私がFacebookに登録したのは、かなーり前でした。アメリカの友達に誘われて登録してそのまま放置。何年かして日本で流行して、「やってる?」「一応やってる」ってなって。でも、FBメッセージをもらっていることに半年後に気が付いたりする酷さだったのです。
数年前から、たまにアップしていましたが、当時は人が読むということを考えず、自分のため。自己顕示のために使う場だと思っていったので、思いがけない人にコメントをもらうと恥ずかしくなったりして。もしくは、自分がアップした記事にメッセージもらったことに気が付かず、数か月後に返信、もしくは永遠に放置なんてこともあったと思います(今でもたまに)。
私はブログもFacebookも、基本的に自分が書くことが楽しいので、書いたら、その後どれほどの人が見ているかは全く気になっていませんでした。だから、「いいね」の数がどうとか、ましてや「○○の記事書いたら、友達の×ちゃんが『いいね』をくれていた」という会話も、「本気で言ってるの?」と思っていました。
ちゃんと記事を読んだ上で、「いいね」を押すかどうか判断している人が、どれぐらいいるかな?て。
私も人の記事を全然読んでいなかったので、久しぶりに会った人の近況に驚いたら、「FBに書いてたよ」って言われて、「ごめん」ってことも。一方的に記事をアップして、大多数と同時にコミュニケーション取っているつもりの人がいるということに違和感がありました。
「楽しいホームパーティしました。でもあなたは呼びませんでした」って伝えることって、愛のある直接のコミュニケーションなら絶対しないこと。そんなことまで思ったりして冷めていました。でも、今はそんな面倒な感覚は失ってしまい、「楽しそう」と言ってくれる人がいれば、「次は一緒に!」って言えば良いんだし、そういうコミュニケーションもあるかなと開き直るようになりました。みんなも、本当に楽しいデートのこととかは書いてないし、リアルなコミュニケーションとは全く別の、FB上でのコミュニケーションだと納得。
シェアに至っては、その意味をまったく理解していませんでした。アップされたから、「○君がこんな記事書いたんだ」と思ったら、よく見たら「人の記事?流用?」って。ごく最近、なるほどと思った記事を友達にシェアする意味、シェアされる人への意味がやっとわかったばかりです。
今は、FBでコミュにケーションを取ったり、自分が良いと思った記事をシェアしたり、そういうことが楽しいということが理解できてきました。
「いいね」にも注意が向くようになり、「いいね」や温かいメッセージをくれる人のありがたさとか、優しさ、マメさも理解できるようになりました。全部の記事は見れないけれど、自分の記事に「いいね」をしてくれたり、メッセージをくれた人の記事は、そのまま名前をクリックして読むようになりました。メッセージへの返信は、短い中にも結構心をこめています。
たまたま開いた時にアップされている記事を読んだときも、親しさの度合いに関係なく、記事の内容に関係なく、相槌のかわりに「いいね」をしています。
やっと私にとって、FBが単なる読み物でも日記でもなく、コミュニケーションだといえるようになってきたかな。
余談ですが、地元にいる幼馴染とか私の親友には、FBをまったくしていない友達が何人かいます。FBしていなくても、すごく良い仲間がいて、自分の世界を楽しんでいて、幸せな友達たち。勝手だけど、彼女たちがFBのコミュニケーションを楽しいと思う姿が想像できず、もしそうなったら私はちょっとショックかも。
ところで、フェイスブックにdislike(日本語訳は未定だけど、「やだね」有力とか)ボタンができそうです。
https://www.facebook.com/qawithmark/videos/992176984173410/
FB誤操作が多い私。相槌の代わりに、間違って「やだね」を押すことが頻発しそう。私を理解してくれている昔からの友達は、「ミッキーまた変なことしたでしょ!」って笑ってくれますが、そうでない場合気を遣うからイヤだなぁ。
ちなみに、利用者からはI'm sorry(お気の毒)、 Imteresting(おもしろい)のボタンも欲しいという声があるようです。
もし、Indifferent(関心なし)、 So what(だから?)っていうボタンができたらどうしよう。リアルでは絶対に言わないようなことを、平気でクリックされるようになったら、さすがの私も「書くだけで満足」なんて言えなくなって、すごーく気にして、寝込んだりするかもしれません。