自宅介護になったのは、義母が「家に帰りたい」と言ったから。お医者様も、最期の願いは叶えてあげようということだったんでしょう。
自宅介護用のベッドを買い、いろいろと準備を整え、義母を迎えました。

この頃はまだヘルパー制度もきちんとできていなかった(と記憶してます)ので、家族で介護するのが大変でした。
とくに義母は糖尿病も併発していたので、毎日3食の食事を糖尿病食にして、インスリン注射をするのが私の役目であり日課でした。

毎日どんなものを作れば義母が食べてくれるのか、そればかり考えていた気がします。
嫌になるほど作った糖尿病食、今でも作れます。
(今は料理しませんが)


人間の最期って儚いです。
義母はそのまま体が弱っていき、息子たちのことも忘れてしまいました。最期まで覚えていたのは義父のことだけ。
夫婦の絆ってすごいな、って思いました。

大たい骨を自然骨折し、また入院することになり、そのまま老衰のように静かに亡くなりました。
54歳でした。

自分の父が死んでも涙は出なかったのに、義母のときは泣きました。ずっと娘でいたかったな~って。

誰にでも親切な義母だったので、お葬式には500人以上の人が来てくださいました。
ご近所さんがビックリしてたっけ。
ただの田舎の主婦に、それだけの人、来ませんよね。

私が死に装束を着せてあげて、死に化粧もしました。
どれだけ親孝行できたかわからないけど、私に母娘の時間を与えてくれた義母には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

しばらくは悲しみでいっぱいでしたが、介護生活は、ここで終わりではありませんでした。


つづく。