11月14日

 

苦肉の策で、青森の横浜の滞在時間を1時間少しに

したおかげで3時間のアドバンテージができました。

 

この時間を有効に使えるところはないか

地図とにらめっこしてると、青森の郊外に

 

見つけて機会があればずっと行きたかった

「八甲田山雪中行軍遭難資料館」に行けるのではと。

 

野辺地駅の乗り継ぎ時間が10分くらいしかないので、

鉄道防雪林は車内から。

 

小さなレールバスが走っていた南部縦貫鉄道の跡は

空き地になってるだけで跡形もなくなっていました。

野辺地から青森の一つ前、筒井駅まで

新幹線並行在来線の青い森鉄道。

東青森で貨物線が別れ真新しい高架駅の「筒井」

20分の乗り継ぎで青森市営バス田茂木野行きに接続。

 

酸ケ湯方面は時刻表に載ってますが、

市内線は載ってっませんでしたが、「えきすぱーと」に

 

乗り継ぎダイヤが出てきました。

 

 

田茂木野は八甲田山のふもと。

例によってお客さんがいなくなったところで

 

もよりの「幸畑墓苑」で下車。

全体が平和公園になっています。

 

ここ、見つけてからずっと行きたかった場所でした。

 

 

小学生の頃の軍記物のヒット映画「八甲田山」は

青森5連隊の八甲田山遭難事故をモチーフにした作品です。

「天は我々を見放した」のセリフが流行りましたね。

小学生だった私に何が刺さったのかわかりませんが、その後

 

「203高地」「大日本帝国」など戦記物を見にいったり

図書館で調べたり、今の近・現代好きのきっかけとなった作品です。

 

その入れ込みようは、父親に頼んで八甲田山に

ドライブに連れてってもらったくらい。

 

 

その後、明治〜終戦まで調べたりドキュメントを見たり、

あの6時間の超長編「東京裁判」まで見てしまう

 

妙な小学生となった、今の至る原点。

分類としては「マニアック博物館」ですが、結構入れ替わり

見学に寄る人がいました。前を通る県道は裏八甲田を通るので

 

上の方で遭難現場を見て下ってきたのでしょうか。

 

 

玄関から中に入ると、後藤伍長が立ったままの姿で発見された

銅像のレプリカは目を引きます。

オリジナルは八甲田山中の丘の上に建っています。

最初、導入の15分くらいのビデオを見ます。

 

 

「物語」として八甲田山を知ってれば、描かれてない

「裏設定とサイドストーリー」や「その後」が興味深いです。

 

 

展示は主に「表に出ている事実」と対する「裏設定」で

順路は進んでいきます。個人的には「サイドストーリー」や

 

「ずっと明るみになってなかったこと」「遭難事故のその後」が興味深かったです。

「八甲田山で見たことは口外無用」と口止めされてたから

 

いくら探しても細かい真実まではわからなかったわけです。

 

 

また、全行程を一人も脱落者もなくコンプリートした弘前三一連隊でしたが、

成功の祝福をされることもなく影に隠れてしまいました。

 

 

書き出すと3回くらいになりそうなので、自制。

 

 

この青森五連隊の世界の山岳史上前代未聞の遭難原因は諸説ありますが、

根底の精神的構造的な部分は、未だに社会に流れている気がします。

 

まったく進歩がないというか、学ばないまま今にきてると思いません?

 

墓地は階級別の区画ごとになっており、それぞれ参拝にをしてあとにしました、

幸畑墓苑を通るバスの本数は少ないですが、

 

県道が交差する幸畑までくると本数が多いのです。

行きと同じルートのバスですが、下校の高校生でいっぱい。

 

筒井駅前に戻り、駅の先にある青森高校に。

この土地は旧青森第五連隊連隊があったところで、

 

道に面した通用口に門柱が残っているのです。

 

筒井にきた青森行きも高校生でラッシュ状態。

2両編成でタダでさえ混んでるのに、ドアそばに固まるので乗るのに難儀しました、

 

2軒の大きな駅ビルができる青森駅。

 

 

東横イン青森駅前泊まり。

 

次の日からの行程は「乗り鉄」メインになります。