「名に因(よ)って道がある」(PL処世訓第12条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

1.「名」とは


(1)「名がある」と「名がない」
 私たちの身の回り、つまり私たちの世界にあるすべてのものには名が付けられています。より正確に言いますと、名が付けられているものによって構成されているのが、とりあえずの私たちの世界です。名がないものは、たとえ物理的にそこに存在していても、私たちはそれに気づいていないので、私たちの世界に現れておらず、存在していないのと同じなのです。
 たとえば、動物や植物の新種が発見されて名が付けられると、それによって私たちの世界に入っていなかったものが新たに入ってくることになります。新しい惑星が発見されて名が付けられるのも同じことになります。
(2)「名を付ける」ことは「秩序をつくる」こと
 名を付けることは、混沌としてつかみどころのない状態を私たちに理解できるように区分け、区別していくことです。世界が理解できる形になるということは世界を秩序立てる、秩序をつくることを意味しています。名を付けることは秩序をつくることです。
 私たちの周りを見回しますと、机、椅子、鉛筆などの「もの」、家事、芸術、生活、文化などという「こと」、それぞれに名があります。それに何よりも重要なことは、人それぞれに名前があるということです。
 山本太郎、山田花子と名付けられれば、初めて、山本太郎、山田花子としての神業(かんわざ)が現れ、この世に存在することになります。それだからこそ、私たちはものを考えたり、互いに話し合ったりすることができるのです。
 人が名前を奪われることはどういうことか。ナチス・ドイツによってアウシュヴィッツ強制収容所に入れられたユダヤ人は「名前」ではなく「番号」によって呼ばれていたそうです。そこでは個人の個性も、人格すらも否定されているのです。
(3)「名がある」ことは「存在する」こと
 日本語に「もったいない」という言葉がありますが、外国語にはないそうです。「もったいない」という言葉がないということは、その人たちがそのことに気付いていない、つまりはそもそも「もったいない」ということが存在していないということです。
 ユダヤ教の聖典であり、キリスト教でいう旧約聖書の冒頭「創世記」には、〝神が「光あれ!」といわれた、すると光があった〟とあります。「名がある」ことがすなわち「存在する」ことであることを端的に物語っています。
 最近「ストーカー」とか「セクハラ(セクシャル・ハラスメント)」「パワハラ(パワー・ハラスメント)」といった新しい言葉(「名」)が定着することによって、それまで明確にはイメージできなかった事態がはっきり分かるようになってきました。それによってそのような事態への対応策、予防策を講ずることも可能になりました。
 性的な嫌がらせ、権力や上位の立場を乱用した嫌がらせ、という事柄を端的にまとめた語句、「セクハラ」、「パワハラ」という名称を与えたのは、人の思考の広がりの上に役立つことです。こうした複雑な事態に対しても呼称を与えることで「名に因(よ)って道」が生まれてくるのです。
 ちなみに、このように外来語がカタカナのまま日本語化していくことは日本語の造語力が衰退していることで心配です。幕末維新の文明開化の時代には西欧から怒涛(どとう)のように入ってきた言葉を片端から漢字を使って翻訳した先人たちの語学力を思うとき、日本文明、日本文化の衰弱を感じざるを得ません。「権利」とか「自由」、「社会」、「存在」……等々、翻訳語は数えきれません。それらの多くのものは漢字の本場の中華民国や中華人民共和国へ逆輸入されています。
(4)「海の魚のフライ」
 海から遠い山国のヨーロッパの国々を旅行した日本からの旅人がレストランに入ったとき、メニューに「海の魚のフライ」とあるだけで、魚の名前がないのに驚いたそうです。海のない山国では「川の魚」ではない「海の魚」というだけで十分で、それ以上細かく分類する必要がない、マグロもカツオもタラもアジも「海の魚」という同じ言葉でよい、区別する必要がないということです。
 海に囲まれ、魚の食文化が花開いている日本では考えられないことです。日本語には同じ魚でも成長するごとに名前が変わっていく出世魚といわれる魚まであります。イナダ、ハマチ、ブリと同じ魚でも大きくなるに従って名が変わっていくということは、それぞれに別の役割、価値がある別のものと私たち日本人は考えてきたということです。たとえば食べ方や料理方法が変わってくるわけです。それだけ魚に対する日本人の興味、社会的な関心が深いのです。味の違いも分かりますし、料理方法も多様化してきます。アラビア語では「出世ラクダ」というか、ラクダの性別とか年齢によって別々の名が付けられているそうです。別々の名があるということは、それなりの持ち味、役割がそれぞれにあるということです。「名に因(よ)って道がある」のです。日本人から見れば、ラクダはすべてただのラクダでしかありません。
 英語では雄牛をOX(オックス)、雌牛をCOW(カウ)といいますし、仔牛はCALF(カーフ)です。雄牛でも成長したものはBULL(ブル)、去勢されるとBULLOCK(ブロック)となります。しかも、牛肉になるとBEEF(ビーフ)ですし、仔牛の肉はVEAL(ヴィール)となります。
 日本では牛は牛です。雄であっても雌であっても牛として同じ役割、価値のものと考えていた日本古来の文化の反映といえます。牛乳を飲んだり、牛肉を食べたりする文化がなく、牛はもっぱら農耕、運搬に利用されていたので、ただの牛でしかなかったのです。

2.「道」とは


(1)道の行き先は?
 道の元々の意味は道路であり通路です。人が行き来する道であり、目的地に行くため通らなければならない道であり過程です。そこから転じて人が考えたり実践したりする事柄の条理、道理の意味を含むようになり、さらに特定の教え、たとえば儒教や仏教における真理を指す言葉ともなっているのです。その意味で、言葉も進歩発展するのです(「一切は進歩発展する」PL処世訓第16条)。
 そこで、道について次のようなむずかしい言われ方がされるようにもなるのです。
①「天の命ずるを性と謂い、性に率(したが)うをこれ道と謂う」(「中庸」。中庸は儒教の「四書五経」の四書の一つ)
②「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」(「中庸」)。「誠」が「道」と密接な関係のある言葉であることが分かります。
③「道は本然の姿を示し、人として本然の姿にあらしめるあり方を示すものである」。本然とは「生まれつき(本来)そうであること、自然のままであること」です。
(2)日本人と道
 二代教祖は、次のように言っています。
 〝道とはそのものの本質であり、そのものの使命ということであります。すなわち世の中の一切のものは、それぞれその名によっての使命があり、そのものの本質があるのであります。しかもそれはすべて人のためにあるのであります。〟
 私たち日本人には日常的なこと、身体を鍛えること、趣味的なことでも、それを「道」として捉え、その道を突きつめていくと、精神的にも人間として本来あるべき姿、境地に入ることができるという人間観、人生観、精神文化観があります。「一芸に秀でる」ことが人格の完成につながるのです。たんに「技術に長(た)けている」と捉えるだけではないのです。そこには人格完成の方法の多様性(ダイバーシティ)を肯定する人生観があります。
 お茶を入れる、頂くということも、お花を生けるということも茶道、花道(華道)という形と心をととのえる専門芸術にまで高められ得るのです。剣術も「剣道」、柔術は「柔道」と「道」となるのです。
 二代教祖は野球を「球道」と捉え、「球道即人道」という書をPL学園野球部に示しています。
 私たちにとって存在するすべてのものが「道」となるのです。それが「名に因(よ)って道がある」の教えの原点です。

3.「名即道(なそくみち)」


(1)「湯呑(ゆのみ)という名が直ちに道」
 「名は直ちに道である」と、二代教祖は次のように言われます。
 〝PL処世訓第12条は「名にって道がある」となっておりますが、言い方としては少し回りくどい感じがいたします。口語文にしたためにこういう言い方になったわけです。これはむしろ「名は直ちに道なり」というのが正しいのであります。
  湯呑といえば、もうそこに道がある。湯呑という名が直ちに道であるということになるのであります。すなわち「名は直ちに道なり」、「名即道」ということになるのであります。〟
 「湯呑」という名はそのまま湯呑の本質、使命なのです。たとえば茶道では「湯呑」を使います。茶道という芸術の素材として使われるのでその名もそれにふさわしく「茶碗」となりますし、その姿、形もそれにふさわしいようにいろいろデフォルメされることになります。茶道にふさわしい茶碗を作ろう、それによって茶道そのものをも洗練されたものにしようと人は創意工夫することになるのです。
 ちなみに、PL文化(芸術実践の場)として二代教祖は茶道部をつくられたとき、自ら「芸」の字を記された抹茶茶碗を五千個おつくりになり、「芸字茶碗」と命名されました。また、茶室もつくられ、当時の裏千家の宗室(現玄室)宗匠に「松生庵」と命名していただき、額に書いてもいただきました。
(2)初代教祖の教えから「人生は芸術である」の教えへ
 「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす為にうまれたるものと知れ」、初代教祖が悟られた真理です。
 二代教祖は「ひとをいかす為」を「人が芸術するため」と同じであり、「世の中にあらはれた一切のものを素材として人は芸術する存在であることを自覚しなさい」と初代教祖の教えを捉え直すのです。また、「うまれたるもの」とは名を付けられるということです。名を付けられることにより現実に存在することになり、道となるのです。
 このようなことを20世紀最大の哲学者ともいわれるハイデガー(1899〜1976)は「言葉こそ存在の住居である」と表現しました。
 世の中に現れた一切のものは、その名にちなんで人が生かし、芸術していく素材です。この世に現れた森羅万象すべて、すなわち神業(かんわざ)に無用、無駄なものはありません。仮に無用、無駄に見えるとすれば、その人がその神業の本質、持ち味、役割、使命を十分に捉えきれていないのです。
 人はすべての神業を素材として芸術せねばならぬ神業におかれているのです。すべての神業を肯定して、それを素材として創意工夫して芸術していくプロセスが人生です。神業を否定したり、拒否すると、その人の芸術、自己表現はそこで止まり、行き詰まってしまいます。そうなると人生は楽しくなくなってしまいます。
 このような人間の在り方、世界の在り方をヘーゲル(1770〜1831)は「現実的なものは理想的であり、理想的なものは現実的である」と表現しました。

4.「みおしえ」と「名」
 

(1)「名」を見る
 〝本教の「みおしえ」は、その名によってするのであり、「みおしえ」によれば、すべてそのものの道、そのものの使命がわかるのであります。〟
 〝私は「みおしえ」をいたしますが、それは名を見てするわけです。おしえおやといえども、何もかも研究しているわけではありませんし、また現代の学問によって世の中の何もかもがわかっているというわけでもありません。結局私は知識・経験・学問というようなものは一切無視してと申しますか、なにものをも顧慮せず、なにものにもとらわれずに、ただその名を見て「みおしえ」をするわけであります。〟
 〝何もかも全部、世の中のありとあらゆるものが、その名を見れば必要に応じてわかるのです。〟
 上記は「みおしえ」についての二代教祖の言葉です。「名に因(よ)って道がある」のですから「名」の奥に厳然と存在している「道」を捉える方法を人は修練を積むことによって会得できるのです。それが「みしらせ・みおしえ」の教えの基盤となる世界観です。
 「名に負う」という言葉があります。「し」という強めの助詞を伴った「名にし負う」とも言います。
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」(在原業平 伊勢物語 古今和歌集)
「名にし負はば 逢坂山 の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」(三条右大臣・藤原定方 後撰集 百人一首)
 「名に負う」、「名にし負う」の意味は、「①名として負い持っている ②かねて聞いているところと違わない、名前どおりである ③名高い、有名である」です。「言霊の幸(さきわ)ふ国」、「大和の国」(日本)にいかにもふさわしい言葉です。
(2)「名は体をあらわす」
 私にも、あなたにもそれぞれの名前があります。「名は体をあらわす」と言われますが、名前はその人そのものであり、その人のあるべき道がそこに示されているのです。人は名とともにあり、己自身の神から与えられた立ち位置、在り方を踏まえての道が厳然と存在しているのです。
 二代教祖は、元旦の書き初めの時とか私の誕生日に、「為白日」として私のために色紙に、「白日と在れ」「白日と生きるべし」など、私の心得るべきことを書いてくださいました。「白日」の本質、在るべき姿、その重要な使命を折に触れて話してくださいましたが、名というものの大切さをしみじみと感じたことでした。
 〝「名に因(よ)って道がある」
  名ほど大切なものはない。自己は名であり、名は自己である。名は自己の肉体のみならず霊魂を代表し、生存中は勿論、死後も永遠に存在して不滅なるものである。
  芸術は名の顕現である。誠することによって無限にその顕現を深めていくことができるところに、生きることの限りなき喜びがある。人から名を取ったら何もなくなってしまう。〟
 名はその人そのものであり、名とともに人は在るのです。名はその人が生きている間はもちろん、死後も霊魂とともに未来永劫に不滅であると言われています。名ほど大切なものはないのです。
(3)「名」と言霊(ことだま)
 名は言葉です。言葉には言霊(ことだま)があります。
 言霊(ことだま)は言葉に宿っている不思議な霊威のことです。言葉そのものに霊力が宿っていると信じ、ある言葉を口に出すとその内容が実現するという信仰・信念です。「みおしえ」をさせていただくとき、名前を見て致します。名前にはその人のすべてが含まれています。その人の歴史、履歴が刻み込まれています。
 二代教祖は「名前を見たらその人が分かる」と言っております。二代教祖だから名を見て分かるのではなく、名を見て分かる方であり、「みおしえ」によってすべてが分かる方だからこそ、二代教祖として顕(あらわ)れていることを私たちは知るのです。

5.匿名は「我(が)」である
 

(1)「匿名は貧乏根性」
 二代教祖が、〝芸術は名の顕現である〟と教えていることはすでに記したとおりです。
 二代教祖は〝匿名は貧乏根性である〟とも教えています。貧乏根性とは正々堂々たる神にる信念ある自己表現のできない心のことです。他人のおもわくを気にかけたり、物質欲にとらわれて、自己をありのままに表現することを潔しとしない心です。
 〝ぜいたくだといって、他人を非難する者の心情は、たいてい貧乏根性である〟とも二代教祖は解説しています。
 なお、「貧乏根性」と「匿名」については、第4条「表現せざれば悩(なやみ)がある」のところで触れています。
(2)「署名のできない芸術はするな」
 匿名は一種の「我(が)」なのです。〝署名のできないような芸術はするな〟、〝献金する場合、献金芸術には必ず名を記すべきである〟が二代教祖の教えです。
 なお、表現の自由、政治的自由、寛容さのない社会・ネット空間においては、匿名もやむを得ないことについては、第4条「表現せざれば悩(なやみ)がある」で言及しました。
 SNS(Social Networking Service)における匿名性の問題、それに対する規制の問題……等々、最近における大きな社会問題を考えるとき、「名に因(よ)って道がある」の教えは重要な指針となるものです。


 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。