2024.02.11
近鉄郡山駅から大和八木を経由して桜井駅で下車。南口バス停から大宇陀行きの奈良交通バスに乗る(※本数少ないので要注意)
バスに揺られること40分程で終点道の駅「大宇陀」に到着。ここから宇陀松山城を目指すこととなる。
道を渡り少し行くと「まちかどラボ」という案内所がある。ここで続100名城のスタンプをもらうとともに、登城についての情報を得る。案内の方が「まちかどラボの裏口から外に出ると、トイレがあります。さらにそこが登城口になります。20分ほどで到着できると思います」と丁寧に説明してくれた。
登山道は綺麗に舗装されており「あと600m」など100m刻みの標識もある。残り100mから急勾配になり舗装もなくなる。少しぬかるんでいる場所あり登りづらかった。
そして登ること20分あまりで、城門(雀門)跡に到着。虎口の遺構を見ることができる。
城門跡をさらに登ると本丸跡に着く。ここに城の主要部分があったのだろう。奥には天守郭と呼ばれるエリアがある。天守“郭”ということから、通常イメージする天守“閣”の跡地というよりも、望楼など高い建築物で構成された天守“エリア”と言ったイメージの方が合っているのではないか?
天守郭からは、宇陀の街や周りの山々を一望することができる。写真では木々に覆われて手前の部分を見ることはできないが、周りの杉の木は明治以降に植林されたものだから、当時はもっと木の丈も低く見晴らしが良かったことだろう。
豊臣秀長が大和一国の領主として大和郡山城に入った後、この城も大改修が加えられ、城下町も整備された。しかし大坂夏の陣後、城主の福島高晴(福島正則の弟)が大阪方への内通を疑われ改易、城は取り壊された。この城の取り壊し(城割り)を担当したのが、茶人・作庭家として有名な小堀遠州だったことが、近年発見された自筆の書状から明らかになったと案内板に記載があった。藩としてはその後も続き、織田信雄などが藩主となっている(城ではなく、別の場所に屋敷を構え政務をとった)が、織田家が転封されその後は明治維新まで天領となっていたそうだ。
本丸からの眺めを楽しんだ後、帰りも同じ道を戻る。ぬかるんだ場所は登りより大変。さらに掴まるところも少ないため、最上部100mの未舗装区間は注意が必要。慎重に降りると、残り500mは舗装された道。のんびり進みまちかどラボまで無事下山することができた。
城下は旧街道が走り、現在も「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、当時の繁栄の面影を残している。城下町といっても江戸時代を通じて城のなかった時期の方がずっと長いが、街道筋の旧城下町として発展したのだろう。薬や酒などで栄えたとまちかどラボの案内人が教えてくれた。
宇陀松山城は見学はここまで。バス停に戻り、今度は榛原(はいばら)行きのバスに乗る。こちらは1時間に1本程度あり、桜井に戻るより便が良かった。
久しぶりの本格的山城。登り切った後の達成感は登山のそれと共通するところがあって楽しいが、体力のなさを改めて感じた。これからも続100名城巡り続くのでもう少し体力をつけて臨みたいところである。