「自他を祝福せよ」(PL処世訓第10条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.「自他」と「祝福」


(1)「自他」
 「自」とはもちろん自分のことです。「他」は常識的にはとりあえず他人のことでしょうが、人間以外の動植物、鉱物なども含めた地球の環境そのもの、「自」分がそこに存在している場所、宇宙をも視野に入れた世界全体、つまり「自」分以外のすべてが「他」です。
(2)「祝福」
 「祝福」は「(他人の)幸福を祝い、また祈ること」です。祝福の対象は本来他人なのですが、世の中には他人はそっちのけで自分自身だけを祝福したがる人がいるものです。
 そこで、二代教祖はそのような自分を祝福する人を排除することなく、それはそれとして、自分自身を祝福することの本質は何か?といえば、それは「他」を祝福することにある、それを「知る」ことが大切であると教えているのです。
(3)「自他を祝福」
 そこで「自他を祝福」ですが、「他」を自分以外の世界全体と捉えるならば、「自他を祝福せよ」とは「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)にほかならないことが分かります。
 人は自分一人で生きているのではなく、他の人からおかげをたくさんいただいて生きています。周囲の「もの・こと」、つまり自分自身の身の回りを見ましても衣食住において人の手をわずらわさないものは一つもないのです。同時に、他の人についてもまた、同じことが言えるのです。私たちはお互い同士、依存し合って生きているのです。
 社会的動物と言われる人間にとって、「社交」は本質的なものです。そして「宗教の本質は、社交である」ということもできるのです。
 プロテスタントの神学者シュライエルマハー(1768〜1834)は、「宗教が存在するからには、それは必然的に社交的なものでなければなりません。そのことは、人間の本質に基づくだけではなく、むしろそれは宗教の本質に基づくものなのです」と言っています。シュライエルマハーは「宗教の本質は直観と感情である」とも言っています。
 他の人たちのおかげで安全で快適に暮らすことができると気付けば、自分の存在もまた他のために役立つ存在でありたいと願わずにはいられませんし、そうすることが自分自身の喜びにもなってくるのです。自分が少しでも世のため人のために役立つ人でありたいと思って暮らしていますと、なにか心ほのぼのとしたものを感ずるようになり、自分の手掛けることに真心がこもってきます。
 「自他祝福」は世界平和(よのためひとのため)への第一歩であり、出発点なのです。

2.「自分で自分をほめたい」


(1)有森選手の名言
 バルセロナでのオリンピック(1992年)で女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子さんは、すでに29歳と全盛期を過ぎた次のアトランタのオリンピック(1996年)で見事銅メダルを取りました。前回の銀メダルには及ばなかったのですが、有森さんがゴール後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います」と感極まって涙ながらに語った姿に私たちは感動しました。「自分で自分をほめたい」はその年の流行語大賞になりました。「初めて」がポイントです。今まで自分で自分をほめることなどなかったが……という含意があるからこそ、有森さんの言葉に重みがあり、私たちを感動させたのです。
 この言葉は、自分自身を他者として客観的に観察しての表現にまで昇華されているからこそ重みがあるのです。
(2)「情けは人の為ならず」
 「情けは人の為ならず」ということわざがあります。「人に情けをかけるのはその人の自立の妨げになり、その人のためにならない」という意味でこのことわざを使う人がいますが、誤りです。本来の意味は「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いがくる。人に親切にしておけば、必ずよい報いが自分に帰ってくる」、人に情けをかけるのは人のためではなく自分のためだ、という功利的なものです。
 「自」を祝福することの本質は、「他」を祝福することにあると知らなければならないという教えである「自他を祝福せよ」は、「情けは人の為ならず」のことわざと似ていますが非なるものです。自分によい報いが帰ってくるかどうかは、主観の問題ではなく、客観の問題なのです。人に情けをかけたのに、その人に裏切られてしまって、自分によい報いがちっとも帰ってきていないと、たとえあなたには思われたとしても、実はちゃんと自分に帰ってきているのです。そのことに気付かなければならない。なぜならば「その神業(かんわざ)」(情けをかけた人に裏切られること)を素材としてあなたはさらに芸術することができるからです。すべての神業(かんわざ)を肯定する。そしてそれを素材に芸術する積極的な人生こそあなたの人生であると二代教祖は教えているのです。
 「情けは人の為ならず」は、人に情けをかけることはあなたにとって利益になるのですよ、といういわば利益誘導的な生活の知恵ともいうべきものです。しかし「自他を祝福せよ」は単なる生活の知恵や処世術ではありません。PL処世訓は真理そのもの、神律です。

3.「特定の個人」への祝福では不十分


(1)「我(が)」の生き方と「誠」の生き方
 人は一人で生活をしているのではなく、家族と、そして友人、知人、同僚と、もっと広くいうと自分以外のすべての人々と社会生活をしているのですから、そこから逃げることなく、常に自分も他人も共に最も気分のよい状態にしようと努めることが大切です。「社交」が人間の本質であり、宗教の本質であることは、すでに述べたとおりです。
 〝自分のためのみを考えての生き方を我(が)というのであり、我(が)はたやすく、他を計った生き方、これを誠といい、誠はむずかしいようになっているのです。〟
(2)「特定の個人」への祝福
 〝たんに特定の個人を祝福したからといって、それでよいというものではありません。そのことが第三者から見た場合、社会的立場から見た場合、ともに喜べるような穏健妥当なものでなくてはならないのです。〟
 〝特定の人を喜ばしただけで、得々として、いかにもよいことをしたような気持ちでいる人を見受けたりいたしますが、それが他を不快ならしめたり、他を損ねたりしたのでは、それはむしろ小主観的表現、わがまま芸術というべきであり、あまり価値のあることではありません。〟
 「特定の個人」とはその人と利害関係のある人、その人にとって利益になる人であり、そういう人だけを喜ばすということが他からみて不快になるようなものでは、いわば自分の利益だけの独り善がりでわがままな在り方で、自他祝福芸術としての価値は薄いのですよということです。
 大所高所に立っての自他祝福、すなわち世のため人のためと遂断(しき)り、自覚しての自他祝福芸術がよいのです。

4.「祝福の神事」


 「万人への祝福」を神事として二代教祖が「みおしえ」によってこの世に顕(あらわ)されたのが「祝福の神事」です。「祝福の神事」は「自他祝福」の極致、究極のものです。二代教祖はブラジル布教において「ベンソン」(ポルトガル語で「祝福」の意味)をされましたが、そのイメージが「祝福の神事」という精神造型へと結実しました。
 二代教祖は、弟子たちに自らの心境を明らかにし、修行のよすがとなるように、毎日、日訓を示しておられました。
(1)日訓第8821信(昭和46年10月8日)
 〝きょうは、午後2時半に自動車でサンパウロを発って、550キロのパラナ州ロンドリーナ教会にきて一泊した。途中、オウリンニョス教会とアプカラーナ教会に立ち寄り、集まった会員百数十名にベンソン(祝福)をしてやり、ケーキに遂断(しき)っただけで、教話もせずにアテローゴ(さようなら)したのであった。自分にはそれだけでは何か物足りない気持ちがしたので、何か話をしようとしたのだったが、○○指導係長が、ベンソンだけのほうがみんなが満足する方法だというので、そのようにした次第である。
  純粋信仰の境地からいえば、要するに「説教などというものは説明に過ぎず、信仰の要諦ではないんだな」ということをあらためて思わせられたことであった。
  因みに、どの教会も会員のほとんどはブラジレイロで、日系人は一割もいない状態だから、日本語は全然通じないのである。〟
(2)日訓第8822信(昭和46年10月9日)
 〝ロンドリーナを午前に発って、アプカラーナ教会に寄り、型どおりケーキを前にしてベンソンをし、次に『ここでは教育者が多いから何か簡単に話をしてほしい』とのことなので、試みに十数分しゃべってみたのであるが、今一つぴんと来ず、あまり効果はなかったと思われた。(以下略)〟
(3)「教師の握り拳(こぶし)」
 「ベンソン」がどのように「祝福の神事」へとイメージが造型されたのか、二代教祖の精神造型、芸術のプロセスが二代教祖自身によってその一端が示されているところにこれらの日訓の意義があります。二代教祖は師匠として弟子たちに自分の心境、そのプロセスを隠すことなく開示しておられました。ブッダの※「教師の握り拳(こぶし)」の逸話と同じです。よき師匠はすべての弟子に対して、教えを握り拳の中に隠して秘してしまうようなことはせずに、分け隔てなく伝えようとされるのです。
※「教師の握り拳(こぶし)」
  80歳となり死の近いことを悟ったブッダは、生まれ故郷に向かって、最後の旅に出ました。弟子であり従兄弟でもあるアーナンダを同行させました。アーナンダが「師がいなくなったとき、私たちは何をよりどころにして道を歩めばよいのでしょうか」と尋ねたところ、ブッダは「私は分け隔てなく、教えることはすべて教えた。何かを弟子に隠すような〝教師の握り拳(こぶし)〟などない。あとは、あなた方は自分自身と教え(仏法)をよりどころとして生きなさい。それ以外のものをよりどころとしてはならない」と諭(さと)されたのです。仏教以外の宗教では、「教師の握り拳(こぶし)」といって、師匠が握り拳の中に隠すように秘密にしていた教えの奥義を、死の床で気に入った弟子だけに伝授するようなことがあったのです。
  なお、仏教のお経(経典)は「如是我聞(にょぜがもん)」(「このように私は聞いた」の意)で始まりますが、この場合の「私」はアーナンダのことで、アーナンダが師であるブッダから聞いたことを伝える形になっているのです。

5.「自他祝福」表現の方法


(1)「自他祝福」は身近なことから
 自他祝福は自分が日常、身近に接している人々を喜ばすところから始まります。
 〝はじめから世のため人のためとか、世界平和のためというような、大きな目標をかかげて努力するような人は少ないのです。たいていの人が身近なところからはじめるわけですが、それはそれで結構だと思います。結果としては立派な自他祝福になっており、そういう身近なことの方が、かえって積極的に実行しやすいし、その方が能率も上がるようであります。〟
 最初から「世界平和のため」というような大きな言い方をしたのでは、直接心に響かないかもしれません。確かにそうかもしれないけれど、自分はとてもそういう気分にはなれない、というようなことにもなりかねません。まず身近なところから始めるのがよいのです。
 たとえば、家族のために心をこめて料理をする、掃除をする、世話をするとか、それぞれの立場において身近なところにできることはたくさんあります。そのような身近な誠の積み重ねが世界平和につながるのです。
(2)神に祈り、遂断(しき)って
 身近なところから自他祝福の芸術をはじめることが大切ですが、同時に大切なことは、神に依(よ)りつつ、遂断(しき)って自他祝福芸術となるよう念願することなのです。
 それが表現方法について創意工夫しようという意欲となり、よき自他祝福の表現方法に結実するのです。
 〝大切なことは、さらに神に依(よ)りつつ実行するように教えていくことであります。「おかあさんのために一生懸命に勉強なさい。そしていつも神さまに遂断(しき)って勉強するのです」というふうに教えていくことです。そこから世界平和のためとか人類永遠の福祉のためというような問題にもつながっていくのであります。
 〝自他祝福——われもよし人もよし——ということが、人としていちばん正しい在り方ではありますが、そのわれもよし人もよしという表現を神に祈りつつ神を拝みつつ実行することによって、そこにこよなき自己表現が展開されるのであります。〟
(3)「自他祝福」の境地は無限
 自他を祝福する境地にも段階、グレードがあります。自他祝福の芸術はどこまでも深めていくことができるのです。物事に誠をこめるところに自他は祝福されることになりますが、その自他祝福の方法や境地は無限です。どのようにも、より深く、より高く、より広くしていくことができるのです。
 〝世のため人のため、世界平和のために何かお役に立つことはないか、何か人に喜んでもらえることはないかと考えていけば、どのようなことでも考えつくことができるものです。そして、人が考えついたことは必ず具現し実現するのです。〟
 〝「私は自他祝福の芸術がしたいのです。何か世の中のお役にたつ仕事がしたいのです。どうか私に自他祝福の方法をおさずけください、独特な自他祝福の表現方法を授け給え」と神に祈り遂断(しき)っていくことであります。その誠、その熱意に応じて、つぎつぎとどこまでも自他祝福の表現方法を授かることでありましょう。それは血湧き肉躍るおもしろくたのしい境地です。〟
(4)「礼儀作法」と「みだしなみ」
 二代教祖は、自他祝福するための心掛けとして「礼儀作法」と「みだしなみ」の大切さを説いています。宗教の本質は社交であるのですから、当然にそうなるのだと思います。
 「礼儀作法」は、社会生活の秩序や円滑な人間関係を保つために守るべき行動規範と物事を行う時の慣例となっている方法のこと(明鏡国語辞典)。
 「みだしなみ」は、①人に不快な感じを与えないように、服装・容姿・言動などを整えること、またその心掛け。②身につけておきたい教養や技芸のこと(明鏡国語辞典)。
 〝民主主義だといって礼儀作法を無視するような風潮がありますが、礼儀作法は無視されれば無視されるほどそれだけ社会からうるおいがなくなり、微妙なる人間と人間との交流の味が減殺されるのです。
  
礼儀作法とかみだしなみというようなものは社会人としての当然の教養であり、自他祝福のための大切な心掛けでなければならないのです。他から見ても感じよく、自分も気分がよいような言動やみだしなみでありたいものであります。〟
 50年以上前に、すでに二代教祖は社会からうるおいがなくなること、私たち人間関係の微妙な味わいが失われることを危惧しています。グローバル化の反動で貧富の格差が拡大し、内戦や難民問題など人々の間の連帯感が失われつつあるいま現在の世界の状況の中では、自他を祝福することの重要さはますます大きくなっているのです。
 何をするにも常に「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)という神の方向性に沿っての自他祝福の芸術になりますようにという祈り心でさせていただきたいものです。