「家族の思い出記録」かさこさん父編・全文~サンプルとして~ | 言葉のプロデューサーなまず美紀の日記「先生あのね」

「家族の思い出記録」サービスで私が取材・執筆した内容は、基本的にご家族の中だけのクローズなものになっていましたが、依頼主のカメライターかさこさんのご好意で公開が実現。


お母様編 に続き、お父様編です(個人名ほか、一部公開向けに改訂済)。



「かさこ父が語る、かさこの子ども時代」


取材・執筆:家族思い出記録ライター鯰美紀


息子の誕生

 息子の母方の実家は、3代ほど男児に恵まれず養子を迎えていたため、息子が生まれた時、あちらの実家は大喜びでした。みんなに大事にされて育った子です。

 息子の誕生の連絡を、僕は自宅の掘りごたつに入って待っていました。ウトウトしている時に電話が鳴って、あわてて立とうとしたら腰をひねってぎっくり腰に。1週間後に退院してくるまで息子に会えなかったというエピソードがあります。息子と最初に対面した瞬間のことは覚えていませんが、赤ちゃんはとにかく小さかったというイメージです。

 

父子で頻繁に出かけた幼少期

 息子の母親が育児休暇中は、僕が仕事から帰る時間に合わせて、母子で途中まで迎えに来てくれていました。うれしくて、「お礼に」なんて言いながらミニカーや電車を買ってやっていました。母親が職場復帰してからは、週末の子守りは僕の役目。動物が好きな息子のために、野毛山動物園や上野動物園に行き、エサやりをしたり動物と触れ合ったり。蒲田のタイヤ公園にも度々行ったほか、大田区大森の交通公園に蒸気機関車を見に行ったこともありました。2~3歳の時は、途中で「歩かない」と言ったりするので、そういう時は抱っこ。大変なこともありましたが、父子で一緒に楽しめたのは良い思い出です。

息子は元気の良い子でしたがガキ大将タイプではなく、どちらかというと目立たないごく普通の子どもでした。僕は、「男の子はもっとわんぱくでも良いのに」と思っていたぐらいです。

 よく覚えているのは、七五三の時に息子に袴を着せたら、わが子ながらその姿がとてもかわいかったこと。すれ違う人たちからも口ぐちに「かわいい!」と言われ、親ばかですが、嬉しかったことを覚えています。


家族で本気で遊んだ小学生時代

 息子が小学校低学年、僕の友達の結婚式が大分であり、息子を連れて出席しました。行きは飛行機でしたが、帰りは息子の希望でブルートレインに乗りました。僕はほとんど覚えていないのですが、息子にとっては思い出深かったようです。

息子たちとは、親子というよりも遊び仲間の感覚でした。静岡の実家から息子たちに大きな鯉のぼりが届き、僕と息子二人で鯉のぼりの口から中に入って暴れまくったのも楽しかったですね。横浜市鶴見区から埼玉県上福岡市に引っ越してからは、自宅の前に遊べる敷地があったので、よくキャッチボールをしました。また、自宅から徒歩10分ぐらいの場所に会社の広大な敷地があり、体育館でバトミントンや卓球などもしました。広い芝生もあったので、ボールを打っては思いっきりスライディングして遊ぶことができて、親子とも真剣に遊んでいました。

 神経衰弱、ページワン、ダウトなどのトランプゲーム、漢字ゲームや数字ゲームもよくしました。漢字ゲームは例えば、「か」という漢字が何個書けるかを競うというゲームですが、漢字に強いのは母親と息子、僕は途中からまったく勝てなくなりました。僕は負けず嫌いで、子ども達と勝負する時も手加減をしませんでしたが、息子も負けん気は強いですね。遊びでも僕とはライバルでした。息子が高校2、3年生の時、父子で100m走を競って初めて負けた時は「とうとう息子に抜かされたか」とショックだったことを覚えています。

 小学生の時は、日本昔話をたくさん買って来て読ませていました。そのうち僕の方がのめり込んでいましたが。息子が高校生の頃、小説「グイン・サーガ」に夢中になり、僕も息子が読み終わった後に読むなど、お互いに読書を楽しんでいました。

 音楽に関しては、鶴見に住んでいた頃、イギリスのスピーカー・メーカー「タンノイ」のスピーカーと大きなデッキを購入し、僕はサイモン&ガーファンクルなんかを聴いていました。スピーカーは子どもたちがペンを突っ込んで穴が開き、引っ越しの際に手放しましたけれど。息子はカラオケ好きですが、僕は苦手。前奏から歌に入るタイミングがわからず、息子に「はい、ここ!」なんて特訓を受けたこともあります。息子も最初の頃はそれほど上手ではなかったと思うのですが、ある時、「よく声が出るようになっているなぁ」と思った記憶があります。

 勉強のことには干渉せず、中学生の時に、「中間テストってどうやって勉強するの?」と聞かれ、「ここは出るぞ」と教えたぐらい。次男は教えても勉強しないタイプでしたが、息子は真面目に勉強してコツをつかんで、その後は親が出る幕はありませんでした。基本的には放任主義でしたが、家族で一緒に過ごした時間は、周囲の家族に比べてもダントツに長かったと思います。周囲からも、「高校生や大学生になっても家族で旅行するなんて、すごいですね」なんて言われていました。


息子の粘り強さには脱帽

 息子が小学3年生の時に、静岡の祖父母宅から鶴見の自宅まで、誰にも言わずに一人で戻ってくるという事件がありました。この時は無謀な行動を怒ることなく、「よく一人で帰ってきたな」と褒めましたが、普段は息子を褒めることは少なかったと思います。息子の性格は僕にとてもよく似ていて、その分、息子が何を考えて行動しているのかわかるし、その性格で損をすることも見えてしまうので、余計に腹立たしくなることもあります。ですから、どうしても次男に比べて息子のことを怒ることの方が多かったように思います。原因は忘れましたが、息子が小学生の頃は社宅のふすまを突き破るような取っ組み合いのけんかをしたこともありました。

 息子の良い所は、行動力があって機転がきくところ。人に頼むより、何でも自分で動いて行動するのは、僕と似ていると思います。僕も息子もウサギ年で、じっとしているのが苦手で、ピョンピョン行動している方が楽しいのだと思います。

 僕は新潟県の出身で粘り強さがある方だと思いますが、そんな僕でも感心したのは、息子が中学から高校までの6年間、バスケットボール部の練習を一度も休まなかったこと。ずっと補欠だったのに、です。その粘り強さ、辛抱強さは本当にすごいなと思っていました。息子は優しいところもありますよ。弟のこともかわいがっていて仲良しでした。


息子の仕事のことは、ついつい気になる

 息子の進路について口出ししたことはありませんが、接客業は経験したら良いと思っていましたので、マクドナルドでアルバイトを始めた時は、良いバイト先を選んだなと思っていました。最後はマネージャーを任されたそうなので、しっかりやっていたのだと思います。息子は、くそまじめで融通が利かない性格なので、漠然と「客商売よりも技術屋の方が合っているのかな」なんて思っていたことはあります。ただ、基本的には本人に任せて、やりたいようにやれば良いと思っていました。

 就職に関して今でも心にひっかかっていることがひとつあります。息子は大手鉄道会社の採用試験も受けていたようですが、僕は事前にはそのことを知らず、「4次面接で落ちた」という息子からの報告で初めて知りました。その報告の電話を受けた時のことが今でも忘れられません。僕はゴルフ場で電話を受けたのですが、息子が「4次面接では『社内に知人がいるか』と縁故の有無について聞かれ、「いない」と答えた」と言うのです。実は、仕事の関係で僕にはその会社の知人がたくさんいました。当時、単身赴任をしていたこともあって、息子とのコミュニケーションが不足していたため、就職活動の詳細を把握していなかったのです。「事前に知っていたら誰かを紹介できていたのに、気の毒なことをしたな」と今でも思っています。大企業であれば今より安定しているでしょうし、「適応力もある息子は、うまくやっていたのではないか」と思ったりもします。

 漢字は得意な息子ですが、文を書くことが上手だという印象はなかったので、本を出版した時は驚きました。内容はともかく、本が出版されたという現実、息子の行動力はすごいと思いましたよ。今は好きな仕事をできているようですが、僕は古い人間ですし、やはり子どものことは心配なので、ついつい気になってしまいます。


父から、息子へ

 自分で好きで進んでいる道なので、最後まで自分なりにがんばって欲しいと思います。

僕は会社で何度も、「調子に乗り過ぎて失敗する」ということを経験しています。息子も僕に似ているので、集団生活の中で調子づいて相手に失礼なことをしていないか、ずっと気になっています。お客さんあっての商売では、天狗になってはいけないと思っています。自分では気づくことができないので、それを気づかせるのが私の役目なのかなという思いもあって、ついつい辛口なコメントをしてしまいます。わが子というのは、どれだけ成長しても、親にとっては子どもであり、心配だからいろいろ言ってしまうのです。息子には、親として同じ立場にならないと、わかってもらえないかもしれません。

 
以上


▼依頼主のかさこさんが、ご自身のブログで感想を書いて下さっています。

http://kasakoblog.exblog.jp/


お父様取材の裏話はこちら

お父様・お母様のこぼれ話はこちら