術である」との悟りの下に捉え直し、よみがえらせたのが二代教祖です。
 二代教祖が授かったPL遂祖詞(しきりことば)は「貴光(たかひかり)遍照(ます)大元霊(みおやおおかみ)………」で始まります。「大元霊」は「神」のことです。
 「大元霊(みおやおおかみ」を表現するのに一番ふさわしい言葉として「貴光(たかひかり)遍照(ます)」を二代教祖は神より授かりました。「たかひかり」の元の言葉は「高光る」で、「高照らす」、「天照らす」と同じく、日の出の太陽を現す詞(ことば)です。頭上から照らしている昼間の太陽ではありません。
 朝日の初光を毎日戴(いただ)き、日の出を拍手を打って拝する、日の出に霊力を認める、日本古来の信仰です。そのような信仰の流れの中に幽祖、初代教祖はおられました。
 二代教祖はご自分もその流れに在ることをこの「日の如く明かに生きよ」によって示されています。
 「かみは一体であるばんしんなきことを知れ」と初代教祖が悟られたのは、朝日がまさに生駒山の端に出ようとするときであったことはすでに述べたとおりです。
 「遍照」を「ます」と読むところに、二代教祖の悟りがあります。「ます」は「坐(ま)す」であり、「増(ま)す」でもあります。その「ます」がなぜ、「遍照」かと申しますと、幽祖が唯一、師とされた弘法大師(空海)の真言密教上の名(「金剛名号」といいます)である「遍照金剛」(へんじょうこんごう)/「世の中を遍(あまね)く照らす金剛(ダイヤモンド)」に由来するのです。「貴光(たかひかり)遍照(ます)大元霊(みおやおおかみ)」には弘法大師の名がこめられているのです。
 そのためでしょうか、二代教祖は次のように言っております。
  〝旧教団時代の処世訓の中に「世の中にいきるものの元は皆水である。その元は日である」というのがありましたが、ほんとうはこれをそのまま現在の処世訓に入れてもよかったのです〟(引用者注・旧教団とは「ひとのみち教団」のこと)
 人間をも含めたこの地球上のあらゆる生命の起源が太陽のエネルギーにあること、太陽が無かったら、私たちは存在していなかったことは、近代科学において常識となっています。始原の地球環境において太陽のエネルギーからいかに生命が誕生したかは、現在の最先端の科学上の重要な謎の一つです。
 二代教祖はこのような近代科学の動向をも見据えているのです。

2.物質としての「太陽」と心としての「霊体太陽」
 

(1)恒星の一つとしての太陽
 太陽は光り輝き、世界を遍(あまね)く照らしていると古来、考えられてきましたが、近代科学では水素が核融合してヘリウムとなる、そのときすさまじい熱エネルギーを放射し、太陽は光り輝いていると物質的に説明されています。数限りない水爆が爆発しているのと同じプラズマ状態だというのです。
 また、太陽と同じような恒星は宇宙に数えきれないほど存在しているとも説明されています。
(2)霊体太陽
 しかし、地球上の生命は太陽からのエネルギーを根源として海の中で発生し、その最初の生命(細胞)から現在の私たち人間も生まれてきたのです。「世の中にいきるものの元は皆水である。その元は日である」との初代教祖の悟りは、そのことを意味しているものといえます。
 人間には物質としての肉体(身体)だけでなく「心」(「意識」)が備わっています。そして、「心」を持った私たちの生命を維持するための食物もすべて太陽からのエネルギーによって育まれたものです。あらゆる生命の根源で、「心」の根源でもある太陽がたんなる物質的な存在であるはずがない、私たち人間の「肉体」ばかりではなく、「心」の根源も太陽なのですから、太陽自体も、心的、霊的な存在であるに違いないということになります。太陽が潜在的にもっている心的、霊的な力が人間の「心」として、現実のものとして現れていることになるのです。この場合、太陽が「デュナミス」(可能態)であり、人間が「エネルゲイア」(現実態)なのです。
 二代教祖はそれを捉えて「霊体太陽」といいます。「万物にはそれぞれ心がある。万物は生きている」という生命論的、宗教的な存在としての太陽についての究明が、物質としての太陽の究明と並行して科学的にも極められなければならない、と二代教祖は言うのです。
 それが冒頭の二代教祖のこの第8条の由来についての解説であり、〝太陽については今後いろいろなことが明らかになり、太陽と人間の関係というようなことも科学的に解明されるのではないかと思います〟との解説なのです。 
  〝太陽がなければ人間もないでしょうし、地球の生物も存在し得ないわけです。生物が存在するから自分も存在するということになるわけで、太陽があるからここにこうして、ものを考える自分というものがある、ということになります。
   太陽があるから自分がある、ということになれば太陽ははたして単なる物質にすぎないかというようなことも問題になってきます。もし太陽が単なる物質だとすれば、ここにこうして生きている自分、精神をもち、生命をもった自分というものは一体どういうことになるか、というようなことも考えられるわけであります〟
(3)「物質」と「心」についての現代科学の現在
 現代の科学は、いまだ「物質」から「心」(意識)がどのようにして生まれてくるのかを、説明できていません。
 現代の脳科学では、「脳神経の作用で心(意識)が生まれてくる」と説明するのですが、具体的なメカニズムが明らかにされているわけではありません。多くの科学者は疑問に思っています。
 ところで、最近、量子力学という最先端の物理学から、「心」(意識)の起源を説明しようという仮説が出てきているそうです。「そもそも『物質』そのものが極めて原初的な次元で『意識』(心)を持っているのではないか」というのです。「物質」の根源的な構成要素である、量子である素粒子(クオーク、電子など)そのものに、極めて原初的な次元の「意識」(心)が備わっていると考えるのです。量子とは、物質的な「粒子」であると同時に、「波」(波動)でもあるもののことです。光は波であると考えられてきましたが、波であるのと同時に粒子でもあると説明したのはアインシュタインで、「光量子」と呼ばれるのです。
 まさに、二代教祖が言われる「太陽というものが解明される時代」が来つつあるのかもしれないのです。

3.「明(あきら)かに」
 

(1)字ぎりの解釈
 「日の如く明(あきら)かに生きよ」を字ぎりの解釈をすると、〝自分に対して正直であれとか、自分に対して誠実であれということであります〟と二代教祖は言います。
 「字ぎり」とは「辞書に出ているような言葉の意味で言えば」、ということで、二代教祖がしばしば使われる言葉です。もっとも、辞書にはあまり出てこない言葉です。「表面的な意味をいえば、……」ということです。
 「明らか」を辞書で見ますと「①はっきりしていて疑う余地のないさま。明白。②光が満ちてすみずみまで照らすさま。明るい。」(「明鏡国語辞典」)とあります。
 PL遂祖詞(しきりことば)の冒頭「貴光(たかひかり)遍照(ます)大元霊(みおやおおかみ)」の「遍照」とほぼ同じ意味であることが分かります。
(2)字ぎりの解釈を超える
 「日の如く明(あきら)かに生きよ」の字ぎりの解釈を超えた意味、二代教祖の真意は、光輝く物体としての太陽の奥に心的、霊的な根源でもある「霊体太陽」が在ることに心を致して芸術せよ、自己表現せよということです。
 二代教祖は次のように言います。

  〝神と一体となり、自分は神の現れであるという境地において、公明正大な生き方をせよということであります。不明朗な暗い生き方なんかやめよということであります〟
 「霊体太陽」からあなた独特の個性を授かってこの世界に生まれ出ているのですから、あなた独特の芸術をしていかなければならないのです。動物の生のように、本能に支配された、個性のない、同じ生命サイクルの繰り返しにすぎないのでは「あなたの人生」の独特の在り方は消え去り、「人生は楽しかるべきある」とは言いかねることになります。人の一生はその点で動物の生とは異なるのです。
(3)隠されている真理が明らかになる
 「明(あきら)かに」には、暗闇に隠されている真理が明らかになる、真理を明らかにするという意味があります。
 古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトス(前540頃〜前480頃)は「ピュシスは隠れることを好む」と言いました。「ピュシス」は「自然」と訳されますが、「真理」という意味を含んでいます。
 隠れることを好む真理、隠されている真理を知るにはどうしたらよいのでしょうか。芸術することによって、隠されていた真理が露(あら)わとなって私たちの前に姿を現すのです。頭で考えていただけでは分からない人生の真理、喜びを、あなたは芸術する、自己表現する、実践することによってわがものとすることができます。
 日(太陽)の光は万物を偏(かたよ)りなく、遍(あまね)く照らします。光は満ちあふれ、すべてに及びます。日(太陽)はすべてを包含し、すべてを包容するのです。それは限りない愛です。「北風と太陽」のイソップ童話もそのことを教えているのでしょう。
 あなた自身が現に生きている人生を肯定する、一切の神業(かんわざ)を肯定する、そのうえで、一切の神業を素材として芸術しようとする境地、「yes, but ……」の境地こそが、大きな包容力をもった心境といえます。それは、実に楽しい境地で、「人生は芸術である、楽しかるべきである」の教えが実現される境地です。
 一切の物事を肯定し、しかも、それを素材として明るく、楽しく芸術するのです。「根暗(ねくら)」といわれるような暗きにつきやすい人は、日(太陽)にそむき、不健全な心になったり、不健康になりがちです。
(4)秘密=「日みつる」

  〝秘密というものは、必ずあらわれるということです。秘密という言葉には、物事を明らかにするという言霊(ことだま)があるのです。秘密ということは「日みつる」ということであり、時期がくれば神がその内容を明らかにするという意味があります〟 

  〝日(太陽)は夜も昼もたえずこの地球を照らしておりますが、これは言霊(ことだま)——わが国の上代に、言語に宿っているとされた不思議な霊力をいった語(広辞林)——からいえば「神」ということであります。すなわち「日」は神という意味であります〟

  〝秘密になるようなことはしないほうがよいことは言うまでもありませんが、もしかしたらいつかはあらわれるものだということを知っておくことが大切であります。このことも「日の如く明(あきら)かに生きよ」の解釈の中に入る問題として申しそえておきます〟
 秘密は「日みつる」で、神の顕現である日(太陽)が明らかにしないではおかないのです。

4.「日」の言霊(ことだま)は「神」
 

(1)「日止(ひと)」と「日去(しぬ)」
 二代教祖が「日(太陽)は言霊(ことだま)からいえば『神』ということである」と解説していること、言霊(ことだま)とは、古代の日本で、言葉に宿ると考えられた霊的な力で、不思議な働きであることはすでに述べたとおりです。
  〝「神」(日)が止(と)まっているという意味で人間を「人」(日止/ひと)というのです。人は日から来て日に帰るのであり、その日がとまって人(日止)となるのです〟
  〝関東地方あたりでは、「日」を「し」と発音する場合があるようですが、「日」も「し」もともに言霊(ことだま)でいえば「神」ということであります。人が「死ぬ」ということは「日去(しぬ)」ということです。日が止まって人(日止/ひと)となっており、死ぬということは日が去(いぬ)るという意味であります。すなわち人は日から来て日に帰る、神から来て神に帰るのであります〟
  〝日止(ひと)は日去(しぬ)と大日輪を刻ましめ 自(みずか)ら記す 御木家累代之奥津城〟 二代教祖詠(歌集『生くらくは』所収)
(2)「白日」
 二代教祖の幼名は「皦正(あきさだ)」ですが「皦(あき)」という字の意味は「白日(はくじつ)の王」のこと、「白日(はくじつ)」というのは「太陽が最も輝いている状態」のことだとお聞きしています。
 私は二代教祖から〝白日(しらひ)〟と名付けていただきました。「常に清浄無垢、明々白々、いつもハッスルしてくらす、それが〝白日(しらひ)〟である」と教えていただいています。
  〝天(あめ)わたる真日(まひ)の太陽(おおひ)の神業(かんわざ)の 白日(しらひ)と生(い)きて畢生(ひとよ)すぐさむ〟 二代教祖詠
 1980(昭和55)年4月8日の傘寿の誕生祭の直後に二代教祖が「白日に代わってお前の心境を歌にしたから書きなさい」と言われたのがこのお歌です。「これがお前の心境じゃ、白日のあるべき姿だ、 これを終始一貫すること」と言われて、 ルビのふり方を指示してくださいました。
 私はこのお歌のイメージを自分のイメージとして芸術するよう、至らないながらも、努めてまいりました。
 これからも終始一貫したいものと祈念しております。