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缶チューハイ。


飲まなきゃやってられないときもある。
母親になったって。



でも、とことんやさぐれたいのに、息子のお迎えを考えて一本。


床に寝転がりながら飲んで、この際とことん腐った女化したいのに、その床には、息子のために敷き詰めた柔らかなマット。
トゲトゲした気持ちも、吸収してくれやがる。

目の前には息子の絵本が並び、壁を見上げれば息子の温かな絵。
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飲んでる気がしない。
やさぐれられない。


なんだっけ。
ミスチルの、花?
負けないように 枯れないように 笑って咲く花になろう、って曲の
「悲しみを ただ優しさに 変えながら 生きてく」っていう歌詞が突き刺さる今日この頃。


さぁ、柔らかなマットに吸い込まれちまう前に、気を取り直して頑張ろう。
私、いつもグレーや茶色や黒ばっかり折ってるー


息子はまず自分の好きな青系や緑系の折り紙を選んで、それがなくなると紫、さらにそれがなくなると赤や黄色やオレンジなどの明るい色。



私は、余るのが分かっているから、いつも自ら渋い色を手にとることになるわけで。


グレーも茶色も黒も、洋服や家具なんかではいい色なんだけど、折り紙となると、ずっとそれだけだと、なんだか段々暗い気持ちになってくるよ
楽しさ半減だよ。

でも偏った色が余るのイヤだから、私はせっせとダーク折り紙。


いつか、息子のことを気にせず、自分の好きな色で折り紙を折りたい。

あ、でも、子供と一緒じゃないと折り紙なんてもうしないか。


じゃあまぁ、例えダーク折り紙でも、大人になってまで折り紙できる機会を与えてもらえてるだけで幸せと思おう。
幼稚園から、「夏休みの間は、お手伝いをたくさんさせてあげて下さい」と言われてます


今のとこ我が家では、テーブルを拭くのは息子の毎日の仕事。
他には日によって、お料理を手伝ってもらったり、洗濯物を一緒にたたんでもらったり。



で、ふと思う。



昔は掃除機がなくて、ほうきで床を掃いていたんだな。
洗濯機がなくて、たらいと洗濯板でゴシゴシやっていたんだな。
お風呂沸かすのも一仕事だったろうし。
我が家にはないけど、食器洗い機が今では食器を洗ってくれたり。
ね。


昔のお母さんは、今よりずっと大変だったよね。
だからきっと、子供がお手伝いするのも当たり前だったんだろうなー。
お手伝いをしてお母さんの仕事を減らさないと、一緒に遊んでもらう時間もないくらいだったのかも、なんて。
むしろお母さんが忙し過ぎで、お手伝いをすることがお母さんとの時間でもあったのかな。


電子レンジで時間短縮、とかもないしね。



夏休み、息子とどうやって時間を使おうかと頭を抱えていたけど、これは贅沢な悩みかも。
お手伝いしてもらわなきゃならない程、私が忙しくないっていうね。


ほうきで床を掃き、ゴシゴシ洗濯をし、じっくり料理をし、カチャカチャ食器を洗い、 昔の子は、家にいながら、ただお母さんと同じことをして過ごすだけで、自然と多くのことを身に付けていたんだろうね。
そう考えると、昔の子供が羨ましくもあり、文明の利器が恨めしくもあり。

いや、かと言って、今更掃除機と洗濯機を手離して生活なんてできないし、するつもりもないんだけど( ̄ω ̄)
まぁでも、ロボット掃除機は確実に買わないなぁ


便利さに惹かれて知らず知らず、学ばせる機会を自ら失ってきたのに。
習い事や知育玩具や教材、良いと言われるものを新たに与える、という。
それもなんだかなぁ。
違うよなぁ。
もちろん誰も教育を、文明の利器で失ったものの埋め合わせにしてるつもりなんてないんだけど。


果たして私は、昔のお母さんが何気ない普段の生活を通して子供たちに与えていたものと同じだけの価値あることを、何を通して息子に与えられるんだろうか。


ああやだ私、今日も相変わらず理屈っぽいっ