PL処世訓第21ケ条の勉強会の成果をまとめたり、二代さまの戦前からの日記の整理をしておりますと、二代さまの日訓が参考となることがしばしばです。
そんなときに、出会ったのが日訓第7585信(昭和43年5月21日)です。
〝「ある先輩の先生が〝PL教団は御木徳近の芸術である″といわれましたが、どういう意味なのでしょうか」
「政治でも教育でも学問でも事業でも、ことごとくそれを〝担当する人の芸術である″と言って少しも間違いはない。しかし、そういう言い方をすると誤解を生ずるおそれがある。――人生は芸術であり、人はおのおのの神から付与された個性に基づき、我なき境地(客観)に住して自己表現をするのが道であるからして、何をしてもそれはその人の表現に違いないのである。だが、それはあくまで手法であって、真理が変改されたりするわけのものではない。そもそも芸術は手法の味ともいえるのであって、手法は各人各様のオリジナリティ(創造)によるところに無限の喜び――物心両全・内容律と形式律の一致の味――がかもしだされるのである。それを軽々しく〝御木徳近の芸術である″などといってしまうと、心境未熟の者は誤解をするおそれがあるから気を付けてものを言うべきであろう」″
この日訓に会って、あらためて衝撃を受けました。
次のようなところです。
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その人の表現はあくまで手法であって
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真理が改変されたりするわけではない
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手法は各人各様のオリジナリティ(創造)によるところに無限の喜びがかもし出される
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〝PL教団は御木徳近の芸術である″などといってしまうと、心境未熟の者は誤解するおそれがある
二代さまの芸術によって真理が作られたり、変改されるのではなく、真理は常にすでに客観的に存在しているのです。ただそのままでは真理は目に見えないのです。
その目に見えない隠されている真理が二代さまの芸術によって私たちの目に見えるように表れ出るのです。
同じことを初代さまも幽祖さまも実践されました。
ただ、その〝手法″に違いがあるのだとの言葉に衝撃を受けたのです。「芸術はあくまで手法」であり、「手法は各人各様のオリジナリティ(創造)によるところに無限の喜びがかもし出される」!
「芸術とは何か?」を把握するについて、まだまだ「心境未熟の者」であると痛感致します。
「各人各様のオリジナリティ(創造)」、「無限の喜び」という言葉によって、〝真の自由に生きよ″(PL処世訓第21条)の教えが具体的にイメージできるのではないでしょうか。芸術の方向性に沿って創意工夫して自由に表現していくことによって、「無限の喜びがかもし出される」ことを実感できるに違いありません。
「誠をこめて物事をしなさい」とよく言われるのは、誠をこめるとそこに真理(神)が表れて来、「無限の喜びがかもし出される」からにほかなりません。